監理局

 やがて彼等の前方に、物置同然の様相を呈する古惚けたプレハブ小屋が現れる。その扉の手前で立ち止まった鷹音に、紗夜は恐る恐ると言った風に訊ねた。


「えっと……ここ、なの?」

「あぁ」


 言葉だけで応じた少年は勝手知ったる様子で扉へと歩み寄る。そして、支部に繋がるマップを表示したままの携帯端末を、扉のすぐ傍らに備え付けられたカードリーダーのような装置へとかざした。ピッ、という軽快な電子音が鳴り、扉のロックが解除された事を知らせる。

 ドアノブに手を掛けて回せば、少しばかり錆び付いた感触を伝えてくる鋼製の取っ手はすんなりと回転し、鷹音達の来訪を受け入れた。

 久方ぶりに此処の扉を開けた鷹音を僅かな感慨が通り行く。

 中へ入るとまず目に飛び込んできたのは、質素なエレベーターであった。と言うか寧ろ、室内を見渡してもそれしか無い。無骨な印象を与える昇降機は静かに佇み、傍の柱に設置されたボタンの赤い光が嫌に目立つ。


「……ほんとにここなの?」

「心配性だね。まぁ入ってみれば分かるよ」


 あまりに何もない空間に思わず同じ疑問を重ねてしまった紗夜に、鷹音はエレベーターのボタンを押しながら反応する。

 一秒と待たず扉は開き、二人は滑るように乗り込んだ。


「監理局って言うのは基本的に、地下に展開されている機関なんだ。このご時世、あまり大きな建物は造る事が出来ないし、秘匿性の面においても地下に広げる方が色々と都合が良かったんだと思う。ほら、見てみなよ」


 促され、少年の指が差す昇降パネルを見た紗夜は、途端に驚愕の意を表した。

 何と到達階層を示すボタンが三〇近くも連なって配置されており、最下層に至っては地下二十八階と、現代においてまさに規格外と言って良いほどの巨大なベースメントエリアが広がっている事が一目で確認できる。

 鷹音はその中でも『B-12』のボタンを押す。するとエレベーターは静かに扉を閉め、やがて駆動を始めた。


「因みに支部へ繋がる道は枢機市の各所に設置されてる訳だけど。さっき俺達が通ってきたのはあくまで経路のひとつでしかないから、暇があれば局員に聞いてみるといい。もっと短い時間で辿り着ける道もあるからさ」

「そうなんだ……筱川さんは全部知ってるの?」

「一応ね」


 機士になったばかりの頃、ある同業者より叩き込まれた知識の中には、支部へ至る全ての経路も含まれていた。不意に思い出そうとすれば、すんなり脳裏へ浮かび上がってくる。

 暫くして、エレベーターは停止した。

 音も無く扉が開けば、再び何の装飾も無い無骨な空間が現れる。

 ただひたすらに真っ直ぐ伸びる、重厚な威圧感を漂わせる回廊であった。

 何も言わず歩き始める鷹音を紗夜は慌てて追いかける。行く先を見れば百メートル先にひとつの扉が視認できた。


「あそこ?」

「そう」


 少年の隣に並んで問いかけると、微かに複雑な色を窺わせる表情を浮かべながら、鷹音は頷いた。

 その顔色の真意は紗夜には分からなかったが、今の彼女は、前方の扉の向こう側に広がっているであろう世界に対する高揚感で満たされていたため、さして気に掛かりはしなかった。

 明らかにワクワクした様子を見せる新米機士の少女を、けれど鷹音は冷めた様な瞳で以て見下ろす。


「……これから君が踏み込む世界は、決して楽しいものではないよ」


 そうして夢見る子供を現実へと引き戻すかの如く、冷徹な声音で告げる。


「さっきも言ったけど、機士が生きているのは平和とは程遠く、常に絶望や恐怖と寄り添う事が強いられる残酷な世界だよ。何の覚悟も無く明るい気持ちで神屍と戦って、現実に打ちのめされる機士を俺は何人も見てきた。……なるべく君にはそんな風にはなってほしくないし、あまり気分を昂らせない方が良いと注意しておく」


 抑揚の感じられない平坦な言葉には、何処か後悔や自嘲が感じられた。

 ただ無様に逃げ惑うだけでなく、神と戦う確かな力を得た人間は、その殆どが己の力に酔う。

 神殺しの資格を持っていると言うだけで、自分は周りの人間とは違うのだと錯覚する。万象に通ずる絶対の強さを手に入れたのだと、狂気にも似た感動を覚えるようになる。

 だが、それは滑稽も甚だしい勘違いなのだと、彼等は何かを失ってようやく気付く。

 チラリと、隣を歩く少女を見る。

 黒玉を思わすつぶらな瞳と視線が交わる。彼女はまだ、鷹音がこれまで見てきた愚かな連中ほどに楽観的ではないのかも知れない。

 とは言え覚悟の有無はそれ以前の問題だ。なまじ死ぬ事はないと分かっている以上、各々の覚悟には差異がある。神屍の恐怖と真っ向から相対したその時に、機士としての覚悟は初めて露見するのだ。

 ――と。

 鷹音が視線を外した後も、ずっと紗夜の瞳が此方を向いている事に気付く。


「……何?」


 短く問うと、少女は小さく首を傾げて答えた。


「いやその……何て言うか、筱川さんってよく難しい事言うなーって思って。あとたまに、まるで機士が嫌いなんじゃないかってくらいに厳しい顔するし。……筱川さんって、昔何かあったの?」

「ッ」


 裏を探るような深い意味は特に込められていない純粋な質問に、鷹音は一瞬、頬を強張らせた。

 その微妙な表情の変化を悟られたくなくて、少女から顔を背ける。

 さらに不思議そうに眉根を寄せる紗夜を後ろ目で見つつ、刹那の逡巡の後、言葉を吐く。


「……別に」


 下手をすれば足音にすら消え入ってしまいそうなほどに小さな返答は、応じる声なく鋼鉄の回廊に霧散した。

 尚も首を傾げる紗夜を放って置いて、鷹音はようやく辿り着いた扉の取っ手を握る。


「まぁ、君が機士の世界でどう生きるのかは自由だけどね。とにかくまずは、これからお世話になる人達への挨拶周りから始めるべきではないかな」


 そう言って一思いに扉を開ける。

 途端、紗夜の視界には有りっ丈の光と喧騒が飛び込んできた。



     ※



 日本の東京エリア一帯に何百人と存在する機士及び支機官の統括、死廃領域に蔓延る神屍の情報を一挙に保管しているこの場所こそ、正式名称を『国際市民防衛機関ICDO神屍対策全権監理局東京支部』とする、人類の砦と言われる最重要施設である。

 扉を開けてまず紗夜の視界に映り込んだのは、鮮やかな夜を思わせる幾つもの紫紺の光源であった。

 今となっては既に稀少な存在となりつつあるバーやカジノにも似た雰囲気。さすがに天井にカラーボールが吊るされている訳ではないものの、剥き出しの電球からは深みのある紫の光が絶え間なく降り注いでいる。

 中に入れば、かなりの広さを有する空間である事が一目で分かった。

 一般的な教育機関に配置されている体育館が五つは収まりそうなほどに広大かつ開放的な印象がある。

 そんな室内に何十もの人々が入り乱れていた。

 備え付けのソファーに座って談笑する者もいれば、端の方に寄って一人で機械を組み立てている者、何やら分厚い書物を真剣な面持ちで読み進めている者、様々だった。


「……変わらないな、ここは」


 ポツリと呟いて歩き出した鷹音の背を追いつつ、紗夜はしきりに周囲へ視線を巡らせる。

 最も奥まった壁面には、凄まじく巨大な映像パネルが埋め込まれており、画面には日本列島全土の地図が表示されていた。

 ところどころに見える赤い点は何を表しているのだろうか。

 ふと疑問を抱いた紗夜の耳に野太い声が届いたのは、直後の出来事だった。


「おぉおぉオイオイてめぇ! てめぇよ! 鷹音の小僧じゃねぇか!」


 酷く嗄れた声音は、しかし大きく室内に響き渡り、彼等の足を止めさせた。

 紗夜が声のした方向へと目を向ければ、短い黒髪に草臥れたスーツを身に纏う長身の男性が瞠目したままに此方へと走り寄って来ていた。

 名を呼ばれた鷹音は、その顔に途轍もなく嫌そうな感情を乗せて溜息を吐いた。


「……小僧って呼ぶの、いい加減に止めてもらいたい訳だけど。相変わらずちゃんとした恰好が嫌いみたいだね、射葉まとばさん」

「みたいだね、じゃねぇよこの野郎が! こっちから何っ回連絡入れても出ねぇしぽっくり死んじまってんのかと思ったら、なに急に来やがってんだ! アポ取ってから来いやそれが社会人の基本ってもんだろうがよぉ!」

「別に俺も来るつもりは無かったんだけど。ちょっとした事情でこっちの彼女を――」

「んなこたぁどうだって良いんだよ! てめぇ此処に来たって事はあれか、前みてぇにまた戦う気になったんだな⁉ そうかそうかそいつぁ嬉しい知らせだ! 李夏りかちゃんや皇木すめらぎ博士も喜ぶ事間違いな――」

「聞けって話をさぁ」


 厳つい顔ではしゃぐ男性の脇腹へと、少年の蹴りが容赦無く叩き込まれた。


「おぶふぁぁッ⁉」

「恰好もそうだけど、人の話を聞かない癖も一向に直ってないではないか」


 硬質の床に蹲って恥も外聞も無くのたうち回るスーツの男性を見下ろしながら、鷹音は呆れたように肩を竦めた。

 突然の出来事に呆然と立ち尽くす紗夜は完全に蚊帳の外である。


「おふ……て、てめぇも相変わらず俺に対する敬意ってモンが皆無じゃねぇか。あと昔と比べて蹴りの威力が強くなってねぇか……?」

「生憎と筋力トレーニングは一切としてやっていないよ。逆に射葉さんの身体が弱くなったのではないかな? 本気で蹴ると肋が何本か折れてしまいそうで心配だ」

「そりゃあ俺だってもう四十代に突入したんだ。色々とガタが来てんだよ」

「不憫だね、老いって言うのは」


 やれやれと言った風に首を振る鷹音は気だるげに手を差し伸べると、男の腕を掴んで立ち上がらせる。


「と言うか四十代なら尚更ちゃんとした大人をやるべきではないかな。未だに貴方、ネクタイすら結べないだろう」

「うるせぇな。ここじゃ別にネクタイしなくたってやってけんだよ。恰好よか仕事出来るかどうかってのが大事なんだって」

「仕事出来る上に恰好もちゃんとしてたら完璧な訳だけど。そんなだから貴方はその年にもなって所帯を持ててないのではないかな」

「それ言うな!」


 いい年してギャーギャー騒ぐ男性に冷ややかな視線を向ける鷹音は、そこでようやく紗夜をほったらかしにしていた事に気付く。


「そう言えば射葉さん。さっき言いかけたけど、用事があるのはこっちの彼女なんだ」

「んあ?」


 射葉と呼ばれる男性もそこで初めて紗夜の存在に気が付いたらしく、怪訝な様子で彼女を見やる。


「何だ、この嬢ちゃんは。一般人がここに来れるワケねぇから、新しい機士か?」

「あ、はい! 雪村紗夜と言います! よろしくお願いします!」


 そう言って深く上体を曲げて挨拶する紗夜を、スーツ姿の男は物珍しそうな視線で見つめた。


「ほぉ~、何とまぁ可愛らしい嬢ちゃんだ事。こんな若ぇ娘が機士とかお前さんの世代でもあんまし見なかったんじゃねぇか、鷹音よ」

「そうかも知れない。まぁ俺の世代って言ってもたかだか二、三年前だし、そんな昔でもない訳だけど」

「えっ? いや、あの……」


 紗夜が何か反論を告げるより早く、射葉が超大型パネルの設置されている壁際を指さしながら、言葉を紡ぐ。


「まぁ新米がやって来たっつーならまずは李夏ちゃんのトコに行くべきだな。折角ここまで連れて来たんだ。てめぇ、最後まで面倒見てやれよ」

「一応はそのつもりだよ。乗り掛かった舟だし。幼気な女の子を途中で放り投げるってのも後味が悪いしね」

「あと、李夏ちゃんに会ったらちゃんと謝っとけよぉ? 監理局内でお前の事一番心配してたの、李夏ちゃんなんだからな」

「……そう」


 射葉の言葉を受けて曖昧な表情で笑んだ鷹音は、紗夜を促し広大なフロアを横切る。

 手を挙げて「またあとでな~」と大声で告げてくるスーツ姿の男に礼儀正しく一礼をしてから、紗夜は駆け足で少年の隣に並ぶ。


「……あの人、誰? ここの職員さん」

「彼は射葉章蔵しょうぞう。ここ監理局内で主に支機官の統括を担当している偉い人だよ。何かとお世話になる事も多いと思うし、また改めて挨拶に行くと良い」

「う、うん。覚えとく」


 この少年は先程、そんな偉い人を遠慮も無く足蹴にしていた筈だが、まぁ仲の良い関係であるのだろう。紗夜は言及しなかった。

 無言で歩いていると、再び周囲のあらゆるものに意識が向き始める。取り敢えず一番目立つ前方の大型モニターを指さして訊ねた。


「あの大きなテレビは? 日本地図みたいに見えるけど」

「みたいも何もあれは日本地図そのものだよ。まぁ少し特殊な代物だけど」


 そう言って鷹音は右手をあげ、最も赤い点が集束している旧京都エリアを示す。


「あの赤く明滅している点は神屍の分布状況を表しているものだ。今で言えば、旧京都の地域一帯に神屍が集中している事が分かる。機士達はあの赤い点が集まっている場所を、逆に支機官達はあの赤い点が霧散的に配置されている場所を目安に任務へ出る訳だけど……」


 言葉を区切り、今度は示す箇所をかつて九州地方と呼ばれていた区域へと移動させる。

 そこにはあまり神影の分布を示す赤点の集合は見られない。ただひと回りほど大きな点が、ポツリと一つだけ表示されていた。


「あんな風に、点が孤立して周囲に他の神屍が見られない地域には、機士も支機官も出動しない方が良いとされている」

「え、どうして?」


 紗夜が訊ね返すと、スポーツブランドのパーカーに身を包む少年は唐突に立ち止まった。

 そして細めた眼光で以て孤立した赤の点を見やり、説明を再開する。


「たぶん君も、此処へ来る以前に与えられた情報で、神屍には幾つもの『種』が存在する事は知っているだろう?」

「う、うん。でも、大まかな種類だけで個別の神屍の名前まではまだ覚えてないけど……」

「それは機士として仕事をする上で少しずつ覚えていけばいい」


 そこまで言ってから、鷹音はおもむろに指を三本立てた。


「神屍の種は大きく分けて三つ。動物の姿を模した四足歩行の『獣種型』、四肢を有して二足歩行で地を歩く『人種型』、堅牢な鱗や巨大な比翼を持つ『竜種型』。そしてそれらの種にはどうしてかヒエラルキーが存在する。どの種が上位に君臨しているかは想像に容易いと思う訳だけど、どれだと思う?」


 実際に戦場に出た事のある先輩機士の講義とあって真剣に説明を聞いていた紗夜は、唐突に質問を投げかけられてビクリと身を震わせた。昔から教師に問題解答を迫られるのは苦手なのだ。


「えぇっと……竜種型、かな」

「そう。熟練の機士にとっても竜種型は厄介でね。そしてそれは、神屍にとっても同様の事が言える」

「? どういう事?」


 その言葉の意味ばかりは理解出来ずに、眉を潜めて首を傾げる。

 鷹音もさして勿体付ける事無く、すんなり答えを告げた。


「竜種型はその力があまりに強大なせいで、獣種型や人種型と言った他の神屍が忌避して滅多に寄って行かないんだ。恐らく連中にも生存本能みたいなものがあるんだろう。竜種型が一体でも確認された区域には、他の神屍は例外でもない限りは現れない」


「……あっ。それじゃあ、」


 一人で答えに行き着いたらしい紗夜が、声を上げる。

 鷹音は軽く頷き、言葉を続けた。


「あの独立した赤い点は恐らく竜種型のものだ。だから周囲数キロ四方には獣種型一匹いないし、暴れれば有りっ丈の厄災を振りまく存在へは誰も近付こうとは思わない。ましてや討伐なんてもってのほか。暗黙の了解がいつしか厳令になって、練達した腕を持っていない機士以外は竜種型と関わるべきではないとされている。少なくとも、一度も戦闘経験の無い君が相手にして無事に帰って来れる類の相手では無い」

「わ、分かった……気を付ける」


 未だ紗夜は実物の神屍を見た事は無いが、ニュースや新聞などでその脅威は十分に知っている。

 人類の住まう世界へと堕ちた神話の神々の猛威は、けれど人類の反抗など容易く蹴散らすほどに圧倒的だ。その中でもさらに強力な存在とされる竜種型など、恐らく自分は見ただけでも震え上がってしまうだろう。

 悪寒が背中を走り、紗夜は思わず己の腕を掻き抱いた。

 その合間にも鷹音は周囲の人波をスイスイ進んでいく。

 黒を基調としたパーカー姿を駆け足で追いかけ、だが直後、近くを通りがかった局員に運悪くぶつかってしまった。


「わわっ」


 衝突した反動で彼女の小柄な身体が後ろに傾く。

 床に尻もちを搗きそうになった瞬間、少女の背を支える手が何処からか伸び、優しくその体躯を受け止めた。

 ふわりと、薔薇の花にも似た芳香が紗夜の鼻孔をくすぐった。


「あらあら、危なかったですね。大丈夫ですか?」


 次いで至近距離から聞こえてくる、ソプラノを思わす綺麗な声音。

 清廉な印象を宿すその声に、紗夜は刹那、無意識に聞き惚れてしまった。鼓膜を柔らかく震わす女性の言葉に余韻を感じながらも、少女はゆっくりと声の主へと視線をやる。

 そしてそこでまた、紗夜は硬直した。

 何と可憐で麗しい女性なのだろうか。

 長く伸びる濡羽色の黒髪に透き通るような白い肌。少し赤みを帯びたスーツに同色のタイトスカート。加えて完璧と言っても過言ではないほどにスタイルが良く、適度に膨らんだバストと滑らかな曲線を描く腰部は世の女性の羨望を欲しいままにするほどだ。

 慈愛に満ちた微笑みを口許に浮かべ、間近より覗き込んでくる美貌に、紗夜は同性でありながらも見蕩れた。

 訊ねても一切の反応が無かった為か、唐突に現れた麗人は淑やかに首を傾いだ。

 耳にかけられていた絹の如き黒髪がサラリと垂れ、更に甘い匂いが広がる。


「……あのぅ」

「はっ!」


 再び声を掛けられ、紗夜はようやく我に返った。

 俊敏な動きで立ち上がり、二メートルほどの距離を空けて立ち、勢い良く上体を折る。


「すっ、すみませんでした! ちゃんと周りを見てないせいで迷惑かけてしまって……今度からはちゃんと気を付けます! あの、あ、ありがとうございました‼」


 美しい女性を間近から見てしまった事による緊張からか、その女性にみっともない姿を晒してしまった事による羞恥からか。

 ともかく、いつもより二割増し程度の早口でまくし立てた謝罪の言葉であった。

 謎の麗人は暫しの間、唖然としたように静止していたが、やがて顔を背け口許に手をやると、小さく「ふふっ」と笑った。そんな何気ない仕草すら洗練されたように美しく、紗夜はまたも目を奪われる。

 こちらに向き直った女性はコホン、とひとつ咳を吐くと、ゆっくりと口を開いた。


「申し訳ありません。そんなに恐縮されるとは思っていませんでしたから、少し驚いてしまって。お怪我はありませんでしたか?」

「は、はい! おかげさまで!」


 紗夜がハキハキとした返答をすると、女性はまた優しく笑みを浮かべた。

 そして煌めく黒の双眸がじっくりと紗夜の全身を見渡したかと思うと、小さく首が縦に振られる。


「……事前に頂戴していた情報と合致。本日、当局への訪問を予定されていた雪村紗夜様でいらっしゃいますね?」

「えっ」


 女性の言葉に、少女は思わず瞠目した。

 彼女と会ったのは今日が初めてであるし、自分の名前を名乗った覚えも無い。にも関わらず、女性の口からは確かに紗夜のフルネームが発せられた。

 ポカンと口を半開きにして固まる少女へ、さらに言葉が紡がれる。


「申し遅れました。私は、国際市民防衛機関ICDO神屍対策全権監理局東京支部にて主に機士の方々のサポートを請け負っています、オペレーターの華嶋かしま李夏と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 優雅に腰を折って挨拶をする麗人の名を、先ほど出会った射葉と言う男性から何度か聞いたのを紗夜は思い出した。目の前の美しい女性が、そうか。紗夜の頭の中で、ようやく名前と顔の認識が一致した瞬間だった。

 慌てて少女も挨拶を返す。


「わわっ、私は、雪村紗夜ですっ。こちらこそ、よろしくお願いします!」


 ぺこりと頭を下げると、華嶋李夏と言う名の女性が後ろ手に携えていたバインダーを見始める。幾つか挟まれている書類をパラパラと捲りながら、言葉が続けられる。


「当監理局への出頭は本日が初めてでございますね?」

「は、はい!」

「当局へはお一人でいらしたのですか?」

「あ、いえ。一人だと迷ってしまったので、あそこにいる筱川さんに案内をしてもらいました」


 そう言って少し離れた位置で黙って控えていた少年の方を指し示す。

 彼は表情に僅かな懐古の色を浮かべて、穏やかな瞳で此方を眺めていた。

 その瞬間、ガシャン、と言う音が紗夜の耳に届いた。李夏の抱えていたバインダーが、彼女の手を離れて床に落下した音である事はすぐに分かった。

 鷹音を向く女性の顔は、驚愕と怪訝に染まり、その目は信じられないものでも見たかのように開かれていた。薄桃色の艶やかな唇も、小刻みに震えている。


「……え、嘘……どうして…………」


 か細い声が発せられると、それに応えるかのように、鷹音は一歩ずつ李夏の方へと歩み寄って来た。

 複雑な感情が入り混じる言葉が、吐かれる。


「……久しぶりだね、華嶋さん。こうして会うのは丸っきり二年ぶりな訳だけど。一度覚えた事は何があっても忘れない頭の良さは、昔から変わらないみたいだ」

「え?」


 少年の言葉に紗夜はきょとんとして、両者の顔を見比べる。

 微かに瞼を伏せ、気まずさを漂わせて佇む鷹音と、呆然と立ち尽くし瞳を潤ませる李夏の視線が、完璧に交錯する。

 そして次の瞬間。


「きゃ―――――――ッッッ‼ 鷹音くんじゃないですかぁ――――――――――ッッッッッッ‼」


 直前まで紗夜が抱いていたイメージの全てを根底から崩落させた上で、彼女は周囲の目も気にする事無く、眼前に立つ少年へと思い切り抱き付いた。

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