諦念を噛み締めて

 十人の男がすれ違えば十人全員が振り向くであろう見目麗しい大人の女性から全力の抱擁タックルを見舞われた鷹音は、胸の中でぎゅうぎゅうと頬を押し付けてくる彼女の頭を押しのけながら、久々に味わう体験に深い溜息を吐き出した。


「華嶋さんストップ。貴女のみっともない姿が何十人と言う人に見られている訳だけど」

「そんなの知りません、二年ぶりに鷹音くんと会えたんですから! まったくもう、何でずっと来て下さらなかったんです! 私、本当に寂しかったんですからね! どう責任とってくれるんですか‼」

「責任とか言われても」


 否応なく衆目を集めてしまっている事にうんざりしながらも、鷹音は李夏の均整の整った身体を半ば強引に引き剥がす。

 なまじ弾力の良い豊かな胸が絶えず心地よい感触を伝えてくるだけあって、色々とマズイ。加えて周囲の男性陣からから鷹音に対し、恨めしそうな視線が向けられているのを感じる

 尚も詰め寄ろうとしてくる麗人の肩を押さえて何とかその場に押し留め、付近に落ちたバインダーを拾い上げてから言う。


「ついさっきまで貴女に見惚れていた紗夜の気持ちを考えてあげなって。見てみなよ、すっごいポカンとした表情を浮かべて固まっちゃってるよ」

「幻想なんて壊してしまえば良いのでございます。そんな事より二年ぶりに鷹音くんと会えた私の気持ちの方が何枚と上手なのですから」

「今更だけど何で監理局員ってまともな人が一人としていないんだろうね。貴女もそう言う〝観衆の視線を気にしない〟癖さえ無ければ至って普通の美人なんだし」

「好意を向けてくる男性の方々は皆、口を揃えてそう仰るのです。ですがこの世に清廉潔白な性格で、尚且つ美しい容姿を持つ女性など存在する筈もありません。ふふふ、そんな理想など道端の下水溝にでも捨て置いてしまえばよろしいのです!」

「貴女は本当に変わらないね。いや、良い意味でなく」


 差し出されたバインダーを受け取り、若干乱れた髪を直しながら体裁を整える李夏は、その素晴らしいほど整った貌に若干の憤然を見せる。

 華嶋李夏とはつまるところ、こういう人間である。

 どこかで鷹音は『残念美人』と言う言葉を耳にした事があるが、まさに李夏にこそピッタリと当て嵌まる言葉ではなかろうかと、ずっと思っている。


 彼女の暴走っぷりは枚挙に暇が無い。

 異性の目があるにも関わらず平気で服を脱いで着替えを始めるし、年下と言う事で特にお気に入りの鷹音を人目も憚らず全力で可愛がってくるし、重要な会議中に上層部のお歴々の視線も意に介さず母親からかかって来た電話にすぐさま出るし。

 とは言えこれらのエピソードは、未だ鷹音がこの監理局を頻繁に訪れていた二年前までのものなので、それ以降から今に至るまでの間に更なる逸話を残しているのかどうかは定かでない。

 普段は任務に出ている機士のサポートを一手に担う『仕事の出来る優秀で綺麗なお姉さん』であるため、そのギャップが酷く悲しい。

 久々に会ってかつての癖が直っていれば良いと思っていた鷹音であるが、結果は夢見も甚だしかったようだ。


「まぁ変わらず元気そうで何よりだけど、そんな事より仕事。今日の本命は紗夜の方な訳だけど」

「あぁ、そうでした」


 言って、李夏はくるりと身体を反転させ、唖然とした面持ちで突っ立っていた紗夜へと向き直った。


「非常に見苦しい姿をお見せしてしまい、大変失礼を致しました。本日より正式に監理局へ配属される雪村様には、これより幾つかの手続きを行って頂く必要があります。局内の案内も兼ねて各所を回る事になるのですが、ご同行を願えますか?」

「あっ、はい!」


 元気良く頷く紗夜に微笑みかけた李夏は、早速その手続きとやらを行うために場所を移動しようとして――ふと鷹音に視線を固定させた。


「鷹音くんはこれからいかがなさいますか? せっかく久々に監理局へ来たのですし、局員の方々へ会って来てはどうでしょう」

「……そう、だね。うん、そうする」

「あと勝手に帰らないで下さいね。私も後でゆっくりとお話したい事がありますので」

「…………」


 最後の付け加えに関しては曖昧に頷くだけに留め、ふたりが去って行く様子を見送る。

手続きと言ってもそこまで難しいものは無かったと記憶しているので、三十分もすれば戻って来るだろう。

 それまで何をして時間を潰しておこうかと考え、鷹音は不意に、周囲へと目を移した。

 このフロアには、監理局員も含めて機士や支機官など様々な役職の人間が混在している。中でも割合として多いのは、やはり局内に努める職員だ。局員全員の顔を覚えている訳ではないが、それでも何人か見覚えのある顔がチラホラ見受けられる。懐かしい顔触れに思わず心が揺れそうになり、だがそこで鷹音は、見渡す群衆のなかに機士の姿がない事に気付いた。


 かつて熟練した腕を持つ戦闘者の一人だった鷹音は、一目見ただけでその者が機士かどうかを判別出来る。死廃領域へ赴き、一度でも神屍を屠った経験を持つ者は、僅かながら足運びに特徴があるからだ。

 恐らくはみな揃って出撃しているのだろうと、そう勝手に結論付けて歩みを再開した鷹音の脳裏を、不意にある思いが過ぎた。


 ――今のこの支部に、当時を共に戦った者達は一人としていない。


 彩乃が心神を喪失して再起不能に陥り、それによって鷹音が抜け殻のように変わり果てて。

 それらが原因となって、かつて鷹音の周りにいた仲間達は全員バラバラに散った。東京支部から拠点を移し、他の支部で機士として任務に就いているのだろう。

 旧知の人間に今さら会っても気まずいばかりだが、それでも幾許か、少年の心に空虚にも似た寂寥感と、ほんの一抹の後悔が吹き抜けた。


「……散々来るのを渋っていたくせに、いざ来てみれば寂しさに胸が苦しくなるなんて始末に負えないな」


 誰にも聞こえない声量で呟く。

 鷹音としても昔の記憶に思いを馳せて懐かしみを覚える事くらいはある。

 かつての仲間が今どこで何をしているのかは定かでないが、そう簡単にくたばるような柔な者は誰一人としていなかった。

 案外、今の鷹音のように前線から退いて平凡な日常を送っている者だっているかもしれない。

 そう気紛れに考えて――それは絶対にありえないと、鷹音は一人で小さく笑い飛ばした。



 ふらりとフロア内を歩いてみれば、中央に円弧を描いたテーブルが現れた。

 その中心ではあらゆる酒やジュースがズラリと並べられた棚を背に、粋な雰囲気を纏う初老の男性が立っている。さながらバーカウンターを連想させるそこは、監理局に勤める者の憩いの空間として人気の場であった

 頭上には天井扇が取り付けられ、絶えずゆっくりと回転している。酒棚に積み上げられる形で設置されたスピーカーからは誰の唄とも知れない曲が奇妙な空気を演出していた。

 当時まだ一五歳だった少年は、ここでよく周りの大人からジュースを奢って貰っていたものだ。

 カウンターに沿って置かれたスツールのひとつに腰を落とした鷹音の前に、音も無くグラスが差し出された。中では琥珀色の液体が揺らめいている。


「好みが変わっていなければ良いのですが」


 きょとんとグラスを見る少年へと、安定感のある渋い声が掛けられた。

 丸眼鏡の奥に潜む瞳がじっと少年を注視する。

 鷹音は思わず苦笑すると、無言でグラスに口を付ける。すると甘みと苦みが絶妙に混じり合った不思議な味が口の中に広がった。


「……これ、今でも出してるんだね。注文する人いるの?」

「お生憎と。私の方から勧めてようやくお飲みになるお客様がいらっしゃる程度で、筱川さんのようにこれを好みとする方は未だ一人も」


 落ち着いた物腰の男性は、当時の鷹音と相応の付き合いがあった数少ない局員の一人である。久しぶりに少年がやって来たとあって、昔の彼が一番に好きだったものを出してくれたのだ。

 美味いとも不味いとも言えない微妙な味わいが、かつての鷹音にとってひどく癖になるもので、ここを訪れては必ず一杯はこれを注文していた。それをこの男性はちゃんと覚えていたのだろう。

 鷹音は微かに破顔する。


「しばらくぶりだね、マスター。少し白髪が増えたように見える」

「さすがの私ももう五八になりまして」

「あと少しで定年じゃないか。たった二年と少しなのに随分と変わったね」

「まだまだお若い筱川さんとは時間の流れが違うのですよ。そう言う筱川さんは何らお変わり無いようで」

「ちゃんと背は伸びてる訳だけど」


 監理局に勤める人間からは親しみを込めてマスターと呼ばれている男性は、陰の濃い顔に穏やかな色を込めて笑む。

 その細められた双眸が少年の瞳をじっくり見据えると、小さく頷いた。


「……いいえ、筱川さんもかなり変わられましたな。あの頃とは違って随分と笑うようになられて。最後にお見掛けたした時など、酷く暗い顔をしていたように記憶しておりますので」


 どこか嬉し気に話すマスターは、けれどその目に暗がりを宿して顔を俯ける。

 洗ったばかりと思われる濡れたグラスを白布で拭きながら、言葉を続けた。


「何か、心境の変化でもありましたかな?」


 そう訊ねられ、少年はそっと視線を横へ逸らした。フロアのあちこちで語り合う人混みを眺め、沈黙を挟んで静かに語る。


「……変化と言える変化は、特に無かったのではないかな。進む道は相変わらず見つかってないけれど、ただ、いつまでも停滞している訳にはいかないから。きっと、中途半端な位置に立ち止まって右往左往する事に慣れてしまったんだろう。どうすれば良いのかは、三年経った今でも分からないままだよ」


 最も信頼する相棒を失って三年。

 完全に前線から身を退いて二年。

 それだけの月日が流れていながら、鷹音は自分の足を次に何処へ動かせば良いのか、決めあぐねている。

 それは一体何故なのか。理由はとっくに分かっていた。

 彩乃が目を覚まさない限り、自分は前へ進む事も後ろへ下がる事も出来ない。

 地に足がつかない状態で送る日々の中で、ずっとそう考えていた彼であるが、それもまたひとつの逃避行なのだと自覚して久しい。今も病室にて静謐を纏い眠る女性を、己が停滞している理由にしてはならないと、何度戒めてきた事か。

 けれど今の彼には、彼自身をどうしようも出来ない。

 ただ無為に、非生産的に流れゆく暮らしの中で、現状に甘んじてしまっている。

 そんな彼に、マスターは何の気無しに言った。


「ならば、もう一度戻ってみてはどうですか?」


 唐突に掛けられた提案に、少年はたっぷりと五秒ほど、沈黙した。

 マスターの吐いたセリフを脳内で反芻し、口の中で転がして、けれども理解に達する事は叶わなかった。


「……は? 今なんて、」

「いえ。どうすれば良いのか迷うくらいならば、あの頃に戻ってみてはどうかと思いまして」


 彼の表情に揶揄っているような様子は見受けられない。けれど声音はどこか楽しさを含んで、鷹音の耳に届く。


「それに、湊波さんであれば間違いなくそのように仰ると思いますが」

「……彩乃さんを引き合いに出すのは卑怯ではないかな」

「私の本心でもありますので」


 そう言って水差しから水を注いだマスターは、そのグラスを鷹音の前に置く。


「恐らく当時の筱川さんを知る者は、誰しもそのように思っているのではないですかな。いつか必ず、本当の意味でこの場所に戻ってきてくれると」

「……説得自体は何度もされた訳だけど。でも俺はその全てを尽く無視してきた。もう俺なんかに期待している人なんていないとおも――」

「筱川さんの目は節穴ですか」


 唐突に降って来た辛辣な言葉に、鷹音は目を瞠る。


「仮に筱川さんに期待していないのであれば、先ほど会われた射葉さんや華嶋さんの反応は何だったのです。皆さん、貴方との再会を心より喜んでいたではありませんか。皆さんが尚も筱川さんを信じているからこそ、あそこまで手放しに再会を喜ぶ事が出来るのですよ」

「はぁ」


 新しく置かれたグラスの氷を眺めながら、力無い返答を発する鷹音。

 そんな事を言われても彼はピンと来ず、「そんなものだろうか……」などと呟きながら天井を仰ぎ見れば、視線は自然と回転する天井扇を追いかけた。

 首を擡げた姿勢のまま、話す。


「でも正直、既に俺には任務を受ける権利なんて無い筈だ。ろくに休暇届も出さずに監理局を離れたんだしさ。こうして気紛れにやって来ても、非難こそすれ歓迎されるなんて思ってもみなかったよ」


 国際市民防衛機関ICDO神屍対策全権監理局は、既に自衛隊や海軍よりも重要な防衛組織のひとつであるが故、そこに配属されている機士や支機官、その他局員に対しても厳重な規約が設けられている。

 そこまで規則に凝り固まった組織形態を成している訳ではないものの、やはり規約を破った者には相応の処罰が下される。

 鷹音の記憶では、責任を放棄し、正規の手続きを行わないままに監理局より逃亡した者には、それまで有していた資格の剥奪処分と罰金刑が課せられる。

 にも関わらず、監理局を訪れなくなった二年の間にそのような文書が彼の許に送られてきた事は無く、機士としての資格も失われていない。その事を鷹音はずっと疑問に思っていたのだ。

 するとマスターは柔和に口許を緩め、何の気無しに言った。


「あぁ、それでしたら旧多さんが色々と根回しして下さったみたいですな。華嶋さんに確認を取ってみても良いでしょう、恐らく筱川さんには無期限の休暇が受諾されているでしょうから」

「……朝唯あさあだが?」


 前線を退いた二年どころか、数年はまともに顔を合わせていない旧友の名を出され、鷹音は思わず瞠目した。

 旧多朝唯。

 かつて鷹音や彩乃が所属していたとある部隊で長を務めていた辣腕の機士である。

 この枢機市どころか日本を出て、未だ神屍に侵食されていない世界の各地を転々としながら任務をこなしていると、半年ほど前に送られてきたメールで把握している。

 飛行機や新幹線の類が極端に減った今の時世、自国を離れて海を越えるだけで途轍も無い危険が孕む。機士も含めて殆どの人間は、死廃領域に踏み入ってまで遠い国へと渡ろうなどとは決して思わない。

 しかし旧多朝唯と言う男は、それら全ての危険を請け負って機士の数が不足している地域に赴いては、神屍の脅威を退ける。そんな任務を中心にこなしているのだ。


 未だ二十代半ばと言う年齢でありながら古参の機士として認識されている青年の顔を脳裏に思い浮かべつつ、鷹音は重々しげに腕を組んだ。

 マスターの柔和な声が降る。


「旧多さんは昔から筱川さんの身を第一に案じる方でしたからね。それに、恐らく彼もまた、筱川さんが戻ってくる事を信じた上で最善の対処をしたのだと思いますよ」

「……まぁ、朝唯は俺の弱かった頃……獣種型一匹まともに倒せなかった頃を知る数少ない人間の一人だからね」


 鷹音と朝唯の付き合いは、鷹音が一三と言う若き年齢で機士の資格を得た頃にまで遡る。

 写真や映像以外で初めて目にする死廃領域や神屍に恐怖し、困惑していた当時の鷹音は、既に機士として一等の実力を有していた朝唯に、お節介なほどの面倒を見られていた。

 両者の扱う得物は系統がまるで異なるため、戦闘に関しては基本的な立ち回り程度しか教わらなかったが、それでも充分すぎるほどに彼は鷹音にあらゆる知識を授けてくれたものだ。

 それが祟ってか、鷹音がプロの機士として単騎で戦場を駆け回るようになってからも、何かと世話を焼いてきたりもしていたのだが。

 彼が愛用していたが脳裏を掠め――その流れでふと、ある事も思い出した。


「……そう言えば、俺のブラッド・ギアはどうなっているのかな。無期限の休暇届が出されたのなら、その時点で凍結処理が施されている筈なんだけど」

「心配せずともちゃんと管理されていますよ。後でメインデバイスにアクセスして武装羈束レギュレイトを解除すれば変わらず使用出来るのではありませんかな? まぁ、当代最強と言われていた筱川鷹音さんのギアですからね、厳重な保護を掛けた上で大切に扱われていると思います」

「やめてくれ」


 本人にとってはあまり笑えない冗談に鷹音は手を振って否定をする。


「最強の機士だなんて、いま思い返しても何て恥ずかしい呼ばれ方をしていたんだろうと思う訳だけど。所詮は人間と言う狭い井の中で褒め称えられて舞い上がっていたお調子者に過ぎない」

「しかし当時の筱川さんは誰が何と言おうと、単騎で神話の神々を撃滅する事が出来る数少ない機士のお一人でございました。例え井の中であれ、間違いなくそこでは強者たり得たのではありませんか?」

「だから嫌なんだよ、俺は」

「? と、言うと」


 静かな物腰を崩さない男性へと、鷹音の揺らめく声が返る。


「何の事情も知らない奴は最強と聞いて目を輝かせ、羨望の眼差しを向けるかも知れない。いや、現にそうだった。三年前、俺達の周りに居た人間は誰であれ。……だけど、実際はそんなの夢物語でしかない。ここで色んな機士を見て来たマスターなら分かる事なんじゃないかな」


 訊ねられたマスターは作業の手を止める事無くただ沈黙を返す。

けれど伏し目がちに自身の磨くコップを見やるその様は、何を語らなくとも言わんとしたい事を雄弁に述べているようでもあった。

 鷹音は間を空けずに続ける。


「最強なんて称号は結局、それ以上の成長を見込めなくなった事実を指摘されているようなものだ。実力が頭打ちになってしまったが故に、固定的な能力しか見出せなくなった者に対する見当違いの称賛でしかない。まぁ、俺自身その事に気付いたのは、何もかもが破綻して、極大の後悔に見舞われた後だった訳だけど」


 無感情な微笑みの中に色濃い悔恨の念を覗かせ、少年はグラスの中の液体に口を付ける。

 酸味と苦味が混同した不可思議な飲料を飲み下し、脳裏に白銀の直剣を携えて戦場を駆ける年上の相棒を思い浮かべる。

 そして同時に浮上する、獅子を象る神屍の姿。

 全身に震えが走り、一切の挙措が停止し、ただ凄惨な光景を見せられただけだった。

 相棒が無抵抗に喰い千切られる様は未だ彼に己の無力さを痛感させ、その痛みはあらゆる激情で以て筱川鷹音と言う人間を圧殺せんと降り注ぐ。そしてその圧力に更なる重みを与えているのは、間違い無く当時の自分が備えていた〝最強〟と言う肩書だ。

 世に蔓延る神屍を片端から屠れると確信していたにも関わらず、いざ本物が眼前に現れたら恐怖に臆する事しか出来なかった。


 だから筱川鷹音は理解した。

 人間が何処まで神へと近付こうとも、彼等は絶対の高みに君臨し、そして人類の反撃を愚劣極まりない行為と嘲笑さえするのだと。


 だから筱川鷹音は諦観した。

 仇を取る事は愚行に過ぎず、自分には湊波彩乃が目覚めるのをベッドの横でただ見守るしか行動選択の余地が存在しないのだと。


 故に彼は尚も停滞したまま燻っている。こうして当時の根拠地に舞い戻って来ても、前に続く道に目を向けようとしない。贖罪の観念を完全に放り捨て、荒れ狂う世界からの逃避を重ねているのだ。

 そんな鷹音の心中を、マスターは一切の誤解無く察しているのだろう。だから彼は続く形でこのような事を口にした。


「先ほどまで筱川さんがお連れしていたお方……雪村さん、でしたかな? 彼女は貴方の新人時代によく似ています。自分がこれから経験する本当の現実に真っ直ぐ向き合い、真摯に立ちはだかろうとしている……絶望や恐怖などと言う負の感情は二の次にして、ただ人類を厄災から守る為に身を捧げる姿。何とも健気ではありませんか」

「……だいぶ遠くで話していた筈なのに、よく聞こえていたものだ」


 鷹音は苦笑し、数時間前に出会ったばかりの少女を思い浮かべる。


「確かに彼女は機士の中でも珍しい部類だよ。たぶん純粋な心で以て神屍から人類を守ろうとしているんだろうから。……でも、その清廉な勇気は時として蛮勇に成り下がる事を俺は知っている訳だけど。そして何の節理か、あぁいう素直で綺麗な意志を掲げる機士ほど早く理想に失望する。だから一応忠告はしておいた、あまり夢を見るなって」

「……雪村さんが〝例外〟となる可能性は考えないのですか?」

「それは正直なところ彼女の運が絡んでくる。戦場に出たての機士なら尚更だ。最低でも一年、理想が折れないままに仕事を続けられていたら、取り敢えずは安心だろうさ」

「一年、ですか。ともなれば、運よりも経験や知識が物を言うのではありませんかな」

「まさか。たかだか一年だ。そんな短期間じゃあ単独で人種型一匹倒す事すら難しいよ。竜種型なんて以ての外。せいぜい獣種型を倒せる程度で経験を語る奴は次の日には決して消えないトラウマを患っているのではないかな」


 そう告げて、では今の自分に獣種型を倒せるだけの力はあるのだろうか、と疑問に思い、けれど直後には溜息と共に頭から消し去った。

 思考を切り替え、付け足す。


「あと、マスターはひとつ勘違いをしている。彼女が俺の新人時代によく似ている? どこを見ればそんな事が言えるのか、俺には分からない」

「おや、非常に似てはいませんかな?」

「全くとして。あの子を含めた大多数の機士は心のどこかに少なからぬ人類の救済を掲げているんだろうけど、そもそも俺はその時点から彼等とは違う。三年前の俺は人類を救おうだなんて大それた夢、考えた事も無かった。そんな正義感のある目標は俺にとっては眩し過ぎる。俺はどこまで行っても自己満足の中で戦い続けていたからね」


 言葉にすればするほど、当時の記憶は鮮明な光景となって鷹音の脳裏に焼き付いてくる。

 恐らく無意識の内に記憶領域へと蓋をしていたのかも知れない。

 死廃領域の壊滅を極めた景色や共に戦場を駆け抜けた仲間の影、そして何より武骨な太刀を携えて荒廃した土地を闊歩する自分の姿。手離して久しい思い出にも似た情報が、次第に鷹音の頭を埋め尽くしていく。

 それら一つ一つに思いを馳せながら、それでも少年はその場に踏み止まる。

 現状から抜け出す為の一歩を、頑なに拒む。


「……人間は、脆弱で矮小な生き物ですからなぁ」


 ふと、マスターはそのように言った。


「長い人生の中で幾度と無く前進と停滞、そして後退を繰り返します。それは最早人間として当然の行為と言えるでしょう。進み続ける必要も無ければ立ち止まっていたって誰も咎める者は居ない。少し後ろを振り返って後戻りしても、それは結果的に前へと進むための助走となる。……人間はちっぽけで脆いですが、その分、知恵を働かせて如何に成長を遂げるかを常に模索し続ける事が出来ます。無力だった人類が神へと突き立てる牙を手に入れたのもまた然り。〝あの装置〟も同様に、我々人間が如何にして人世へ堕ちた神話の怪物を打ち倒す事が出来るのか、その難題に対する解答を模索し続けた結果として生み出されたものだと言えますな」


 ですから、と言葉はさらに続く。


「今の筱川さんが停滞しているとしても、それは恐らく今後の貴方にとって必要な段階と言えるものになるのでしょう。決して焦る事無く、じっくりと見つめ直せば良いのです。三年前の己と、今の己を」


 そう締め括り、柔和な笑みを浮かべる初老の店主は新たにやって来た客の対応をすべく鷹音の前から去っていった。

 一人残された彼は茫洋とした瞳で目の前に置かれた二つのグラスを眺め、そしてどちらも飲み干す事無く席を立った。

 このバーは監理局に登録されている者であれば誰でも無料で利用出来る。

 金を支払わずに退席した鷹音に気付いていながら、マスターは何も言わない。やはり自分は未だ監理局の人間として扱われているのだと再認識し、心のどこかでその事実に安堵しながらも彼の口からは重い溜息が吐き出された。


(……見つめ直す、ね)


 知己の言葉を胸中で反芻し、暫しの間、積み重ねて来た記憶に思いを馳せる。

 かつての自分は微塵程度も迷う事無く前へと進み続けていた。右手に得物を携え、周囲には信頼に足る仲間が何人と集い、壊滅を極めた世界で神話の象徴である存在と真っ向から対峙していた。

 武装を握る理由が他の機士とは異なっていたかも知れないが、確かに、当時の自分は輝いていたのだろうと思う。

 少なくとも、底無しの泥濘に嵌まり込んだ今の自分が眩しいと感じてしまうくらいには。

 正義なんて大仰な理念を掲揚していた訳ではないけれど、それでも揺らぐ事の無い信条が常に心の内には存在して、それが結果として死地を駆ける原動力となっていた。


 ――だが今の自分には。


 当時の自分にはあった信念は、三年と言う時を経て欠片も残らず霧散してしまっている。

 そんな醜い体たらくを晒すだけの自分に何が出来ると言うのだ。再び武器を手に取り戦場へ舞い戻ったとして、決定的に弱体化した筱川鷹音には最弱の種とされる獣種型の討伐さえ困難だろう。

 張り切って立ち向かっても瞬く間に倒されるのが落ちだ。


「……結局、資格剝奪処分を受けた方がよっぽど気楽だったかも知れない。華嶋さんには悪いけど、正式な申請書を貰ってキッパリこの業界からは足を洗った方が賢明ではないかな」


 誰にも聞こえない声で呟き、彼はオペレーターの女性を探して監理局の中を歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る