急転
光彩量子励起システム・ホロウ。
半世紀以上昔の時代に最新鋭の強化現実技術として各国に広まった拡張現実の機構を応用して創り上げられた、人類が神話の神々に対抗するための最たる自衛手段である。
その仕組みを細部まで知る者と言えば、システム理論の構築に初期段階から携わっていた米国のグラナード=レンブレム博士や、当時の日本で仮想現実の第一人者として名を馳せていた
件のシステムが開発及び実用化段階に至ったのが、今から十五年前の二〇五二年。
それから五年の歳月を経て量産化計画が図られ、今やホロウは日本を含めておよそ二十機近くが存在し、各国の監理局支部に常設されている。
この巨大な機械が造られたお陰で、人類はようやく神屍の侵攻を食い止める事に成功し、現在に至るまで人と神との争いは一応の拮抗状態を維持しているのである。
当初の設計段階では、光彩量子励起システム・ホロウを既存のAR技術では無く仮想現実技術、所謂VR技術を基盤としてシステムを構築する予定だったらしい。
だが人間が認識する現実に環境情報を付与するだけで良い拡張現実に比べて、人の認識領域を超えて主体的な知覚としての世界を再構築する仮想現実は、一切の融通が利かないほどに複雑なシステムで作られており、どうやっても神を屠る機構を生み出す自由性を獲得できなかったのだ。
止む無くユニットの基盤に拡張現実の技術を流用する事にした当時の技術者は、けれど即座に次の問題に直面した。
AR技術はあくまでも個人の知覚領域を増強させるだけの機構であり、人の身体と五感を切り離して別の情報を投影させるVR技術には出来た『同一の意識を持つ生身と仮想体の二面化』が何をどうしたところで不可能だったのである。
要は、専用の機器を用いて現実世界に仮想体を現出させる事が出来たとしても、結局その体は生身の人間がリアルタイムで動かさなければ木偶も同然なのだ。
コンピュータによる遠隔操作機能をシステムに埋め込めないかとの案も出たが、どちらにしろ情報化された等身大の映像に過ぎない仮想体では、歩いたり走ったりする事は出来ても、実体が無い以上、神屍に傷一つ付ける事が出来なかったのだ。
そこで技術者は考えた。
現実世界とは別の次元軸に量子空間を構築し、その情報を光彩量子によって現実側に移行させてデータ・エントロピーを極限まで増大させる事により、『生身の身体と仮想の身体の合一化』を実現させる事が可能なのではないか、と。
理論設計はあくまでもAR技術の応用。
だが基盤となるインフラの部分に仮想空間を構築する上で用いられるアーキテクチャを活用する事で、従来の機能を上回るレベルの拡張現実を実現させたのだ。
故にシステムユーザーたる機士は、予めコンピュータによって設計されて普段は量子空間に漂う〝もう一人の自分〟をホロウによって現実化させ、且つシステムに同一認識させる事で、生身の身体から意識を手離さずともリアルタイムで仮想体を操る事が出来るのである。
――以上が、人類最後の自衛手段とも言われる光彩量子励起システム「ホロウ」の仕組みの、ようやく
「……ここまでで何か分からない事や疑問に思った事はありますか、雪村さん?」
「はい、もう自分でも何が分からなくて何を疑問に思えば良いのかすら分かんないですゴメンナサイ」
困ったように首を傾げる李夏に対して、紗夜は何の遠慮も無く素直な感想を口にした。
巨大な円筒管を思わす機械が静かに屹立する地下三十一階のシステム保管室にて、ホロウに関する説明を受けていた紗夜である。
だが、元々学校の授業でも特に成績が良い方ではない彼女にとって、一端の大人であってもろくに理解出来ないだろう機構の詳細について聞かされても、頭を捻るしか無い事は分かり切っていた。
けれど李夏は落胆した様子もなく微笑むと、フロアの中央に聳える巨大機構を仰ぎ見た。
「良いんですよ。大抵は、最初にいくら説明しても理解出来ない方ばかりなので。ここで全てを分かろうとせずに、実際にホロウを使って経験を積んでいく内に理解していけば良いのです。……まぁ、鷹音くんはきっと今でもシステム理論を一ミリだって呑み込めていないと思いますけれど」
あの人はそう言う細かいところはいい加減なんですよ、と付け加えて、歩み始めた李夏は、ホロウの根幹部分に立ち並ぶ高さ二メートルほどの機器の前で立ち止まると、小さく右手を振って紗夜を呼び寄せる。
パーソナルコンピュータのものよりも少し大き目なキーボードと六〇インチ程度のモニターが取り付けられた、自動販売機にも似た形を成す大型の機器である。
その画面に李夏が指先を触れると、黒い画面に波紋が広がる。電源がオンに切り替えられたようだ。
「この機械は『ターミナル』と呼ばれる据え置き型のシステムデバイスで、機士の方々が任務に出る際に様々な準備を行うための装置です。例えば、神屍との闘いで扱う武装や身に纏う戦闘服のセット及び変更、死廃領域各所の神屍分布状況、現在任務に出ている機士や支機官の総数などをまとめて管理しており、機士はお持ちのカードキーを挿入すれば、簡単に利用する事が可能です。……良ければ今、使ってみましょうか?」
「あ、はっ、はい!」
不意に訊ねられ、紗夜は先ほど手渡された重要なカードを慌ててポケットから取り出し、李夏に差し出す。彼女の陶器を思わす白くて繊細な指が紗夜の個人情報が記載されたカードを受け取ると、ターミナルの外縁に付随する挿入口に差し込んだ。
小気味良い電子音が鳴り、瞬時に画面へ様々な項目が出現する。
『登録情報』や『武装の表示・変更』、『エリアマップ』、『任務処理』等と言った欄が真っ先に目に付いた。
その中でも李夏は『仮想体の更新』と書かれた箇所をタップする。
すると、画面いっぱいに人型の映像が投射された。
一般的に市販されているスポーツウェアをアレンジしたかの様なデザインの服に身を包み、左の腰には一メートルほどの真っ直ぐな剣を佩いている。
加えて画面の端に人型の身長や体重、驚くべき事にスリーサイズまでもが表示されており、その数字を確認した紗夜はある事に気が付いた。
「……もしかして、これって私ですか?」
「はい、そうですよ。事前に頂いた身体的データを参考に、ホロウによって雪村さんの仮想体を作成しておきました。機士として任務に出れば、この服装がそのまま雪村さんに投影されます。今は全ての状態が初期設定のままで登録されていますが、大抵の機士はすぐに自分好みの戦闘服や武器を揃えるので、雪村さんも遠慮せずに仰ってくださいね。専門の職人に発注をかけるのも私の仕事ですから」
言われ、紗夜はふと首を捻った。
ここにこうして画面上で表示がされている以上、仮想体が装備する武器や戦闘服は全てデータの塊なのではなかろうか。
それを職人に発注とはどう言う事だろうか。
紗夜の脳裏に、巨大なパソコンの前に座って暗がりの中でただひたすらにキーボードをカタカタ打ち鳴らす奇妙な科学者の姿が過った。
変な推測を振り払おうと頭を横に振る紗夜に気付く事無く、李夏はスラスラと説明を続ける。
「因みに、神屍との戦闘に於いて機士が何らかの傷を負ったとホロウが認識した場合、仮想体は瞬時に負傷の程度を判別。送り込まれる痛みの感覚を
「この機能には限度となる情報量はありませんが、あまりにも重度の負傷をしてしまった場合は、ホロウが演算処理出来ても仮想体との情報の送受信に若干のタイムラグが生じる可能性が示唆されていますが、この点に関しては無茶をしないようにと個人に呼び掛けるしか対処の方法がありません。痛覚走査機能があるからと言って無茶な戦い方をすれば必ず痛い目を見るでしょう。過去に大規模な神屍掃討作戦が決行された際には、秒間で十ゼタバイトもの情報量が交換されましたが、その時は約〇.七秒のラグが生じ、多数の機士の身体に損傷が出ると言う事態に発展しました」
「死廃領域の各所には、支機官の方々によって設置された『中継機』と呼ばれるオブジェクトが点在します。この柱は謂わば仮想体を構築する光彩量子に補正作用をもたらす投影機のような役割を果たし、中継機が立つ地点を中心に半径およそ五キロの範囲に於いて、機士は行動する事が可能です。中継機の機能が届かない範囲に足を踏み入れると、途端にシステムがシャットダウンし、仮想体を通じてホロウからサージ電流が送り込まれます。そうなれば死廃領域の真ん中で意識を失う事になりますので、充分にご留意下さい」
「他にも機士が踏み込んではならない領域と言うものがあり、一般には『未踏領域』と呼ばれています。この区域は未だ監理局が探査を行っていない……つまり、どんな種の神屍が棲息しているのか、地形の安定性や建造物の配置状況などの一切が不明であり、マップデータすら作成されていません。特別な権限を持つ機士以外は決して踏み入ってはならないと言う決まりがありますので、くれぐれもご注意下さい。もし侵入した場合は、中継機作用範囲外への立ち入り時と同じく強制システムアウトが行われます」
「ホロウは覚醒状態の人間に視覚や聴覚、触覚の情報を送り込む事で仮想体とのリンクを可能としています。主に電子端末を介して現実を増強していた従来のAR技術とは大きく異なり、ホロウによる拡張現実は人間の神経や脳を媒介にしており、故にホロウを使用している最中は機士の心身に常に一定の負荷が掛かっているのです。なので、全ての機士には活動可能時間があり、これには個々人の身体及び精神の強度によって差異がありますが、この時間を超過すれば本来の身体に少なからぬ影響を及ぼす事実が確認されています」
「ホロウを用いて仮想体とリンクすると、本来の身体に備わる運動能力と比較して、平均で九六.七五倍もの数値向上が見られます。この倍率は基礎能力の強化やシステム使用の長期化に伴い変動すると言われていますが、だからと言って無茶な訓練をすれば良いと言う話でもなく………………申し訳ありません、今日はこの辺りで止めておきましょうか」
チラリと隣を見やれば茫然と虚空を見詰めたまま硬直する紗夜の姿があり、李夏は苦笑と共にそう告げた。
新しい機士がやって来るたびに全く同じ説明をしてきた彼女であるが、先程も言ったようにこれだけ言葉を並べ立てたところで一度に全てを理解してくれる者はそうそう居ないので、特に徒労を悔んだりはしない。
中には逐一メモを取りながら熱心に聞いてくれる者も居たが、だからと言って満足に理解が及んだかどうかは微妙なところだ。
鷹音や彩乃もまたホロウに関する説明を理解出来なかった側の人間だが、彼等は戦闘のセンスがずば抜けていたため、実際に戦場へ出て神屍と戦いながら諸々の制約を学んでいった特殊な部類と言える。
この少女、雪村紗夜はどうだろうか。
思考回路がショートしてしまったかのようにポカンと口を開けて固まっていた彼女は、李夏の言葉を受けてハッと我に返った。
「あっ、い、いえ! すみません大丈夫です、今度はちゃんと真剣に聞きますのでっ。もう一度お願いします!」
そう言って両目を大きく開き、左右の耳に掌を当ててこちらを凝視する。
小動物のように可愛らしくぴょこぴょこ動く紗夜は見ているだけで面白く、思わず李夏は隠れて口許に笑みを湛えた。
何とも素直で実直な少女である。この様子だと、機士として戦場に出ても即座にあらゆる教えを吸収し、立派な戦闘者に育ってくれるのではないだろうか。
そうなれば、李夏も機士をサポートするオペレーターとして誇らしく思う。この小さくも芯のある心を持つ少女が、いつか鷹音と共に戦場を駆ける日が来てほしいと、心の底から願う。
そしてあわよくば、もう一人……、
そこまで考えて、李夏はかぶりを振った。これ以上は傲慢と言うものだ。どれだけ願っても手の届かない望みがある事は鷹音の姿を見ていれば痛いほどよく分かる。
あまり軽々しく、その望みを口にすべきでは無いだろう。
胸中に吹き抜けた寒風を感じながらも、李夏は努めて笑顔を浮かべて少女に向き直る。
「いいえ、どちらにしろ休憩を挟もうと思っていたところでしたから。雪村さんも歩き回ってばかりで、お疲れになったのではありませんか?」
「疲れただなんてそんな……! 学ばなきゃいけない事が沢山あるのは知ってますし、これも当然だって思ってますっ。だから別に私の為に休憩なんて……」
「無理はなさらないで下さい。どうせ雪村さんにはこの先、今の何十倍と忙しく働いてもらう事になるんですから。……その手で世界を救うために、ね」
少しおどけた風に言って見せる若き麗人の美貌に、やる気満々な紗夜の心も僅かに鎮まる。
確かにあまり根を詰めるのもよくないだろう。とは言え、やはり自分がこれから機士として神屍と戦っていくのだと思うと気も逸る。
ターミナルの前から外れてフロアの端に設けられチェアに足を向けた李夏を追い掛けて、紗夜も歩み出そうとした瞬間を見計らったかの如く、事は起きた。
耳をつんざく程に高密度のサイレンと視界を塞ぐ真紅の光の放射が、システム保管室を超えて監理局全体に響き渡ったのだ。
「っ……これは⁉」
「うわわぁ! き、急に何なんですかぁ!」
李夏と紗夜はまず鼓膜を激しく刺激する警報の音に顔を顰め、瞬時に両手で耳を覆う。
本能的に身が竦んでしまう不協和音を伴ったサイレンは鳴り止む様子も無く、絶えず監理局内に警告を呼び掛け続ける。
思わずその場に蹲りながらも、音色と旋律を正確に聞いて事態の把握に努める李夏は、己の脳裏に駆け巡ったあらゆる可能性を瞬時に取捨選択した。
(この警報のリズムは、警戒レベル十に達すると判断された非常事態が発生した時にのみ鳴らされるタイプのもの……仮に誰かが誤って警報発令ボタンを押したとしても、誤報であれば五秒以内に強制停止が行われる筈。いや、そもそもレベル十なんて、普段はシステムにロックされていて特殊な手順を踏まなければ発令されない仕組みになっていた……と言う事は、つまり――)
そこまで思考が及んだところで、不意にジャケットの内ポケットに収まる端末が微弱な振動を発した。流れるような動作で端末を取り出し、監理局員に一斉送信されたらしいメールの主文に素早く目を通す。
最初の一行でこの警報が誤報の類で無い事は分かったが、さらに続く本文を読み進めていく内に李夏の顔から瞬く間に血の気が引いていく様子が、傍らで同様に蹲る紗夜の目にさえハッキリと映った。
「……華嶋、さんっ。い、一体、何が起こったんですか……?」
けたたましいサイレンと渦巻く真紅の光に怯えながら、紗夜は李夏に訊ねた。
だが答えが即座に返ってくる事はなく、戦慄くように震える李夏の顔がゆっくりとこちらを向くまでに十秒近い無言の間があった。
紗夜の黒くつぶらな双眸と真っ直ぐに向かい合いながら、けれど視線は少女を超えてどこか遠い場所を見つめながら、彼女は恐る恐ると言った風に真実を口にした。
「……枢機市第二経済特区の西端に設けられた、街と死廃領域とを隔てる外壁の一部が、崩壊したと……」
「えっ」
告げられた言葉を聞いて、紗夜は思わず瞠目した。
鳴り続ける警報や他の監理局員が駆け回る足音が途端に遠退き、束の間、音の聞こえぬ静謐の時間が紗夜と李夏の間を縫い止めた。
そんな粛然とした一瞬の中で、李夏の言葉がやけにハッキリと響き渡った。
「人々の住む街の内部に神屍が侵入しました……現場は既に、動乱の渦中にあるとの事です!」
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