そこに在る隔絶

「駄目です絶対に駄目です何があっても駄目ですもし本当に引退すると言うのなら私を殺した上で無理矢理に申請書を奪い取って下さいもちろん私も私で鷹音くんの行動を全力で止めに掛かります女だからって油断していたら痛い目を見ますよ知っているとは思いますがこれでも私はあらゆる古武道に通じているのです生半可な覚悟で立ち向かって来ようものなら腕の一本や二本は簡単に圧し折って見せますからねあぁでも怪我をさせてしまったら鷹音くんの御両親に申し訳が無いので少しは加減しましょうそれに鷹音くんには三年ものブランクがありますからね大人である私が多少は手心を加えて差し上げないと可哀想と言うものですでは改めていざ尋常に参りますッッッ‼」

「いやちょっと待ってほしい訳だけど。まずその闘争心剥き出しの眼を止めようではないかッ‼」


 美しい年上の女性に物凄い剣幕で詰め寄られ、さながら興奮状態に陥った猫を宥めるかの如き手付きで精神の平静を促そうと努める鷹音であった。



 場所は移り、監理局エントランスロビーの隣に設けられたラウンジエリア。

四人掛けのテーブルが幾つも設置された落ち着きある空間の一角に、筱川鷹音と華嶋李夏、そして先ほどまで監理局内を案内されていたらしい雪村紗夜までもが集い、何やら只ならぬ雰囲気を醸し出していた。

 原因は、鷹音が李夏に対して「今日付けで機士を引退しようと思うので辞職届の書類を貰いたい」と告げた事にある。

 すると李夏は途端に血相を変えて、普段の見目麗しい印象を吹き飛ばさんまでの勢いで言葉の弾丸をぶつけて来たのだ。

 彼女の整った顔立ちを鼻先数センチの位置に見ながら、鷹音はあたかもこの展開を予想していたかのように肩を竦ませ、複雑な表情を顔に張り付けた。


「だってそうだろう。このまま何の仕事も受ける事無く中途半端な状態に留まり続けるより、キッパリ業界から足を洗った方が賢い選択だ。最後に前線に出たのが二年前。もうそれだけの期間が開いているんだ、まともに神屍と戦える力なんて俺には残っていない訳だけど」

「それはその通りかも知れませんけれど、私が怒っているのは全く別の事に対してです。……引退するつもりならどうして相談してくれなかったのですか。事前にその気があると言う事だけでも伝えてくれれば良かったものを、一人で勝手に決断して、いざその段階に来たら唐突に辞職届を要求して……別に私じゃなくとも、射葉さんや皇木博士でも良かったのです。誰かに相談していれば、また違った選択肢が生まれる事もあった筈なのに……」

「それこそ身勝手な行動だよ。俺は機士としての責任を丸ごと放り投げて逃亡した無法者だ。そんな人間が、誰かに『この先自分はどんな風に身を振れば良いんだろう』って聞くのは酷く我儘で自己中心的ではないかな。そもそも武器も持たず神屍と戦おうともしない機士なんて居ない方が良いに決まってる」

「そんなっ……」


 即座に反論しようとした李夏の言葉を、しかし数瞬早く発せられた鷹音の台詞が遮った。


「だいたい昔からこの東京支部は、前線に出たくても出られない機士が多いって話だった筈だ。ブラッド・ギアの量産が追い付いていないとか、登録者数が年々飽和気味になって来てるとか、そんな理由でさ。俺が抜ける事で利益を受ける人間は必ず居る。……まぁ、俺のギアには使用者制限のプロテクトが掛けられてるから、そのリミッターを外す手間が必要だろうけど」

「……つまり鷹音くんは、あれ程に使い込んだ大切な装備の所有権を他者へ譲る、と?」

「『一門《シリーズ)』系統だから扱える人間は限られてくるけどね。()でも凍結処理をされて使われないままだとさすがに可哀想だ」


 顔を下に向けて俯いたままに話を進める鷹音に対し、李夏は何とか説得力のある言葉を引き出して彼の辞職を取り下げさせようと思考を巡らせる。

 そもそも機士とは、望めば誰であれ任に就く事が出来るという訳ではない。

 それまで何一つとして危険に見舞われる事無く平和に過ごして来た人間が、次の日には武器を手に取り醜悪な姿を象る神々と戦う運命に立たねばならないのだ。

 それ故に、当人の人間性や精神強度、身体面における潜在能力と言った様々な要素の基準をクリアする必要があり、それら全ての適性検査に合格した者が監理局へ正式に配属される。

 厳格なテストを重ねた末にようやく資格を得る事が出来る機士だが、志望者は年々増加していく傾向にあり、お陰で人員不足の問題に直面した事はここ数年の内には無い。


 しかし、何かしらの理由で監理局から退役した者がある程度の歳月を経て前線に復帰しようとした場合に限っては、よりシビアな監査が行われる為、この監理局東京支部内に於いて正式な手続きを経た上で前線を離れ、以降に原隊復帰をした機士はごく少数である。

 つまり、ここで鷹音が辞職届を上層部に提出し、それが受理されてしまったら、再び今の立場に戻るのが限り無く困難になってしまうと言う事だ。

 当の本人が引退すると言っているのだから、あくまで監理局員の一人でしかない李夏にはその決断を止める権利は無いのだろう。

 それは十分に理解しているが、だからと言って割り切れるような話でもない。


 鷹音がどうして唐突に前線を離れて監理局にも顔を出さなくなったのかは彼女も知っている。目の前の少年が、今、心の中に抱いている様々な苦悩や葛藤も。

 彼のそんな心因の闇を知っているからこそ、鷹音には形だけでも機士であり続けていて欲しいと、李夏は強く願う。

 彼が今ここで機士の資格を手離せば、あらゆる縁が途絶え、筱川鷹音と言う少年は内心に深い痛苦を抱いたまま孤独となってしまう。どうにかして目の前に座る少年の心の支えとなってあげなければ、きっと彼の精神は追い詰められた状態のまま巡り続ける。

 それだけは何としてでも避けねばならない。

 そう思い、李夏が次の言葉を思案している僅かな沈黙を突く形で、横合いから控え目な声が割り込んで来た。


「あ、あのぅ……」


 それまで始終二人の会話に耳を傾けていただけの紗夜であった。

 おずおずと言った様子で右手を挙げ、口論を交わす鷹音と李夏に対して律儀に発言権を求める。

 傍観する立場に徹していたと思っていた彼女の唐突な行動に、双方は同時に少女の方へ顔を向けると、李夏が手を差し伸べ、丁寧な仕草で以て先を促した。

 二人の視線を受けて小柄な体躯の少女は緊張した様に身を縮こませたが、やがて意を決したように背筋を伸ばし、口を開いた。


「わっ、私は何で、その……筱川さんが機士を辞めたいって言ってるのかは正直分かんないけど。で、でも、私は筱川さんに辞めてほしくないなぁって思う……それにほら、別に戦わなくたって華嶋さんみたいなオペレーターに転向するって言う事も出来るしっ。だ、だからその、えっとね……」


 一言一言を一生懸命に告げる様子は見ていて微笑ましかったけれど、寧ろ李夏は紗夜の言葉を聞いて複雑な気持ちを抱いた。

 今日付けで初めて監理局を訪れた彼女は鷹音がかつてどんな目に遭ったのかを知らない。言わば紗夜は完全に蚊帳の外に立っている。そんな立場に居ながら紗夜の意見は李夏にしてみても尤もなものだったが、どれだけ知己の人間が説得しても折れなかった鷹音である。紗夜の申し立てに揺れるとは思えなかった。

 チラリと視線を横に逸らして対面に座る少年の顔を見やる。案の定と言うべきか、彼は内面の読めない表情を浮かべ、微笑と共に口を開いた。


「それもそれで都合の良い話だと思う訳だけど。戦う意思を無くし、けれど今いる場所に固執して何かしらの役に立とうと考えた挙句、転向を選ぶ者は多く見られる。でも俺はそうじゃない。出来る事なら一刻も早くこんな中途半端な立場を抜け出して、一人平和に生きていたいと常に思ってる」


 そもそもさ、と彼は続ける。


「俺は神様ってやつに歯向かい過ぎたんだ。恐怖も戦慄も抱かずに淡々と神話の住民を屠り続けて、いつかそれが自分の目的を果たす事に繋がるんだと信じ続けて、結局手に入れたのは極大の天罰だけだった。……そんな当たり前の現実から目を背けて逃げるだけの人間を留めておけるほど、生易しい世界でもないだろう」

「それは、そうですけれど……」


 李夏は瞼を伏せて首肯した。

 確かに三年前までの鷹音は、日本の中に限って言えば間違い無く一等の実力者であった。

 機士と言うのは単に秀でた腕を持つ者だけが生き残れる訳では無い。奇跡や偶然などの巡り合わせが、時として当人の行く末を変える事だってある。

 そんな運の要素さえ味方に付けて、鷹音や彼を取り巻く少数の機士は、日々壊滅した世界を駆けていた。

 その過程で、何十何百と言う神屍を討ちながら。


「……鷹音くんが機士を辞めた事を彩乃ちゃんが知ったら、どんな顔をするでしょうね」

迂闊に・ ・ ・あの人の・ ・ ・ ・名前を・ ・ ・口にするな・ ・ ・ ・ ・それは・ ・ ・逆効果だ・ ・ ・ ・


 途端、少年の身に纏う空気が音も無く一変し、両の瞳もまた限り無く鋭い陰影を帯びる。

 瞬間的に剥き出しにされた、まるで人を射殺しかねない程の威が込められたこの眼光を、李夏は知っていた。

 穏やかな雰囲気を見せる普段の鷹音とは違う。

 鋭利な刃を彷彿とさせる双眸は、彼が……厳密に言えば全盛期の篠川鷹音が異形の神々と対峙する際に見せていた類のものだ。

 二年前に前線を完全に離脱して以来、鷹音がこのような殺気を纏う事は無くなった。

 だが例外的に、尚も彼がかつてと同様の瞳を浮かべるとしたら――、


 今の彼が李夏の言葉を通じて見据えている先には、一体の神屍が佇んでいるのだろう。

 圧倒的な巨躯を誇り百獣の王を思わす体貌を成す、最も神に近しい厳威を帯びるあの神屍が。


「……、」


 李夏は不意に口を噤んだ。

 三年前、作戦行動中に鷹音と彩乃が遭遇した未知の神屍については彼女も聞き及んでいた。

 だが監理局のデータベースに類似する特徴を持った神屍は登録されておらず、加えてあの事件以降は支機官の執心深い探索も虚しく一度として姿を現す事が無かったのである。

 獅子の姿を象る神屍は鷹音にとって言わば彩乃の仇と呼べる存在だ。

 しかし当の少年は、心の内に少なからぬ憎悪の情念を抱いていながら決して仇討ちに走ろうとしない。

 感情と行動に合致性が無い点もまた、彼が苦悩する原因を形成しているのだろう。少なくとも、湊波彩乃と言う名前を耳にしただけで静かな激情が沸き起こるくらいには。


 ――反射的に鷹音から顔を逸らしてしまった李夏の目に、隣に座る紗夜の姿が映り込む。


 彼女は鷹音の、唐突に垣間見えた凄まじい緊張に臆してしまったのだろう。じっと顔を俯かせて固まっていた。影に隠れた容貌にどんな面持ちが浮かべられているのか、李夏の位置からでは判別が付かないが、これが経験を積んだ戦闘者とそうでない者の差であると李夏は感じた。

 神々の撃滅を生業とする者の一挙手一投足は、周囲の空気を張り詰めさせる。

 そしてその極限の空気に耐えられるのもまた、神の鮮血で手を汚してきた者に限られるのだ。


「……俺はね、華嶋さん」


 不意に鷹音が告げる。

 相対する全ての物事に諦念し、あらゆる感情を過去へ置き去りにしたかの如き静かな声音で。


「彩乃さんが帰って来るまではまともな人間であり続けたいんだ。無謀な闘争に駆り出されて彼女と同じような目に遭いでもしたら、それこそ湊波彩乃と言う一人の誇り高い剣士に申し訳が立たないんだから」


 ――けれど、


 その道理がただの責任の押し付けでしかない事は、鷹音にも分かっていた。

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