第9節
ヴェルレーヌはブリュッセルのグラン‐トテル‐リエジョワに投宿した。あの「ブリュッセルの不意打ち」があった場所だ。マチルドには既に七月七日正午までに来てくれなければ、頭をピストルで撃ちぬくと知らせてあった。四日には母親にも自分の悲壮な決心を伝え、マチルドには電報で駄目を押した。ところが五日、ヴェルレーヌは二十歳の画家で母親の名付け子であるオーギュスト‐ムーロに路上で偶然出くわした。「自殺するんですって? 」「そう決めたんだ」「でもなっちゃいませんよ、あなたの話は! 女のために自殺なんかしないものです! 」若者は説いた。生きることにうんざりしているなら、兵士となって高貴な理由のために死んだらどうだ。スペイン共和派と戦っているドン‐カルロスの軍隊に入ることだ。スペイン大使館に行けば志願兵の登録が出来る。ヴェルレーヌは納得した。あんな女のために自殺などするものではない。あの女は今度も平然と家に留まっているだろう。失敗だった! だが表向きゲームは続く。やって来た母親は縁起でもないことはやめてくれと泣き付いた。七日になり、正午の鐘が鳴り渡った。マチルドはやはり来なかった。翌朝、ヴェルレーヌはランボーに電報を打って呼び寄せる。そして彼はムーロと落ち合うことにしていたスペイン大使館に赴く。そこで知らされたことは外国人の入隊志願は受け付けていないということだった。同日夕刻、ランボー、ブリュッセルに到着。
九日、ヴェルレーヌの考えは一つに絞られた。つまりパリに行き、ありとあらゆる手段を講じて夫婦の生活を再開するようマチルドを説得することだ。邪魔立てする者は誰であろうと容赦しない。彼はランボーの心づもりを尋ねる。彼は手紙に書いた通り、パリに戻るさ、と答える。フォランが下宿先を何とかしてくれそうでね。パリだって! そいつは無茶だ! 何もかもが蒸し返されて、またしても地獄だぜ。駄目だ。ヴェルレーヌはランボーに計画の変更を求める。どこへでも好きな所に行っていいが、パリだけは駄目だ。しかしランボーは意志を曲げない。パリ行きは自分にだけ関わる問題だ。ヴェルレーヌ夫婦には何の関係もない。夫婦のいざこざのために自分の自由を犠牲にする気はない。母親譲りの頑固さだ。ヴェルレーヌはこの時やっとランボーを呼び寄せた自分の過ちに気がついた。二人の口論は続く。アルコールによってその激しさは増す。
十日。朝六時頃ホテルを出たヴェルレーヌは、あたりをぶらつき、モンティニー銃器店で六連発のピストル一丁と五十発入りの弾薬箱を買った。その後、一杯ひっかけて度胸をつけ、カフェでピストルに弾を込めた。昼頃ホテルに帰ってきて、自分の買ってきたものをランボーに見せた。そんなもの、どうするつもりだ、とランボーが尋ねると、「これでお前や俺や、みんなをやっちまうんだ! 」と答えた。二人は酒場に行き、話し合いを続けた。二時頃戻ってきたが、言い争いがまた始まり、それは益々険しく荒々しいものになっていった。パリ行きの列車は三時四十分に発車しようとしていた。ランボーは身の回りのものをまとめ、旅費の二十フランを用立ててくれるようヴェルレーヌ夫人(ヴェルレーヌの母親)に頼んだ。ヴェルレーヌはそれに反対した。金などなくても出発するとランボーが言い切ると、ヴェルレーヌはドアに鍵を掛け、それを背にして椅子に腰掛けた。そして、「貴様が発つというのならこれでも食らえ! 」と喚くと、ランボーに向けて拳銃を発射した。弾は彼の左手首に当った。すぐ二発目が発射されたが、これはランボーには向けられておらず、床から三十センチほどの壁の中に消えた。ヴェルレーヌ夫人が駆けつけ、負傷者にひたすら労りの言葉をかけた。茫然自失したヴェルレーヌは啜り泣きに体を震わせながら、母親の部屋に飛び込み、ベッドに身を投げた。母親がハンカチで傷口を繃帯しているところに戻ってきた彼は、ランボーに銃を握らせ、「さあ、俺のこめかみに撃ちこんでくれ」と促した。三人は病院に行き、傷の手当てをした。弾はこの時は摘出されず、鎮痛剤が渡されて帰ってきた。事件に気づいた人は誰もいなかった。ヴェルレーヌは謝罪し、傷が治るまで一緒に居るか、入院するようにランボーに勧めた。ランボーは今夜の列車に乗ることに変りはないと答えた。これが再びヴェルレーヌを絶望的にした。いさかいが再燃しそうだったのでヴェルレーヌ夫人はランボーをその場から追い出すために二十フランを渡した。二人はランボーを駅まで見送った。ヴェルレーヌは許しを請いたいからとたって同行を願ったのだ。しかし彼の頭の中ではランボーがパリに行くことで永久に失われることになる妻マチルド、息子ジョルジュ、自分の幸福が渦巻いていた。「いや、そうはさせないぞ…」彼は突然どんどん先に歩きだし、振り返ってランボーに向って行った。手が上着のポケットに動いた。そこにはピストルがあった。ランボーは回れ右をして一目散に逃げだした。広場を警邏中の警官が居た。ランボーは後を追ってくるヴェルレーヌを指差しながら、「あの男を逮捕して下さい。僕を殺そうとしてるんです! 」と訴えた。
ヴェルレーヌは逮捕され、留置場に入れられた。ランボーは後でヴェルレーヌに対する告訴を取り下げ、民事上、刑事上のあらゆる訴訟の権利を放棄したが、ヴェルレーヌに対する刑罰は軽減されなかった。禁固二年、並びに罰金二百フランの判決が下った。ヴェルレーヌは上告したが、ブリュッセルの控訴院は一審を追認し、判決は確定した。
こうしてヴェルレーヌを巻きこんで遂行された「見者」を目指す実践、彼等の言葉で言えば「十字架の道行」あるいは「地獄墜ち」は終結した。
※ ランボーの作品、書簡の引用は*の箇所を除き『全集』によった。*の箇所は『素顔のランボー』(宇佐美斉編訳 筑摩書房 一九八八年)によった。
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