一抹の希望

 神屍の侵攻によって人類の住む領域は数十年の間で瞬く間に縮減していき、今もなお残存する各都市部は周囲に広がる死廃領域との隔絶を図るためにぐるりと街を覆う形で外壁を設け、神屍が人間の暮らす領土に侵入しないよう対策を講じている。

 特殊な鋼鉄を素材として作られた外部防壁は一般に『黒鋼壁シュタルモノリス』と称され、薄氷の上に成り立つ人類の繁栄を保たせる上で重要な役割を果たしていた。

 故に黒鋼壁は機士と同じく希望の象徴とも言われる代物であり、これがある事によって人々は神屍侵攻の恐怖を辛うじて紛らわす事が出来ていたのだ。


 ――その黒鋼壁が崩壊した、と。


 システム保管室から続く廊下を走りながら、李夏はそれがどれほどに絶望的な事態であるのか想定を巡らせていた。

 これまでに街内部に於いて報告された神屍の人的被害は、実のところ少なくない。

 だがそれはあくまで神屍の大群が黒鋼壁にぶつかる事で生じた衝撃が街に地震をもたらした程度のもので、今回のように絶対の外壁たる黒鋼壁が突破されて侵入を許すような例は、ここ十年の間で類を見ない。

 既に監理局内は騒然としていた。

 あの場に一人で残すのも気が引けたので、すぐ後ろには新人機士である紗夜の姿もある。彼女は現段階で進行している事態の深刻さについてある程度は把握しているだろうが、まだ少し理解が追い付いていないだろう。

 しかし今は、おろおろと戸惑うように周囲を見渡している彼女に細かい説明を行っている暇は無い。

 エレベーターに乗り、二階層上のフロアを目指す。

 地下二十九階は、李夏を始めとするオペレーターが出撃中の機士のサポートを行うために無数の電線と巨大なモニターが設置された階層であり、オペレーターと現場の機士は専用の回線を用いた無線で以てやり取りを行う仕組みになっている。

 彼女の許には「黒鋼壁が破壊された」と言う情報以外、未だ何も連絡が回ってこないが、現在の状況を考えれば仕方の無い話だろう。

 神屍が侵入したと言う第二特区西端の現場にどれほどの人員が向かっているのかは定かでない。ならば現状を最も早く把握出来るオペレーションフロアに急行し、自分の目で確かめるべきだ。

 李夏は、そう判断した。

 左右にスライドする鉄扉の動きすらもどかしく感じながら、フロアへと足を踏み入れる。

 室内の照明は全て落とされ、正面の巨大モニターから発せられるバックライトだけが唯一の光源となっていた。

 一先ず紗夜を入り口付近の壁際に待機させ、自分は最大限の駆け足でフロアを横切る。

 その途中で、野太くも酷く嗄れた男の声に呼び止められた。


「李夏ちゃん、コッチだ!」


 皴だらけで草臥れたスーツと雑に切り揃えられた黒髪が相変わらずな、支機官に関する業務の統括責任者、射葉章蔵である。

 いつもはだらしない様子を見せる彼も、この時ばかりは緊張と焦燥が混ざり合った深刻な表情を浮かべていた。


「すみません、遅れました!」

「おうよ、お前さんがいなきゃ現場が回んねぇんだ。とっとと働いてもらうぜ!」


 射葉の右耳には既にインカムが装着されており、街中に繋がる回線から現場の音を傍受して状況把握に努めているようだった。

 彼の近くに設けられたデスクに腰を下ろし、李夏もまた、専用のヘッドフォンを頭に取り付ける。

 デスクトップ型コンピュータの電源が自動的に起動し、瞬時に枢機市全体を俯瞰する形でマップデータが表示され、地図の左側には点滅する黒いバツ印と流動的に蠢く無数の赤い点が確認出来た。

 言うまでも無く黒のバツは黒鋼壁の崩壊箇所、無数の赤点は街内部に侵入した神屍を表している。

 その段階に至り、李夏のインカムも無線を通じて現場の音を拾い始めた。逃げ惑う人々の足音や叫び声などが反響して酷いノイズと化している。片手間にノイズキャンセリング機能を作動させつつ、彼女は傍らで中央モニターを凝視し続ける同業の人間に声を飛ばした。


「射葉さん。現段階で報告されている人的被害と黒鋼壁の損傷レベル、現場に動員された機士の数は⁉」

「負傷者がざっと四〇、死者は今んとこゼロ。損傷レベルはさっき五を超えた。だがあと数分で一段階上がるだろうよ。んでもって機士はまだ一人も出撃してねぇ。帰還途中にあった支機官二〇人が避難誘導に当たってるが、そう長くは持ちそうにねぇな。状況が状況だけにコッチは完全に後手に回ってんよ」


 打てば響くかの如く全ての質問に対して的確な答えが返ってくる。

 黒鋼壁の崩壊が起きてから既に十分近くが経過している筈だが、思った以上に被害が抑えられている事に李夏は安堵の息を吐く。

 けれど目の前のマップを見ても分かる通り神屍は続々と街内部へと侵入しているようだ。一刻も早く対処に及ばなければ被害は壊滅的なものとなり、いずれ死者も生まれるだろう。

 射葉は先ほど、黒鋼壁の損傷具合がレベル五を超えたと言っていた。

 相対的な数値から崩壊による穴の大きさが如何ほどなのか大体の予想はつくが、非常事態に於いては正確無比な対応が絶対だ。

 頭の中で余計な計算を行うより早く、李夏は反対側のデスクで絶え間無くキーボードに指を走らせている監理局員に対して、中央モニターに出ている映像を俯瞰視点から黒鋼壁周辺区域に移すよう指示を出す。

 即座に映像が切り替わり、派手に損傷した黒鋼壁の様子が画面いっぱいに映し出される。

 空いた穴の大きさは、縦幅四メートルの横幅二メートルと言ったところ。幸いと言うべきか、あの程度の大きさであれば侵入できるのは獣種型の神屍くらいのものだろう。

 取り敢えず現場で避難誘導を行っているらしい支機官の人間と連絡を取るべく、回線のチャンネルを変更する。


 ――かつて国の規定で使用出来る周波数には厳格な制約が設けられていたが、神屍の出現と各国の衰退によってその約定も徐々に形骸化し、今では半世紀前の三倍近いチャンネル数を開く事が可能になっている。

 個々人に向けて専用の回線を繋げられる上に、それら全ての回線を同時に開いたとして、伝播速度の減衰は一向に見られない。任務に出ている機士や支機官のサポートを行う上で回線の負担軽減と大幅なオーバークロックは必須だったのだ。

 素早くキーボードを操作し、第二特区西端の一帯にビーコン反応を確認出来る支機官全員と無線を繋ぐ。

 即座に李夏は鋭く声を飛ばす。


「支機官各位、聞こえますか! 応答して下さい!」


 間を置かずして、一人の男性が反応した。

 声紋認証により、任務に出ていた支機官達のリーダーを担っていた者であると判明する。


『ようやく繋がったか! おいオペレーター、こっちは酷い有様だぞ。どエライ数の神屍が侵入して、そこかしこで住民を襲ってる! 俺達支機官だけじゃどうにも無くなって来るぞ!』

「こちらでも被害状況については把握しています。緊急用の地下シェルターを全て解放しました、支機官の皆さんを含め、早急にそちらへ退避をお願いします」

『恐らくまだ家ん中に隠れてる奴もいるだろうがな! そーゆー連中はほっとくが批難しねぇでくれよ? こちとら二十人で何百人を相手してんだから。つーかとっとと機士を寄越してくれや!』

「分かっています。直ちに監理局から機士を総動員します。到着までの間、どうにか持ち応えて下さい!」

『あいよ、任せときな! ったく無茶言いやがるぜ、俺達支機官は機士と違って神屍にちょいと噛み付かれりゃすぐ死んじまうのによ! くそったれ!』


 無理矢理に笑ってから、男性は回線を切断した。

 彼の残した強く頼もしい言葉とは裏腹に、李夏はまるで苦痛を堪えるかのようにきゅっと唇を引き結ぶ。

 そう。

 死廃領域の探査及び残留資源の回収を主な任務とする支機官は、ホロウによって仮想の身体とリンクして神屍と戦う機士とは異なり、生身のまま荒廃した世界へと足を踏み入れ、あらゆる仕事を遂行している。

 故に彼等には死亡率と生還率と言う二つの数値的割合が常に付き纏う。

 何故、支機官はホロウを使用しないのか。


 それは、光彩量子励起システムと言う機構に『適合値』と呼ばれる制約が備わっている事に起因する。

 適合値とは、生身の人間がホロウを使用して仮想体とリンクする上で、誰であれ例外無く生じるリスクの度合いを数値化したものだ。

 人間の神経や感覚野を媒介にして現実情報を拡張する進化型AR技術の結晶とも呼べるホロウは、人体に少なからぬ影響を与える事が判明しており、故に長時間のシステム使用が厳格に制限されている。

 この適合値は人によって僅かな差異はあるが、仮に値が基準となるラインを超えていなければ、もしくは超えていても数値の振れ幅に余裕が無ければ、その者はシステムを使用する事が出来ないとされる。

 もし適合値が一定に満たない人間がシステムを使用すれば、神経及び感覚野との接続に際して過度な負荷が掛かり、最悪の場合は神経麻痺や感覚障害などの弊害が生じてしまう。

 とは言え、大抵の者は基本的に適合値が基準を下回る事は無く、計測の結果、ホロウの使用を止む無く断念せざるを得なくなった者は見受けられない。


 だがここで、一つの落とし穴が存在した。

 ホロウが人間へと及ぼす影響を明確化したものが適合値だ。

 故にこの値は、初期段階の計測時から一切変動する事は無いとの結論が出されていたのだが、それは間違いだった。

 一度のシステム使用が長引くにつれて適合値は徐々に減少していく。つまり、ホロウを使えば使うほど、システムが人体に与える負荷は増加していくと言う事実が判明したのである。

 このリスクは、機士が常に注意しておかなければならない『活動可能時間』とは似て非なる類のものだ。

 時限が迫り、一度システムアウトを行ってホロウとの接続を断てば、受けるリスクを排除する事の出来る活動可能時間とは異なり、適合値は例え負荷の軽減を目的にシステムアウトを行おうとも、決して回復する事が無い。

 要は、あまりに長時間のシステム使用を長きに渡って続けていれば、いずれ適合値が基準ラインを下回り、その者は生涯ホロウを扱う事が出来無くなってしまうのである。

 これは、何ヶ月もの期間を死廃領域で過ごし、荒廃世界の探査や資源の回収作業を行う支機官にとっては痛恨事とも言える欠点だ。

 一般的な機士の活動可能時間が四十八時間だと言う事実を踏まえれば、どうして支機官がホロウを使用しないのかは明白だろう。この先、更なる開発が進められて、ホロウが人体に与える負荷の一切が消失すれば、支機官もわざわざ生身の身体で神屍の跋扈する世界に踏み入らずとも良くなるのだが、それは恐らく遠い未来の話であろう。

 支機官達の身に及ぶ危険を極力減らす目的で、神屍の生体反応を情報化した特殊なマップデータが開発され、彼等は出来るだけ神屍と遭遇しないよう注意を払いながら任務を遂行する。

 だが現状、支機官達は街の内部に侵入した神屍から住民を避難させるために、自ら危険を被っている。それはつまり、彼等の中の誰かが神屍に襲われて死んだとしても、何らおかしくは無い状況に立たされていると言う事だ。


 当たり前だが、ここ数十年の間で記録されている支機官の生還率は、決して一〇〇パーセントではない。一年の内に必ず一人や二人は死者が出ているし、ビーコン反応が消失したまま生還しないために行方不明者扱いされている者も多数存在する。それでも尚、支機官と言う職に就く人間が一定の数を保ち続けているのは、監理局側が、支機官が死なないよう最大限のサポートを尽くしているからだ。

 例えホロウを使わずとも無事に生還出来ると言う確固とした事実がある限り、支機官に対するマイナス評価が上振れする事はない。

 しかし今回の一件で支機官側に多数の死者が出れば、監理局が受ける影響と言うのは計り知れない。最悪の場合は、配属する支機官の大半が辞職願を出す、などと言う沙汰になるだろう。

 そんな事態だけは絶対に避けなければならない、と強く決意した李夏は、街の各所に設けられた地下シェルターの開錠コードが自動的に打ち込まれていく様を見届けながら、素早く思考を巡らせた。


(侵入した神屍の数は、今のところ四〇に満たない程度……でも早急に黒鋼壁の欠損箇所を封鎖しない限りは対処のしようが無い! 機士に出動命令を下した後は、すぐさま護衛を付けた上で支機官が作業に取り掛からないと……)


 たかが二〇人程度の支機官では居住区防衛など出来る筈も無い。

 直ちに待機中の機士へと出動命令を要請して現場へ急行して貰わなければ。

 だがそんな李夏の思惑は、彼女がキーボードを操作して監理局内に駐在している機士のリストを開いた瞬間に、完全に断たれる事となった。


「なっ……⁉」

「どうした、李夏ちゃん」


 思わず声を上げてしまった李夏に、射葉は目敏く反応した。

 彼も彼で避難誘導を行っている支機官達に忙しく無線で指示を送っていたが、この場から出来る指示には限界があると割り切ったのか、今はインカムを外してメインモニタを注視していた。

 備え付けのマイクを握ったままこちらを向く射葉に対して、李夏は一瞬の逡巡の後、事実をありのまま伝える事にした。


「現在、この監理局から出撃可能な機士が一人もいないんです! 恐らく昨日の夕刻からホロウの定期メンテナンスが行われた事で、当局に配属扱いされている機士には例外無く待機命令が下されているためかと……」

「なにぃ⁉ そりゃマジか!」


 声を荒げて李夏の操作するパソコンの画面を勢い良く覗き込んだ射葉は、そこに表示されたリストを見るなり、ガリガリと後頭部を掻き毟って天井を仰ぎ見た。


「ちっくしょう! そういや今日はやけに機士の連中を見ねぇとか思ってたらホロウのメンテ明けかよ、すっかり忘れてたぜ! 李夏ちゃん、ホロウはとっくに起動状態に持っていけてんだよな⁉」

「はい。メンテナンス自体は早朝の時点で終了したので、今は問題無く使えます」

「なら呑気に自宅待機してる奴等に連絡して監理局に来させろ! 機士がいなけりゃ現場の支機官はまとめて神屍に食い潰されるぞ!」

「っ……了解しました、直ちに局外の機士の方々へ出頭命令を送信します! ですがその場合でも、最短で三〇分は要します。そうなれば現場へ到着するまでに一時間弱……時間が掛かり過ぎます!」

「何もしねぇよりはマシだろうが! てか、待機命令が出されてるからっつって揃いも揃って局に来てねぇとかふざけんなっつー話だよ! 機士なら常に有事に備えとくのがフツーじゃねぇのか! ……ったく、ほんの何年か前までは、どんだけ休めっつっても神屍討伐に明け暮れた戦闘馬鹿がウジャウジャいたってのによぉ!」

「今その話をしたって仕方が無いでしょう! 取り敢えず全機士に出頭要請は出しました。今は私達だけで支機官のサポートをするしかありません!」

「サポートっつってもなぁ」


 酷くもどかしそうに顔を顰める射葉の視線を追い掛け、李夏もフロア正面の巨大なモニタに意識を戻す。黒鋼壁の決壊箇所から侵入してくる神屍の波は一時的に収まったようだが、それでも数分おきに一体ずつ街内部へ入り込んでいく黒の小点が見受けられる。

 現場の人間ではない故に、こうして安全な場所から指示を飛ばす事しか出来ない自分達に成せるサポートなど無いに等しい。

 それでも何かしら出来る事はあるだろうと、彼等が行動を起こそうとした瞬間、鈴を転がしたかのような澄んだ声が二人の耳に届いた。


「あっ、あの……!」


 李夏と射葉は同時に声の発せられた方を振り向く。

 騒然とするフロアの中でも不思議と鮮明に聞こえた声の主は、先程から入り口の傍でじっと事態の展開を眺めていた、紗夜であった。本日付けで監理局東京支部に配属となった可憐な少女は、緊張した様にきゅっと口端を引き結んで、大人二人を真っ直ぐ見つめてくる。

 薄い桜色に染まる唇から、静かに言葉が吐き出される。


「よ、よく考えたら……ひとり、いるんじゃないでしょうか……!」

「いるって……」

「誰がだ?」


 オペレーターの女性と支機官統括管理職の男が揃って首を傾げる様子を見て、紗夜はゆっくり言を重ねる。


「待機命令が出されていなくて、かつ、今この監理局の中にいる機士が一人だけ……」


 そこまで言葉が紡がれたところで、李夏が思わずと言った風に制止を掛けた。


「ちょ、ちょっと待って下さい、雪村さん! まさか、あなた自身が出撃するとでも言うつもりですか⁉ それは無茶です! 既に正規の登録過程は済んでいますが、今のあなたはまだ一度も実戦経験の無い新人ですし……それに戦闘技術などは未だ全くとして培われていないでしょう! そんな状態で神屍と戦うなんて、いくら機士は死なない身体を持つと言っても、あまりに無謀過ぎます‼」


 幾人もの機士を見届けて来た李夏は鋭い剣幕で紗夜に反論する。

 けれど少女は、李夏の捲し立てるような言葉に応じる訳でも無く、ただ俯いて、首を横に振った。


「いいえ、違います」


 そして紡ぐ。

 現状を打破すべく提示する、決定的な最適解を。


「……筱川さんです。数年前まで一線で戦ってきたあの人なら、たった一人でも、街に侵入した神屍を残らず掃討出来る筈です‼」

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