動乱、その渦中にて

 国際市民防衛機関ICDO神屍対策全権監理局東京支部に所属する支機官、葛山くずやま昌平しょうへいは、未曾有の危機を迎えた街中で動乱に見舞われていた。

 彼は支機官の中でも頭ひとつ秀でた腕を持ち、同行すれば決して命を落とす事がないとまで言われた生還率ナンバーワンのベテランである。最小限の装備のみを携行し、あらゆる辛苦と恐怖に耐え抜き最大で一年もの間、死廃領域で探索を継続した異例の実績すら持つ。

 ――そんな彼でさえ、現在の状況は手に負える範疇をゆうに超えていた


「……クソが、機士連中はまだ到着しねぇのかよ。いい加減に俺達だけじゃ捌き切れなくなってくるぞ」


 葛山を含む二〇人の支機官は、およそ一週間に及ぶ死廃領域探査を終えて市街地に帰還したまさにそのタイミングで、監理局より神屍侵入の伝令を受けた。

 そして疲労の溜まった五体に鞭を打ち、総出で現場へ急行してみれば、彼等の目に映ったのは神屍によって破壊された幾つもの家屋や、悲鳴を上げながら逃げ惑う数十数百の住民の姿だった。

 幸いに未だ死人は出ていないようだが、道のあちこちに怪我を負ったと思われる人々が見受けられ、避難者の波に僅かな揺らぎが生じていた。

 住民全員が思うままに逃げていては駄目だと判じ、監理局からの連絡を待たずして、葛山は他の支機官に対して住民達の避難誘導に当たるよう命じたのだ。

 とは言え、やはり現場の人間だけでは下せる判断の程度に限界があり、少しずつ手が詰まり始めたと思った矢先、オペレーターである華嶋李夏との回線が繋がり、彼女から今後の行動について指令を受けた。

 今は住民の全員を、街の各所に設けられた地下シェルターに導引しているところだった。


「機士が来るまで二〇分かかるっつってたよなぁ。オイ有馬ありま、今どんくれぇよ」

「華嶋さんから通達を頂いてから、そろそろ十五分が経過しますね」


 背負っていたリュックや諸々の携行品を全て置き捨て、身軽な格好になった葛山と彼の後輩である有馬は、今はとあるシェルターへの収容作業を終えて地上へと続く階段を昇っているところだった。

 一回り以上年の離れた後輩の言葉を聞いた葛山は、思わずと言った風に舌打ちを鳴らす。


「甘っちょろい仕事しやがる。どうやら神殺しの力を持つお歴々は、俺達を過労死させても何ら構わねぇみてぇだ。仮に死人が出たところで何の責任も感じねぇヤツばっかなんだよ」

「今はそういう悪口は止めときましょうよ、葛山さん。士気に関わりますって」

「んなの知るか。愚痴くれぇ吐かせてくんなきゃ俺のやる気が続かねぇっての」


 そう吐き捨てると、懐から一本の煙草を取り出して口に咥え、オイルの少なくなったライターで火を付けた。くうに煙を吐き出しながら、彼は忌々し気に眉を顰める。

 葛山昌平は、有り体に言って機士が嫌いだった。

 彼等は全て、少し特別な玩具を与えられただけでそれがどんな価値を持つかも分からずに扱う子供に過ぎないと、そう思っているからだ。

 特にここ二、三年の間に機士となった者には、総じてその傾向が強く見られている。

 自分達が一体どれほどの責任を背負っているのかを正しく把握しておらず、まるで遊び半分であるかのように任務へ臨む。

 その落ちぶれた体たらくに、葛山は心の底から嫌気が差していた。


「まったくよぉ、組織体系は何も変わってねぇのに、何つーか、そいつを構成する人間が腐っちまったなぁ。どんだけ重症を負っても死なねぇっつーシステムの安全弁が、連中から危機感を奪う原因になっちまった。今じゃゲーム感覚で得物を握る機士もいるみたいなんだとよ」

「まぁ、確かに変わってしまったとは思いますけどね。が揃ってこの枢機市で役目に就いていた頃とは、ほんと丸っきり変わりましたよ」


 有馬の言葉に、葛山は先ほどとは違った意味で眉を寄せた。

 そして遠い記憶の思いを馳せるかのように視線を落とすと、ぽつりと言葉を漏らす。


「……あいつらがバラバラに散っちまって、もう三年か。早いもんだな」

「機士嫌いが筋金入りの葛山さんも、あの人達の事は気に入ってましたよね」

「馬鹿言え。俺が機士なんざ気に入るかよ」


 後輩の言葉にひらひらと手を振りながら、けれど葛山は顰めた眉根をほんの少し和らげた。


「ただ、あいつらは何つーか、覚悟の質ってやつが他とは違った。そんだけだ。全員が全員、神を殺すって事の意味を理解しながら、それでも笑って神屍を殺しまくってたな。正気の沙汰じゃねぇ。今思い出しただけでも怖気が走るぜ」

「はは、特に湊波さんと織守しきもりさんは、どんなときも笑ってましたからね」

「……あぁ、確かにな」


 数年前のある出来事が原因で今も入院しているという女性機士の事を思い浮かべ、葛山の顔が曇る。

 それと同時に、彼女とよく一緒にいた少年の姿も、彼の脳裏を掠めた。


(……あのガキ、うっかり孤独死とかしてねぇだろうな)


 小さいくせにやけにこまっしゃくれたところのある憎らしい少年だった。彼の小生意気な態度に、何度げんこつを落とした事か。

 三年ほど前から滅多に見かけなくなったが、今どこで何をしているのだろうか。

 そこまで考えて、その思考は現状に於いて雑念であると判じて切り捨てた。気持ちを切り替えるときに癖で自らの頬を平手で打ち、頭の中をクリアにする。

 見えてきた出口の光に目を細めつつ、彼は背後を振り返らぬままに有馬へ檄を飛ばした。


「おっし、行くぞ有馬。もうちっとだけ踏ん張れ。少なくともこのエリアの住民くれぇは安全な場所に避難させるぞ!」

「はい!」


 威勢の良い返答を受けて、葛山はにやりと笑う。

 こんな状況でも笑えるとは、やはり長らく狂った世界で生きてきただけの事はある。

 そうして彼らは、阿鼻叫喚と動乱の飛び交う渦中に、進んで飛び込んでいった。



     ※



 枢機市第二経済特区の南端に位置する小さな病院。

 普段は老人や子供の姿が多く見受けられ、温かな笑顔に満ちている筈のそこは、現在、負傷した住民を治療するための場所として開放されていた。

 待合室にはたくさんのシートや毛布が敷かれ、そこに横たわる怪我人が絶えず呻き声をあげている。

 収容人数は既に五十人を超えている。薄暗い室内に苦悶の声や子供の泣き声が響く様は、さながら地獄絵図のようであった。

 そんな中を、複数人の女性が怪我の治療をすべく奔走している。この病院の看護婦として働く栖藤未來すどうみらいもまた、その一人である。


「すみません! どなたか診察室の棚からありったけのカテーテルと包帯、それと除細動器を持ってきてください! 早急にです!」


 彼女の指示に、二人の看護婦が待合室の扉から出ていく。

 それを確認した後に、未來は傍で蹲る若い男性に優しく声をかけた。


「大丈夫ですよ、ちゃんと助かりますからね。包帯が来れば患部を圧迫止血するので、今は出来るだけ仰向けの状態を維持していて下さい」

「……悪いね。迷惑をかけるよ」


 言われた通りに身を横たえながら、男性は笑って手を挙げた。

 何気ない風を装ってはいるが、彼の額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいた。恐らくは今も凄まじい激痛が襲っているのだろう。

 その事を思い、唇をきゅっと引き結んだ未來に、男性は視線で別の患者が集まっている方向を示した。


「私の事は後回しで大丈夫だ。それよりもあっちに行ってあげてくれ。子供が多い」


 言われ、未來もそちらを向く。

 十歳前後と思われる子供が何人と泣き喚いている。だが目立った外傷は無く、着ている服も比較的奇麗だ。

 瞬時に彼らの状態を把握した彼女は、男性に向き直り、小さくかぶりを振った。


「貴方の方がずっと重症です。下手に放置すれば命に関わります」

「なに、これしき。崩れた瓦礫に頭をぶつけただけさ。布でも巻いておけば勝手に血は止まる」

「馬鹿言わないで。私を人殺しにしないで下さい」


 未來の言葉に、男性は苦笑した。

 しばらくして診察室へと向かった看護婦が戻ってきた。彼女から包帯を受け取った未來は、まず患部にガーゼをあてがい、慎重な手付きで包帯を巻き始める。

 治療のさなか、気を紛らわすように二人は言葉を交わす。


「……まったく。ようやく取れた休暇だってのに、とんだ厄日になったものだ。会社のある九区にいた方が安全だったよ」

「ほんと、災難でしたね。普段は何のお仕事をされてるんです?」

「営業職だよ。至って普通のサラリーマンさ。そういう君は、ここの看護婦かな」

「はい。私も今日は非番だったんですが、のんびり休んでもいられなくなっちゃいましたね」


 おどけたように微笑む未來に、男性も笑みを返す。

 黒郷くろさとと名乗った彼は、だが直後に表情を曇らせると、徐に視線をフロア内へと巡らせた。それを見て、未來も周囲を見回す。

 今もフロアの至る所で未來と同じようにこの病院に勤める看護婦や、その他にも医療の心得がある者が、手分けして負傷者の治療に当たっている。

 神屍侵攻の危険と常に隣り合う今のご時世である。普段から災害時などにおける対処について訓練が行われているお陰で、状況の割にみな落ち着いて行動出来ていた。

 包帯を巻き終えた未來は、「よし」と言って立ち上がってから、その顔にほんの少しの憂いを滲ませて言った。


「……助かりますかね、みんな」

「どうだろう。神屍に対して私達人間は酷く無力だ。ならば、奴らに立ち向かえる力を持つ者達に頑張ってもらうしかないだろうな」


 言うまでもなく、それは機士だ。

 特殊な機械で神屍と渡り合う力を持っているらしい彼らなら、この現状を打破してくれるだろう。未來もそれは同意見である。

 ……だが、と。

 彼女は少し怪訝に思った。

 黒鋼壁が破壊され、この第二特区に神屍が進入してから既に三十分以上が経過している。

 にも拘わらず、外から聞こえてくるのは神屍の重い足音と逃げ惑う住民の悲鳴ばかりで、激しい戦闘音のようなものは一向として聞こえてこない。


(どうして機士はやってこないの……? 状況からして後手に回ってるのは明らかだけど、いくらなんでも対処が遅すぎる……)


 フロア内で怪我の痛みに耐えながら床に座り込む患者を見渡し、彼女は思わず唇を噛み締めた。

 神屍を街の中から退ける事が出来なければ、彼女も含めてここにいる全員が院内から動く事が出来ない。加えて、ある程度の負傷であれば治療出来ているものの、重度の怪我を負っている患者は然るべき設備の整った病院へ行かねば、最悪命に関わる。

 他者に頼るしかない自分にもどかしさを感じつつも、それでも少なからぬ歯痒さを感じてしまう未來は、でも、と周囲に視線を巡らせる。


(今はここにいる人達の治療に専念しないと……私にできるのはそのくらいしか……)


 そう自らを鼓舞した未來は、そうして次の患者の手当てに向かおうと立ち上がり――――けれどその瞬間に、災厄が訪れた。

 ガアァンッ‼‼ と言う轟音が院内を支配する。病院のエントランスへと繋がる廊下の壁が爆ぜたかのように崩落したのだ。


「ッ⁉ な、なに……?」


 フロアにざわめきが走る。

 咄嗟に立ち上がり警戒の姿勢を取りながら、彼女は一歩前へと出る。

 ここには負傷して一人では歩けない者も多くいる。そんな彼らを守るのが自分の役目だという意識が彼女の足を踏み出させたのだが、その意思は、直後に襲った戦慄によって掻き消えた。

 壁の崩落によって生じた土煙が晴れる。

 そうして露わになった〝それ〟に、未來の喉は極限まで干上がる。悍ましいほどの恐怖が一瞬にして彼女の背を駆け上がった。


「…………神屍……」


 漆黒の体躯に真紅の双眸が、そこにはあった。

 狼のような姿を象り、人間の二倍近い体格を持つ四足の異形。所謂、『獣種型』と呼ばれている神屍だ。

 分厚い外壁を容易く破壊して侵入を果たした神屍は、院内に密集している人々を緩慢な動作で見渡した後に、裂けている口をニヤリと歪ませた。――ように見えた。

 少なくとも未來は、大量のご馳走を目の前に歓喜しているように思えてしまった。

 神屍は、人間にとっての絶対の捕食者だ。

 喰われる立場にあるという、人間が当たり前に生活していては決して体験出来ない恐怖が、一瞬にしてフロア全ての人々に伝播した。

 ……当然、感情は決壊する。


「う……うわああああぁぁ! 神屍が来たぞーッ‼」

「はやく! はやく奥に逃げなきゃ!」

「殺されるぞぉッ‼ ちんたらしてないでとっとと行け! 死にてぇのか‼」


 突如、病院内が堰を切ったように騒乱に満たされた。

 負傷者の治療にあたっていた看護婦も、その看護婦に応急処置を施されていた老人も、泣き続ける子供をずっと抱き締めていた母親も、一斉に喚き、我先にと病院の奥へと逃げてゆく。

 だが、大勢の人間がまとまりなく行動すれば、どうなるかは明白だ。足を縺れさせて転倒してしまう人が続出し、逃げる人の波が滞る。

 その間にも四足の神屍は、まるで弄ぶようにゆっくりとした足取りで迫ってきていた。


「みっ、皆さん焦らずに! 落ち着いて行動すれば大丈夫です! 一番奥の部屋に、地下シェルターに繋がる通路があります! 女性やお子さんを最優先に、皆さんそちらへ!」


 無秩序の騒乱の中でも一人、未來は声を上げる。

 当然彼女にも、恐怖に駆られて今すぐに逃げ出したい気持ちはある。だが、フロアには未だ重傷を負って自らの足で逃げられない者が多くいる。彼らを見捨てて自分だけ逃げる事は絶対にしたくなかった。

 神屍が、廊下からフロアの領域へと入る。

 シェルターへの通路がある部屋に繋がる廊下は、神屍の立つ場所の対角線上にある。まだ僅かながら距離があると見て取った未來は、初めに一番怪我の酷い患者の下へ行き、余計な振動を与えないよう慎重に起き上がらせる。


「ッ……」


 けれど、その患者は意識を失っており、そのせいか異様なほど重く感じた。

 そもそも未來は決して背が高い方ではなく、身体も華奢だ。自分より大きな体格の大人を持ち上げるのは、正直無謀に等しかった。

 それでも諦めずに、引き摺ってでも連れて行こうとしたその時、ふっと重さが無くなった。

 見れば、先ほど未來から治療を受けた黒郷が、反対側から患者の腕を肩に回し、支えていた。


「あ、あなた……」

「この人は私に任せろ。君は女性患者の避難を手伝ってくれ」

「は、はい!」


 彼の顔は僅かに歪んでいた。恐らく、頭の怪我がかなり痛むのだろう。そんな人に無理をさせたくは無かったが、それでも彼女はその好意に甘える事にし、元気よく返事をした。

 ――だがその瞬間、獣の如き咆哮が轟いた。


「グルゥゥアアアッ!!」


 その叫びにつられて視線をやれば、最悪な事に、崩落した壁から新たな獣種型の神屍が侵入している光景が目に入った。

 しかもその神屍は口に何かを咥えていた。大きく裂けた口の端から人間の脚とおぼしき何かが垂れ下がっているのを見て、未來は思わず悲鳴を上げた。

 顔面を血で濡らした新たな神屍は、最初に侵入してきた神屍に並び立つと、同じようにニヤリと嗤った。


「そん、な……」


 絶望的な状況に、未來の足が今度こそ竦む。

 まだフロアには自力で動けない者が何人も蹲っている。意識のある者は怯えながらも何とか後ずさりして逃げようとしているが、神屍が軽く飛び掛かれば即座に喰われてしまうだろう。

 一歩も動けず神屍を相対している未來は、だが不意に自分の前へ現れた影に驚いた。


「ひとまず最も怪我の酷い者は避難させた。あとは……三人か。少し分が悪いな」

「あ、あの……?」


 黒郷は未來を庇うように立つと、油断なく神屍を見据えたまま、背後に語り掛けた。


「私が時間を稼ごう。その隙に君は、残りの患者を運ぶんだ」

「えっ?」

「先に逃げた人達も、じき全員がシェルターに避難出来る筈だ。私があの二体を引き付けている内に、早く君もそこへ」


 微かに震える声音が、彼の胸中に湧く恐怖を物語っていた。

 だが、後ろからほんの少し垣間見えた横顔には決死の覚悟が滲んでおり、それを見た未來はとっさに首を横に振っていた。


「む、無茶です! 生身の人間が神屍に敵うわけ……」

「何も戦う訳じゃないよ。逃げに徹して、君達が無事にシェルターへ行ける時間を稼ぐだけだ。なに、こう見えて体力と足の速さには自信があるんだ」


 そう言って無理に笑ってみせた黒郷は、次の瞬間、大きく右に駆け出した。

 向かう先にあるのは大きな窓ガラスだ。そこを体当たりでぶち破り、外へ神屍を連れ出そうという計画だろう。案の定、突発的な動きを見せた彼に、神屍二体の視線は向く。そうして彼に引きつられるようにして黒郷の背追いかけ始めた。


「よし……!」


 予想通りの反応に、彼は頷く。

 そうしてそのまま窓を蹴破って神屍を外へおびき出そうとした――その瞬間だった。

 バリイィィンッ! と言う破砕音が鳴り響いたかと思うと、直後、突如として割れた窓ガラスの向こう側から、三体目の神屍が現れたのだ。


「なに……⁉」


 新たな神屍の出現に、黒郷は思わず瞠目する。

 漆黒の異形が男性の視界を支配する。そして避ける間もなく彼は神屍の下敷きになってしまった。


「あぁ!」


 その光景に、未來は息を呑む。

 空いている左手で口許を覆い、信じられないものを見ているかのように、目を瞠る。

 残り二体の神屍も集まってきて、彼が無残に喰われる光景が嫌でも脳裏を走った。助けなければという思いが湧き上がるが、それ以上に、神屍への恐怖が未来の足を地面に縫い付ける。

 自然と涙が零れた。

 このまま自分は、己の身を投げ打ってでも助けてくれようとした彼の死にゆく様を、何も出来ないまま眺めているしかないのか。

 呆然と立ち尽くし無力感に苛まれていた未來は、だが次第に、近付いてくる音がある事に気が付いた。


「~~~~~!」


 いや、それは音と言うより人の声であるように思えた。

 それも女性の声だ。

 まるで何か必死に叫んでいるかのような叫び声。それは徐々にこの病院へと近付いているらしく、次第に大きくなってきた。

 そう間を置かずして、聞き取りづらかった音は確かな声となって未來の耳に届いた。


「~~~……めてとめてとめてとめてとめてーーッ! こわいこわいこわいこわいこわいこわいってばーーッ!」


 そうして数瞬の後、

 まるで砲弾のような勢いで窓から侵入してきた声の主は、黒郷に覆いかぶさっていた神屍とその周りを囲んでいた他二体に体当たりし、まとめて吹き飛ばした。


「きゃあっ!」


 突然のタックルを受けた三体の神屍はそのままフロアの反対側まで飛び、勢いよく壁に激突した。

 その衝撃に未來は思わず悲鳴を上げるが、すぐさま床に横たわる男に視線をやる。何とか自力で立ち上がろうとしているところを見るに、大きな怪我は負っていないようであった。

 すぐさま駆け寄る。


「あ、あの、大丈夫ですか⁉」

「ん……あ、あぁ。私は何ともないよ。それよりも、一体なにが起きたんだ?」

「それは、私にもよく分からなくて……」


 右手で肩を押さえながら起き上がる黒郷に手を貸しながら、未來はフロアを見回す。

 すると、フロアの中央に小さな人影が蹲っている事に気付いた。

 比較的小柄な未來よりも更に小さな身体つきだった。

 一見すればまだ子供、中学生か高校生くらいの年齢だろうと分かる。その身には洋服ではなく、全身に張り付くラバースーツに似た類のものを纏っており、白を基調としたそれはよく目立って見えた。


「うぅ、失敗した……早く走ったり跳んだり出来るのはいいけど、着地が結構難しいかも、これ……」


 聞こえたのは可愛らしい女の子の声。

 ぶつぶつと独り言を呟きながら立ち上がった少女は、だが然程痛がる素振りも見せずに、辺りをキョロキョロと見回した。

 そうして未來達の姿を見止めると、パァ、と明るい表情を見せ、こちらに駆け寄ってきた。


「良かった! まだ生きてる人がいたんですね! お怪我をしてるみたいですけど大丈夫ですか⁉」

「あ、あぁ、見た目ほど重症ではないよ。それと、助けてくれてありがとう。君が来なければ、今ごろ私は神屍に喰われていたところだ」

「え? 私、何もしてませんけど……」


 黒郷の言葉に、少女は小首を傾げる。

 その動作が可愛らしくて、彼は未來と顔を見合わせて思わず笑ってしまった。


「……それはそうと、貴女はもしかして、機士の方ですか?」

「あ、はい! 雪村紗夜って言います。機士と言っても、今日なったばっかりなんですけどね」


 未來の問い掛けに、紗夜はえへへ、と苦笑と共に頷いた。

 だが彼女のそんな態度とは裏腹に、未來達は瞬時に顔色を明るくした。


「助けに来てくれたんですね、ありがとうございます! 他の皆さんにもお伝えしなきゃ!」

「来たのは君だけなのか? 他の機士は? まだ他にもたくさん避難者がいるから、早急に救助をお願いしたいのだが……!」

「わ、わぁわぁ! おおお落ち着いて下さい~!」


 思わず身を引いてしまう程の剣幕で擦り寄って来られたものだから、紗夜は慌てて手を振った。

 だが、彼らの反応も当然だろう。黒鋼壁が破壊されて街に神屍が侵入するなど未曽有の事態である。恐らく大変な混乱に見舞われただろうし、いつまで経っても助けが来ない事に対する恐怖にも駆られた筈だ。

 だから紗夜は、まず初めに、今に至るまで機士が出撃されない理由を掻い摘んで話した。そして、現状出撃できる機士が自分一人しかいなかったという事実も。

 紗夜の話を聞いた未來達は、案の定、落胆と失望をその顔に浮かべた。


「そんな……それじゃあ、まだしばらくは救助が来ないんですか? 一刻を争う患者さんもいるのに……」

「何とかならないのか? せめて、一番近い大型シェルターまで行く事が出来れば、負傷した者にもより確実な治療が行えると思うんだが」


 そう言う彼自身、頭部を怪我している事に紗夜は気付いた。

 彼らの言う事は最もだ。もしも仮に単なる避難者だけがいたのであれば、無理を強いてここから移動する必要はないだろう。だが然るべき処置を施せないほどの重傷を負った者がいた場合は、その者に対する救護も重要となってくる。

 二人の言葉を聞いて、紗夜は迷った。これから自分はどんな行動に出るべきなのか。

 命の危険に見舞われている人々を守りたい衝動からホロウを用いてここまでやってきたものの、この現状をどう打開するのか、彼女は決断しきれずにいた。

 ――そんな彼女の焦りを見透かしたかのように、黒郷が紗夜の肩にポンと手を置いた。


「取り敢えず、奥のシェルターまで退こう。先ほどの神屍がまたこちらに来るかもしれない。安全な場所で、話を詰めた方がいい」

「あ、はい……」


 紗夜は頷き、黒郷の言葉に従って建物の最奥部にあるというシェルターまで向かう事にした。

 こんなときでも自然と頭に浮かぶのは、かつて一流の機士だったと言われる鷹音の事であり、紗夜は脳裏で、彼ならばどうするだろうと絶えず思索を巡らせていた。

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