出撃
雪村紗夜は怒っていた。
他でもない筱川鷹音に対して怒っていた。
自分の身の回りに苦しんでいる人や助けを求めている人が沢山いると言うのに、何故あそこまで他人事であるかのように捉える事が出来るのか。
そしてグダグダと言い訳染みた台詞を並べた挙句、あろう事に紗夜の言葉を夢物語だと断じて鬱陶しそうに吐き捨てさえしたのだ。
全ての人が現状を何とかしたいと思って頑張っているのに、自分だけは「力が無いから」の一点張りでろくに力も尽くさないで、酷く冷めた目付きで達観したように言ってくる。
そんな訳で、普段は温厚で引っ込み思案な彼女も、さすがに鷹音の体たらくには憤慨していたのである。
「まったくもうっ……まったくもうだよまったくもうっ……‼」
地下三十一階層。
システム保管室へと続く迷路の如き入り組んだ廊下を、何度も間違え後戻りをしながらも、走る。先程から走ってばかりな所為で汗を掻いてしまっているが、そんな事はどうでも良かった。今はひたすらに足を動かし少しでも早く目的地に到達するのが最優先だった。
鷹音に平手打ちを見舞い、すぐさま彼の前から走り去った紗夜は、李夏や射葉の許へは戻らず、そのままエレベーターを使ってこの階層まで降りてきた。
そして幾重にも蛇行する道をおぼろげな記憶を頼りに進み、その最奥部にあるシステム保管室を目指して駆けているのは、心の中にある一つの固い意思が存在したからだ。
本来であれば決して思い付かないような考え。
普段の引っ込み思案な性格の彼女からしてみれば信じられないような愚行。
それでも、清く純粋な心根を持つ雪村紗夜にとって、危険に晒されている命を黙って見過ごす事など不可能であった。
故に彼女は―――、
「……誰も頼りにならないなら、私が頑張ってみせるッ‼」
機士として、己が戦場に出る。
それが、紗夜が自身に下した決断だった。
不安はある。少し考えるだけで懸念事項など幾つも思い浮かんでくる。
けれど彼女は踏み出した。
多くの人が危ない目に遭っている光景を安全な場所から眺めているくらいなら、その何倍もの危険を自分が冒してやる、と。
そう心に誓い、真っ直ぐな瞳で、ただ前だけを見据えて意思を貫く。
正確な道順を正確に記憶していた訳ではなかったため、おおよそ通常の倍近い時間をかけて、紗夜はその扉の前に辿り着いた。
何とも堅牢で巨大な鉄扉は、今は緊急事態と言う状況もあってか完全に開放されていた。
本来なら何桁にも及ぶ暗証コードを入力して開錠しなければならない筈なので、未だ教えられていない紗夜にとっては非常に都合が良かった。
少し申し訳無い気持ちを抱きつつも扉を抜け、フロア内へと踏み入る。
保管室内部は決して無人と言う訳ではなく、数名の監理局員が忙しなく動き回っている。だが誰も彼も切迫した様子で各々の作業に没頭しているため、勝手に入って来た紗夜に気付いた者は一人もいない。
荒い息を吐きながらフロアを横切った紗夜は、そのまま悠然と屹立する光彩量子励起システム・ホロウの根幹部にズラリと設けられた直方体の装置、ターミナルに駆け寄る。
そしてポケットから李夏に渡されたカードキーを取り出し、挿入口に入れると、黒一色だった画面に波紋が生じ自動的に電源がオンになった。
「えっと、どこを押せば良いんだろ……」
未だ一切としてメインデバイスの使い方を教わっていない紗夜は、数瞬、どうすればホロウに接続し、出撃が可能になるのか迷った。
だが画面内に浮かび上がった数あるボタンの中に、『SYSTEM LINK』と表示されたものを見つけ、僅かな逡巡も無くタップする。
するとデバイスのどこからか合成音声が流れ始めた。
『デバイスのコードを入力。完了。リアライズされる各種装備は初期設定のまま変更されていませんが、よろしいですか?』
その音声が途切れると同時、『はい』と『変更する』という二つのボタンが新たに表示されたが、紗夜は構わず『はい』を人差し指で触れる。
『承諾を認証しました。システム内に構築された量子空間を、ホロウと接続。仮想体とのリンクまで、およそ六〇秒。機士は速やかにホロウ内部の昇降機に移動してください』
「……えっ、昇降機? ど、どこにあるの?」
慌てふためく紗夜のすぐ傍で、円柱型をしたホロウの外縁部に見られる幾つもの扉の内、最も紗夜に近いものが静かに口を開けた。
急いでそちらに走り寄る。
内部はちょうど人一人が入れるよう設計されており、四方の壁面には複雑に絡まるコードと大小様々な液晶画面が備え付けられていた。
デバイスの合成音声による案内を信じるならば、これが昇降機なのだろう。胸中に走る大きな不安を押し殺しながら、小部屋の中へと足を踏み入れた。
――その時である。
「おいキミ! 勝手に何をしている!」
見れば、その身に白衣を纏った監理局員の一人が紗夜の姿を見つけ、血相を変えてこちらに駆け寄ってくる。
紗夜は既に正式な登録過程を経ているため、自らの意思でホロウを使おうが違反行為にはならないだろうが、恐らく彼は未だ紗夜が機士になった事を知らされていないのだろう。とは言え仮に知っていたとしても、一度とて戦闘訓練を受けていない者が戦場に出る事は、やはり止められて然るべき行いであろうが。
いけない事をしているのだと言う事実に、改めて紗夜の良心がチクリと痛む。
だが今はそんな躊躇いなどかなぐり捨て、危機に陥っている人々を助けに行かなければならないのだと、その決意の方が勝った。
監理局員の静止の声を振り切る形で、昇降機の扉が閉ざされる。
すると微かなモーター音と共に壁の全ての画面に光が宿る。
ある液晶パネルには紗夜の仮想体と思われるホログラフの全身像が投影され、その隣では監理局を中心とした枢機市全体の俯瞰図が表示され、現在騒動になっている第二特区への最短ルートが赤いラインで明滅していた。
(えっ、もしかしてあそこまで、自分の足で行けって事⁉)
おおよそ二〇キロ近い距離が赤線で表示されている様子を見て、紗夜は愕然とした。
流石にヘリや車を使うとは思っていなかったが、まさか自らの足で行かなければならないとは、考えもしていなかった。
だが、そうと分かったところで強行を断念する訳にはいかない。
小さな画面に映し出されたカウントが残り十秒を切ったのを見て、少女は短く息を吐き、覚悟を入れ直す。
(無茶かも知れないけど、無謀かも知れないけど……それでも私は、苦しんでる人達を黙って眺めてる事なんて、絶対に出来ない!)
――カウントが、ゼロになった。
途端、紗夜の身体に明確な変化が現れた。
全身が光に包まれ、その身に纏う衣服が変貌を遂げる。それはまさに先ほどターミナルの画面に見たホログラフと全く同一のものだった。
身体にピッタリと張り付くタイプのスポーツウェアを思わす、白を貴重とした戦闘服。
全体的に質素な印象があるのは、合成音声が言っていた通り、これが新人の機士に等しく配備される一式だからだろう。
光の粒子が紗夜の頭頂部から足の爪先に至るまでを覆い尽くし、やがて、光彩量子を極限まで励起させる事で実体を与えるホロウの基盤システムが、雪村紗夜と言う一人の少女を、神を殺す資格を有する最新鋭の戦闘者へと変貌させた。
一見すれば、ただ身に纏う衣装が変化しただけだ。しかし人類が数多の叡智を掻き集めて生み出した神に対抗する機構は、使用者の身体能力を格段に引き上げる。
「何か、いつもより何倍も身体が軽いような――」
言葉は最後まで続かなかった。
突如として駆動音を響かせた昇降機が、物凄い勢いで上昇を始めたのだ。
「きゃあっ!?」と悲鳴を上げつつも不思議と体勢は崩す事無く、紗夜の身体は高速で上階層へと持ち上げられていく。
恐らくホロウに備え付けられているこの昇降機は、監理局内にあるエレベーターの導線と連動しており、このまま上昇を続ければ地上に辿り着くのだろう。
改めて、壁面のパネルに表示された地図を確認し、第二特区の黒鋼壁へと繋がる最短の経路を頭に叩き込む。その右上に設置された小型液晶パネルには現場に設けられているであろう監視カメラの映像がリアルタイムで流れており、動乱の様子が見て取れた。
両の手を組み合わせ、せめて死者が出ていないようにと強く祈っていると、やがて昇降機の振動が止む。
直後に正面の扉が開き、外の世界の陽光が勢い良く注ぎ込まれてきた。
その射光を跳ね除けるように昇降機から飛び出した紗夜は、まず眼前に広がった光景に目を奪われた。
「……ここ…………」
紗夜が辿り着いたのは、目算で地上三〇メートル近い高さを有する煉瓦塔の屋上部分だった。
綺麗な円柱型を成したその建造物はどこか西洋の趣を感じさせる。ふと横を見れば、鈍色に艶めく煙突が堂々と屹立しており、紗夜は思わず上を見上げて嘆息してしまった。
視線を正面に戻し、街の景色を目に収める。
ここ枢機市第三経済特区は、再生事業による土地開発以前の風景を残してか、高層ビルや大型ショッピングモール等はあまり見受けられない。彼女が立っている高さから見渡せば、かなり遠方までを視界に収める事が可能だった。
三方をなだらかな山が囲っており、その丘陵地帯を幾つか越えた先に第二特区は存在する。今もなお騒乱の渦中にある彼方の様子を脳裏に思い浮かべながら、紗夜は己の姿を見下ろした。
白の戦闘服を着込む今の彼女は確かな機士と変貌を遂げている。身体のラインが出やすい装いなのが少しだけ恥ずかしいが……。
加えて用途は分からないが、左の手首には腕時計のような機器が、左の耳には特殊なワイヤレスイヤホンのような機器がそれぞれ取り付けられていた。適当に弄ってみるものの、何の反応も示さない。
「……あれっ?」
自らの身体を見下ろした紗夜は、そこで思わず眉を顰めた。
李夏に見せて貰った映像には装備されていた筈の武器が、どこにも見当たらないのだ。記憶が確かであれば左の腰に白を基調とした剣を佩いていた筈なのだが。
(……まぁ、いいのかな?)
けれど別段、今は気にする必要は無いだろうと判断し、思考の外に追い出す。
そうして現場へと続く記憶したばかりの経路を実際に街の景色の中に当て嵌めれば、ふと、ある事に気が付いた。
高層建造物の類が比較的見られない第三特区であるが、それでも街の各所には、電波塔や風力発電所の巨大風車、広大な鉄工所に備わる排煙管、遊園地の観覧車やジェットコースターのレールと言った、周囲と比べれば幾らか目立つものが存在する。
最短経路としてモニターに映し出されていた赤いラインは、間違い無くそれらを繋いで形成されていたのだ。
「な、なるほどねー」
可憐な表情に苦笑の色を浮かべながら、紗夜は誰にとも無く口を開いた。
李夏に受けた説明を思い出す。
確かに彼女は、ホロウを使い機士になれば、身体能力がかなり向上すると話していた。
だからと言ってそのような……何と言うか、B級映画に出てくる忍者の真似事を躊躇無くこなせるかと言われれば、何の逡巡も無く素直に頷く事は無理だろう。
いくら機士が常人を超えた身体能力を持つ戦闘者だとしても、精神面まで強化される訳ではないのだから。
――けれどこの時、紗夜は何故か〝自分は出来る〟と言う確固とした自信を感じていた。
もちろん根拠は無い。
単なる思い込みかも知れない。
それでも、機士となった今の自分になら、これくらいの事は当たり前に出来るのではないか、と。そんな不思議な確信があった。
「…………、」
呼吸を落ち着かせる。
ゆっくりと歩を進めて煉瓦塔の縁に立つ。
眼下には多くの人や車が行き交い、何の変哲も無い日常の光景が広がっている。
だが、そんな彼等の知らざるところで、何十人何百人もの人々が危険に見舞われている。そう自らに念じる事で、最後の覚悟を身に染み込ませた。
地面を―――蹴る。
機士としての卓越した脚力が紗夜の身体を大きく跳躍させた。
周囲の景色が刹那の間に迫り、やがて瞬く間に後方へと流れてゆく。さながら絶叫マシンに乗っている時のような感覚に陥るほどの超スピードと高度だが、不思議と空を駆ける紗夜の心中に恐怖心は無かった。
監理局へと繋がる煉瓦塔を出発地点に。
街の至る所に設けられた電柱へ、
都立高校の敷地内に建つ四階建ての校舎の屋上へ、
工業地帯の一角に備えてある貯水タンクへ、
河川に掛かる橋梁の支柱へ。
街中のあらゆる建造物を足場の中継点にして跳躍を重ねていく。
平時と比べて驚くほど身が軽く、少し地面を蹴り出すだけで彼女の身体は容易く宙へと飛翔する。
人間離れした身体能力で家々の屋根上を飛び移りながら、紗夜は心の底から感動していた。
「……すごい。まるで私、鳥さんになったみたい……!」
艶やかな黒髪を靡かせ、爛漫と輝く笑みをその顔に浮かべる。
神屍が人間の居住領域に侵入してきた今の状況を思えば、そのような楽観的感情は決して抱いてはいけないのだが、それでも紗夜は生まれて初めて経験する空の疾駆にかつてない高揚を感じていた。
これなら第二特区の黒鋼壁に到達するまでさほど時間はかかるまい。
紗夜は今一度表情を引き締めて遥か前方の彼方を見据えると、さらなる強い力で地を蹴り出し、空へと踊るその身を一気に加速させた。
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