異形の闊歩する中へ
病院の地下シェルターへとやってきた紗夜は、その現状に言葉を失った。
神屍の襲撃によって負傷した者の数が多い。重軽症の程度に差異はあれど、全体のおおよそ七割近くの人間が何らかの怪我を負っていた。
無傷な者は看護師らと共に負傷者の手当てに奔走している。シェルター自体は二〇〇人ほどであればゆうに収容できるほどの広さを持っているが、その内情は、決して楽観視できるものではなかった。
「……怪我人が多すぎます。負傷者がいる上にこの人数ですから、地上を移動するのはやめておいた方がいいと思います」
痛みに呻く人々の顔を悲しそうな目で見渡しながら、紗夜は傍らに立つ黒郷達にそう告げた。
「だが、このままじゃ命に関わる者もいる。早く確かな治療をしなければ、手遅れになるぞ」
「……治療の道具はあとどれくらいあるんですか?」
この質問には、未來が答えた。
「最低限、ここにいる方々全員を手当てできるだけの備蓄はあります。ですが、黒郷さんも言ったように、患者さんによっては怪我の程度が酷い方もいて……そういった方を治療するための道具や技術は、ここにはありません」
「そう、ですか……」
未來の言葉に、紗夜は押し黙った。
正直なところ、無理を強いて地上に出るよりも、正規の機士が来て神屍が討伐されるまでシェルター内にいた方が、全体的な生存率は高いだろう。しかし、だからとって重症者を見捨てるわけにもいかない。その為には神屍の闊歩する地上へ出る必要が少なからずある。
紗夜は、静かにシェルター内へと視線を巡らせた。
ここにいる人達は全員が生身の人間だ。ホロウの力によって傷一つ負わない自分とは違う。ともなれば、自分こそが真っ先に地上への道を切り開くべきなのだ。
「……、」
逡巡が焦燥を生む。
だが、つい昨日まではただの女子高生に過ぎなかった彼女にとって、現状で即座に最適解の選択を見つける事は不可能に等しい。巡り続ける思考はやがて彼女の精神状態を乱し、正確な判断を下す事を困難にさせる。
そんな悪循環の坩堝に嵌まり込んでしまった彼女に、ふと掛かる声があった。
「だったら、ここから近いシェルターを回って、腕のある医師を連れてくるのはどうでしょうか?」
その声は、紗夜達のすぐ傍らで治療にあたっていた看護師の女性によるものだった。
未來よりも少し年若い印象のある彼女は、床に寝そべる患者の足に包帯を巻いてあげながら、紗夜達に言った。
「この病院の近くには、学校や図書館などの公共施設が多数あります。そういった場所には必ずシェルターがありますから、もしかしたらそこに避難した人達の中に、ちゃんとしたお医者さんがいるかも知れません」
「……なるほど。その案だと、大勢で移動する必要もないな」
女性の言葉に、黒郷は腕を組んで頷いた。
「よし、なら最も近い場所にあるシェルターの位置を確かめよう」
「あっ、それなら私、調べなくても分かります! この病院から三〇〇メートルくらい西の区画に理化学研究所があるので、まずはそこに行けば良いと思います」
素早く未來が応じた。
そうして黒郷が懐から携帯端末を取り出し、マップで詳細な位置を確認し始めると、未來は近くの看護婦数名に幾つかの指示を出して回り始めた。
この悲惨な状況下にあっても常に前向きな意思を持ち続け、この場にいる人達を救うために行動する彼らを見て、紗夜は思いがけず我に返る。
こうして無謀と無茶を押し通してまでここへやってきたのは、この悲惨な状況下から街の人々を守りたいと強く思ったからではないのか。ならばこんなところで余計な膠着に嵌まり込んでいる場合ではない。下手にいろいろ考えて足踏みをしてしまうくらいなら、なりふり構わず駆け回れば良いではないか。
そう考えた紗夜は、数瞬前まで逡巡に逡巡を重ねていた自分へ喝を入れるために、自らの両頬を思い切り叩いた。
バチンッ、という乾いた音が鳴り響き、黒郷と未來が驚いたようにこちらを向く。
一般人でありながら決して折れない強い意思を持つ二人へと、覚悟の決めた貌を返す。
「すみません! もう大丈夫です! お二人の護衛は任せてください!」
そう力強く告げた少女に、黒郷は一瞬だけ顔を見合わせ、直後に小さく破顔した。
「あぁ、よろしく頼むよ」
「頼りにしていますね、雪村さん!」
二人の笑顔を見て、紗夜もまた笑みを返しながら頷く。
そうだ。
自分に出来る事は限られている。最初から全てを救おうなどと考えるのは、自己満足の正義感を蛮勇と勘違いした愚か者のする事だ。
この場にいる全員を救いたい気持ちは変わらない。けれどまずは、全員を救う道に繋がる工程を順繰りにクリアしていく事が大切だ。そのためにまずは何をするべきか、今の自分が為さなければならない事とは何かを取捨選択する必要がある
自分の中で一つ一つ回答を見出してゆく紗夜の胸中は、既に一切の迷いを捨てていた。
地図で目的地までの経路を確認した黒郷によれば、この地下シェルターがある病院から目的の理化学研究所までは神屍が通れないような細道がいくつもあるため、途中までは安全に進む事が出来るらしい。
だが研究所へ辿り着くには障害物も何もない開けた大通りを横切らなければならず、唯一その瞬間だけは非常に無防備となり、神屍に襲われる危険があるのだと言う。
周辺区域のマップを見せてもらっていた紗夜は、いま自分達がいる地点と目的地との間に、確かに幅の広い通りが横たわっている事を確認して無意識に歯噛みした。見たところ駅地下通路や歩道橋なども存在しないようで、黒郷の言葉通り、素直に地上を通過する他に選択肢はないようである。
「……シェルターへの入り口は、研究所の正面玄関とは反対側にあるんですよね? どこからか地下鉄の入り口を探して、大きく迂回してでも安全な道を進んだ方がいいんじゃないでしょうか」
黒郷へ端末を返しながらそう提案した紗夜に、男は僅かに思考する間を置いて、小さく首を横に振った。
「駄目だ。この辺りは駅同士の区間が広いせいで地下の連絡路が殆ど存在しない。一番近くてもここから二キロ以上は離れている。安全のためとは言え、そちらを目指すのは愚策だろう」
その言葉に、紗夜と未來の視線が揃って地面へと落ちた。
彼らは今、地下シェルターを出て病院の裏手にある小路地に身を潜めている。耳を澄ませば、住民達の悲鳴や怒号、神屍のものと思われる重質な足音が聞こえてきて、紗夜は自然と己の肩を掻き抱いた。
あくまでも目算ではあるが、出撃要請を受けた機士がここへ来るまでにあと数十分はかかる。監理局から病院までのおよそ二〇キロを、紗夜であっても十五分で踏破する事が出来たのだ。歴のある機士であればそれよりも早い時間で到達出来るだろうが、現在も刻一刻と住民が神屍に襲われているかも知れないと考えると、背筋に震えが走ってどうしようもなくなる。
そんな紗夜の胸中を見て取ったのか、未來が彼女の肩に優しく手を触れた。
「雪村さんが責任を感じるような事は何もありませんよ。だってこうして私達を助けに来てくれたじゃないですか。雪村さんが来なかったら私達は死んでたかもしれません……そう考えれば、貴女は立派に機士のお役目を果たせていると思います」
「……須藤さん」
女性の柔らかな声に、紗夜は自然と心が解き解れていくような感覚になった。
まぁ、助けたといっても着地に失敗したその二次被害的に神屍を吹き飛ばす事が出来ただけなのだが……そう思い出して苦笑しかけたが、胸の内だけに留めておいた。一つ呼吸を置いて頭の中をクリアにし、未來へ微笑みを返してから正面に向き直る。
「では、当初の予定通り、基本的には選んで進みましょう。大通りに辿り着いたら私が周囲の安全を確認するので、神屍がいないタイミングを狙って役所へ入りましょう」
「そうだな。その手筈で行こう」
少女の言葉に黒郷は頷き、だが直後に痛みを堪えるかのように顔を顰めた。
彼が額に巻いている包帯には微かに血の色が滲んでいる。今も絶えず鈍い痛み走っているのだろう事がよく分かる。本来であれば彼もまた、病院のシェルターにいる者達と同様に安静にしていなければならない人間なのだ。
それでも無理を押してこの場にいる男に、紗夜は案じるように声をかけた。
「あの、黒郷さん。やっぱりお二人はシェルターに残ってもらって、私だけで向かった方がいいと思うんですけど……」
そんな伺いに、男は頼もし気な笑みで振り返りながら応じる。
「言っただろう。もしも向こうのシェルターに医師だけでなく治療の道具もあった場合、一度ここに戻って重症の患者を移動させるより、直接持って帰ってきた方が得策だ。出来るだけ多くの物を運ぶのならば、男手の一つくらいあった方が良いだろう?」
それに、と視線を前方に戻しながら男は続ける。
「須藤くんも君も私を心配しすぎだ。こう見えて大学時代は、柔道の都大会で一番になった事もある。身体の頑丈さはお墨付きさ」
「……そう、ですか」
心配の色を残しつつも、紗夜は引き下がる。未來もまた、研究所のシェルター内に医師がいた場合に於いて即座に患者達の状況を伝えられる者がいた方がいいと言って、随行を買って出てくれている。唯一死の危険を持たない自分が彼らを守らなければと決意して拳を握り込んだ紗夜は―――だが先ほどから懸念している事を思い出して、自らの身体を見下ろした。
現在の彼女はホロウによって不死の肉体を持つ機士となっているものの、一切の武装を持っていない丸腰の状態なのだ。
ホロウ使用直後に感じ、だが些末な事と判じて切り捨てた不審点が、ここに来て紗夜の不安を煽り始める。この状態でもしも神屍と遭遇してしまったら、現状、逃げる以外になす術がない。
けれどそんな状況を黒郷と未來に悟られたくなくて、変な渇きを覚える口を紡ぐ。今はひたすらに研究所のシェルターに辿り着く事だけを考えればいい。
そう判じて勢いよく立ち上がった。
「行きましょう! 私が先頭を進むので、お二人はあまり距離を空けずに付いてきてください!」
そう言って三人は、神屍が跋扈する地帯を目指して歩き始めた。
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