無謀だとしても
枢機市第二経済特区は、主に新興住宅街を中心に成り立つ第三特区とは違い、マンションやビジネスビルなどの中層建造物が区内の八割を占めている。故に建物間に形成された路地は第三特区のそれよりも遥かに数が多く、その土地構造を複雑なものとする原因の一端を担っていた。
あまりに入り組んでいるその有様に、わざわざ進んで踏み入ろうなどと言う大人はいないものの、興味本位で子供が彷徨いこんでしまうケースが多々あるらしく、子供が迷我が子の身を案じる親達の意見によって近々再開発が行われるのではないかとの見解もあると言う。
だがこの時ばかりは、異常なまでに複雑な構造が幸いしたものだと紗夜は思った。
病院から最寄りのシェルターのある理化学研究所を目指して五分ほどが経過した頃合いである。その間、紗夜達は一切の危険なく進む事が出来ていた。人ひとりがようやく通れるような細径が、まるで迷路のように張り巡らされているが故に、紗夜達は神屍に遭遇する事もなく目的地の付近まで辿り着く事が可能だったのだ。
だが、ここからはそうはいかない。
細心の注意を払いながらの移動の末、問題となる大通りの間近までやってきた三人は、極限まで張り詰めていた緊張をほんの少しだけ解いて安堵の息を吐いた。
「……お二人とも、大丈夫ですか?」
背後の大人達を振り返りながら紗夜はそう訊ねた。
それほど速くないペースで進んできた筈だが、黒郷と未來はその顔にかなりの疲労を滲ませて荒い呼吸を繰り返していた。
いくら神屍の侵入出来ない細い路地を通ってきたとは言え、万が一の可能性を考えない訳にもいかないようで、そんな〝もしも〟の想像から生じる恐怖や緊張が彼らの体力を予想以上に奪っているのだろう。
神屍に対して感じる恐れと言う点に於いては先日まで一般人だった紗夜もまた感じて然るべきものであろうが、やはりそこは機士としての資格と資質を持つ者であるが故に、精神強度が一般人のそれとは一線を画しているのだ。
浅い息を一つ吐き出して体内の状態をフラットに戻した彼女は、二人を地面にゆっくりと座らせながら、おもむろに頭上を仰ぎ見た。
「お二人は少し休んでいてください。周りに神屍がいないか確認してきます」
そう言い残し、その場で強く地面を蹴った。
重力に逆らう形で大きく垂直に跳んだ紗夜は、路地を形成する建物の外壁を軽やかに駆け上がり、七階建てのビルの屋上へと容易く到達した。植木鉢や花壇があちこちに見受けられ、テーブルや椅子も設置されたテラスのような場所を過ぎ、地上を見下ろすべく屋上の縁へと歩み寄る。
大通りを挟んで真向かいに見える理化学研究所からはサイレンの音が絶えず鳴り響いており、屋内には非常ボタンと思しき赤の光が幾つも明滅しているのが確認出来た。
眼下の景色をぐるりと見回すが、ひとまず逃げ遅れた人などは見られない。だが周囲の建物へ視線を向ければあちこちの窓ガラスが派手に割られた形跡があり、この一帯にも神屍が現れた事を裏付けしていた。
この第二特区は東京の全土をぐるりと囲うように建造された黒鋼壁に最も近い街の一つであり、紗夜の立っている場所からでも遥か遠方に長く横へと連なる物々しい黒の構造物を見て取る事が出来る。
故に、開発中のものも含めて十三ある経済特区の中でも公共シェルターが多く据えられており、それによって多くの人々が素早く非難出来る体制が整えられていた―――のだが。
それでも病院で見たような数多くの負傷者が出てしまったのは、〝神屍が黒鋼壁を超えて侵入して来る筈がないだろう〟という一種の楽観が存在したからか。
痛みに苦しんで泣き喚く子供の姿を脳裏に浮かべて歯を食い縛った紗夜は、だが今の自分が果たすべき最優先事項を思い起こして首を振った。そうして改めて周辺に神屍の存在が見られない事をして、路地の方面へとひと思いに飛び降りる。
紗夜が屋上へ上っていた間に黒郷達はある程度心を落ち着かせたようで、僅かに表情は険しいものの、確かな足取りで紗夜の元へと近付いてきた。
「どうでしたか、雪村さん?」
「ひとまずは安全だと思います。今のうちに大通りを抜けてしまいましょう」
その言葉に頷いた二人を伴い、紗夜は僅かな逡巡を振り払って路地の出口からひと思いに抜け出した。
全力で駆ければ恐らく一足飛びに研究所へと辿り着いてしまうので、後続の二人のためにもある程度の加減をしつつ走る。幹線道路ほど広くはないが、それでも総じて四車線ある通りはこの状況に於いてやけに広く感じた。
向かう先には研究所の正面玄関があり、敷地内のシェルターへ入るには一度建物の中へと入る必要がある。
何はともかく屋内へ踏み入る事が出来れば神屍に襲われる事はない筈であるため、三人は脇目も振らずに走り続けた。―――だが。
紗夜の視界に漆黒の影が蠢いたのは、直後の出来事だった。
咄嗟に身体が動いたのは、完全に無意識の中で行われた反射的動作だった。前方にのみ向けていた意識のベクトルを刹那の間に後方へと転じる。一切の制動をかける事なく瞬時に後方へ跳んだ紗夜は、後ろに続いていた黒郷と未來をまとめて抱えた上で大きく飛び退いた。
数瞬の後、直前まで紗夜がいた場所へと黒く染まる物体が着弾した。
二人を庇いつつ地面を転がる少女の視線が、完全なる意識の外から闖入したその漆黒を捉える。
人間の大人を超える重量を持つが故にコンクリートの地面を砕いて現れたそれは、ゆっくりと首を擡げながら紗夜達を睥睨するかのように見据えた。
「ッ……」
先ほど病院で未來達の前に現れたのと同じ狼の姿を模した神屍だった。
死廃領域に於いて最も繁殖率が高く、目撃及び遭遇する頻度が高い神屍として機士の間では認知されている獣種型の一種である。
だが紗夜にしてみれば生まれて初めて視認する漆黒の異形に、否が応でも足が竦むのが分かった。
身の丈を超える禍々しい体躯と低い姿勢のままに相対していると、背後で黒郷が呻くような声を上げた。
「何て事だ……不味いぞ、これは」
紗夜が半身だけ振り返って後ろを振り向けば、男の視線は対面数メートル先の神屍ではなく更に前方へと差し向けられていた。
彼の目線を追うように紗夜もその方向を向く。間近にまで迫った理化学研究所、その正面玄関のガラス扉が無残にも割り砕かれており、その奥に形成された暗闇から更に四体の神屍が緩慢な足取りでこちらへと近付いてきていた。
紗夜の眼前に佇む神屍と比較して後方に控える四体は一回り小さな体躯をしているように見えた。恐らくは五体で一つの群れを成しているのだろう。頭目と思しき黒狼が唸り声を上げれば、研究所の屋内から現れた他の個体は呼応するかのように低く喉を鳴らした。
張り詰められた糸の如き緊張が紗夜の身体を縛る。
自然と呼吸が浅くなり、全身の筋肉が余計に硬直しているのが不思議と鮮明に自覚出来た。
正面の黒狼から視線は外さぬままに自らの背後へと意識を向ければ、タイミングを同じくしてドサリという音が聞こえた。足の震えに耐えられなくなった未來が、その場に倒れ込んだが故の音であった。
「……嘘、でしょ………」
戦慄に見舞われた声が少女の耳朶に触れる。傍らに立つ黒郷もまた肩を揺らして荒い呼吸を繰り返しており、まるで足が地に根付いてしまったかの如く、その場から一歩も動けないでいた。
遅れて現れた麾下の四体が頭目である黒狼を囲うように立ち並ぶ。漆黒に染まる五つの体躯に灯火を思わす十の紅眼。初めて至近から神屍の姿を見た紗夜は、これは確かに神話の一頁から抜け出してきた神々などとは到底思えないなと、危機的状況ながらにそんな益体無い感想を抱いた。
珠の汗が頬を伝う。仮想体と重なり合う生身の肉体による生理現象だ。
それが紗夜の中に、この状況が夢幻ではないことを改めて自覚させる。
「……黒郷さん、須藤さん」
そうして決意を重ねた彼女は、脳内でとある一つの選択を導き出し、背後に控える二人へと静かに語りかけた。
怯える瞳で前方の神屍を見据えていた黒郷達が視線だけを此方に向けてくるのを感じて、彼女は二人にだけ聞こえる声量で告げる。
「――私があの神屍を引き付けます。その隙に、お二人は研究所の正面玄関からシェルターに退避して下さい」
「なっ……⁉」
「無事に逃げ切れたら私もそちらに向かうので、それまで絶対にシェルターから出てきちゃ駄目ですからね」
その提案に黒郷が瞠目する。
「馬鹿な事を言うな! 君は確かに機士の一人だが、まだ新人だと自分で言ってたじゃないか! まだろくに神屍と戦った事のない者に、それも五体全ての相手が出来る筈ないだろう!」
「……逃げるだけなら何とかなると思います。それに、お二人が建物の中に入るまでのほんの少しだけ時間を稼ぐだけです。それなら私にだって出来ます」
「ッ……だ、だが――」
「他にこの場を切り抜ける方法はありません! 私なら、いくら危ない目に遭ったって平気です……それでも、これ以上お二人が命の危険に晒されるような事だけは、私は絶対にしたくないんですよ!」
紗夜の鋭い言葉に、黒郷は二の句を告げられずに思わず口を噤んだ。
彼女の言葉は正しい。今も絶えず神屍の姿に怯えている自分達には、この場で出来る事は、無様に逃げ回るか大人しく神屍に襲われるくらいしか無い事も分かっていた。だからこそ現状に於いては、少女の提案を素直に聞き入れる選択が最善手なのだろうと言う事も。
――けれど。
黒郷は自身の正面に立つ少女を見る。少女の手足は小刻みに震えていた。自分達ほどではないにせよ、この少女もまた神屍との対峙に少なからぬ恐怖を覚えているのだと分かっているが故に、黒郷は強く拳を握り込んだ。
数瞬の思考が、次の行動へ移るまでの僅かな空隙を生む。黒郷の返答を少女は待たなかった。
「行ってくださいッ‼」
刹那の後、紗夜は大きく右側に駆け出した。先ほど二人の走力に合わせていた時とは異なり、機士としての脚力を最大限に行使して走る。唐突な挙動に反応してか、頭目の黒狼が紗夜に向けて吠えたかと思えば、それを合図として麾下の四体が唸り声と共に紗夜の背を追い始めた。
(よし……!)
狙い通りの反応に、首だけを後方に向けながら内心でガッツポーズを掲げる。僅かに目線を横へ流せば、此方に心配そうな目を向けてくる黒郷や須藤が写った。彼らに小さく頷きを返してから前方に向き直った紗夜は、研究所に隣接する三階建ての建物を目指す。
そうして助走に十分な距離を稼いだ後に、その建物の屋上を目掛けて大きく跳躍した。ホロウの力で数十倍にも増幅した脚力が、紗夜の身体をいとも容易く空へと飛ばす。先ほどの中層ビルとは違って真っ新なコンクリート張りの足場へと着地し、追ってくる神屍を確認しようと背後を振り返った――その直後。
己を喰らわんとして迫ってくる乱立した牙に、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「うひゃあっ‼」
咄嗟に飛び退く。予想以上の跳躍力を持った大型の黒狼が、数瞬前まで紗夜のいた地点を地面ごと豪快に抉った。それだけに留まらず、頭目に続くように中空へと飛んだ麾下の四体が、紗夜を狙って続々と襲い掛かってきた。
「うっそでしょ……⁉」
一般的な四足の獣を想定していたばかりに、想定外の身体能力を持っていた神屍に度肝を抜かれた紗夜。
立て続けに迫り来る小型の黒狼を機士の脚力に任せ切って何とか回避しつつ、より高い場所を目指して建物の屋上や看板を踏み台に空を翔ける。
大口を叩いて時間を稼ぐとは言ったものの、無事に逃げ切れるか疑問なところだ。
いくらこの身体が不死のそれとは言えども、怪我を負った場合に相応の痛みを感じる事は李夏から受けた説明で重々承知している。
(……でも、今の私には出来る事なんてこれぐらいしか……)
揺らぎ掛けた意思を再び持ち直す。深い息を一つ吐き出し、これ以上心が迷わないように前だけを見据える。
そうして終わりの見えない鬼ごっこに身を投じる決意を、紗夜は自身へと下した。
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