Ⅲ 『地獄の季節』

第1節


 『地獄の季節』はランボーが生前刊行した唯一の著作である。この著作にはそれだけの重要な意味があった。それはこの著作が「見者」を目指した実践の総括であり、これを書くことでランボーは「見者」の道から離脱して行ったということだ。以下、その内容を辿りながら、「見者」への道、ヴェルレーヌと過ごした日々のランボーにとっての意味合いを考えていきたい。


 a 「悪い血筋」


 この最初の章でランボーは、いかに自分が「悪い血筋」の生れかを強調する。「おれは、ゴール人である先祖から、青くて白い眼と、狭小な脳漿」を受け継いだ。「ゴール人は、当時にあって最も無能の、けものの皮剥ぎ人、草焼き人」だった。「おれ」が彼等から受け継いだものは「偶像崇拝と、涜聖への愛」「ありとあらゆる悪徳、憤怒、淫乱」「嘘っぱちと怠惰」だ。「おれは、手仕事というやつは、どいつもこいつも片っ端から大嫌いなのだ。」「生きるためにさえ自分の体を使おうとせず、それこそ蟇(がま)よりももっとのらりくらりと、このおれというやつは、処かまわず暮らしてきた。」結論としては、「このおれがいつも劣等種族だったということ」だ。血筋の記憶を溯ると、「老婆たちや子供たちといっしょになって、赤く染まった森の空地で、悪魔の夜宴の踊りをおどる」姿が浮かぶ。「永久不変の劣等種族」である「おれ」は異教徒でもある。しかも「ニグロ」だ。「異教の血が戻ってくる! 」「おれは一匹の野獣であり、ニグロなのだ。」ドラエー宛の手紙でこの著作の総題を『異教徒の書』あるいは『黒人の書』と書いた理由だ。こうして「おれ」は一般の西洋人、つまり「白人」とは無縁の存在である。ここにはランボーの自己意識が出ている。彼がパリやロンドンで暮らしながら、周囲のヨーロッパ人とは同化できない意識、疎外意識、あるいは自己を特別な存在とする意識を抱いていたことが感じられる。宗教否定、ブルジョア的秩序否定の意志がその核にあることは明らかだ。それは「見者」の意識なのだ。自分を未開な異教徒とすることで、「おれ」は「無垢」を主張する。「法律などわからない」「道徳の感覚なんてものの持ち合わせはない」「一匹のけだもの」、「あんたがたの理性および信仰の光なんぞには、眼を閉じてきた」この「おれを裁判にかけるなんて間違っているぜ」。「おれは、悪をおかしたことなんかまったくないのだ。」「見者」の道をたどることが「地獄堕ち」として罰せられたことに対する抗弁がここにはある。

 「おれ」を「ニグロ」としたランボーは、返す刀で白人を「いかさまのニグロ」と斬っている。「偏執狂で、残忍で、守銭奴である、あんた方」、商人、裁判官、将軍、そして皇帝、みな「ニグロ」だ。「この大陸では、狂気がうろつきまわっている」から、「一番抜け目のないやりくちは、この大陸を去ることだ」。西洋の拒否。ランボーの今後が予告されている。

 しかし「劣等種族」も捨てたものではないのだ。今や、「劣等種族がすべてを覆ってしまったのだ。ーいわゆる民衆を、理性を、国家を、そして科学を」。「おお! 科学! いっさいのものが取り戻されたのだ。肉体のために、そして、魂のために、」「劣等種族」は科学を重んずる近代人をも意味している。「劣等種族」とはキリスト教とブルジョワジーに対する仮面であり、その素顔は近代人なのだ。「地理学! 宇宙形状誌、力学、化学! 」「科学、新興貴族だ! 進歩。世界は進む! 」ランボーの科学好フィロマットき、学問好きについてはヴェルレーヌの証言がある。「ランボーは、あの年頃の若造どもと違って、どのような本でも好み、十四歳にして古代や中世やルネッサンスをすっかり頭に入れ、近代の詩人や、デボルド=ヴァルモールからボードレールに至るまでの最も洗練されていて最も天真爛漫な現代詩人などを宙で覚えていた。(略)それと同時に彼の好奇心はあらゆるものにーじつに風変わりで興味を持つのにふさわしい、ありとあらゆるものに拡がっていた。たとえば、数学だが、(略)その神的な正確さゆえに、彼の心を惹きつけていたと思う。さらに芸術とは無縁の技師の仕事や産業上のものをも含めて、建築学が彼の気に入り、その知識欲をそそっていた。幼年期からの、こうした全般的な《学術愛フィロマット》の傾向は、その生涯の終わりまで続いたに違いなかった。しかもこの《学術愛》という偉大な言葉は、普段はこのうえもなく寡黙でありながらも、私の途方もない人生のなかで会うことのできた人々のなかでも総合的に最も複雑であった彼が、格別の愛着をこめて語っていた言葉であった。」科学的知見、学問的知識への関心はランボーの生涯を通じて持続した。


 b 「地獄の夜」


 前章では自分の「無垢」を主張した「おれ」だが、この章では一転して「地獄堕ち」の惨を描く。現実のランボーは形式的には「ごくっと一盞、みごとに」洗礼という「毒をのみ干した」キリスト教徒である。だから涜神の言動をすることで、「地獄堕ち」の罰は避けられないのだ。「毒液のもつ暴力が、おれの手足を捩じり、形相を歪め、おれを地面にぶっ倒す。おれは死にそうに咽喉が渇く。おれは、息がつまる。おれは、叫び声も出ない。こいつは地獄だ、永劫の責め苦だ! 見ろ、この火の燃えあがりようを! おれは、申し分ないくらいに、焼け上がっているのだぞ。どうだ、悪魔め! 」西洋社会の精神的な基盤となっているキリスト教の重圧、「信心ごり」の母親によって自らの内に形成されたキリスト教的な心性、これらがランボーの内面に強い分裂を起こしているのだ。「おれは、おれの洗礼の奴隷なのだ。両親よ、あなたがたは、おれの不幸をつくったし、あなたがた自身の不幸をもつくった。」内的葛藤だけでなく、涜神的言動が周囲と衝突して作り出す「地獄」ももちろんある。しかし、「おれ」は、「哀れで、罪無きこのおれよ! 地獄だって、異教徒に対しては手出しができぬ。」と立ち直りを計る。しかし、異教徒であることで背教による地獄は免れるとしても、自分の「怒り」や「思い上がり」、そして「愛撫」による地獄は避けられない。「おれたちの醜さに眼を据え」れば、「火は地獄堕ちの男を包みこんで燃えあがる」のだ。注目される箇所がある。「幻覚というやつは、数限りなくある。これこそ、まさに、おれがつねに手中に持っているものだ。つまり、もはや歴史なんぞに信を措かなくなっているし、原理のたぐいも忘れてしまっているというわけだ。おれはそういった幻覚については黙っていることにしよう。詩人とか幻想家とかいった連中に妬まれそうだから。おれのほうが、奴らなんかよりも千倍も豊饒なのだ。」ここには詩作に対する態度の変化が述べられているようだ。つまり詩が幻覚と密接するようになったこと。関連して、詩人が「幻想家」として意識されるようになっていること。そして「おれ」が「詩人とかいった連中」とは距離をおいていることだ。これはやがてランボーが詩人であることを止めるにいたる過渡的な状態を示している。もう一つ、注目される箇所をあげよう。「さあ、みんな、来るがいい。ー子供たちもだ、ーおれがみんなを慰めてやれるように、みんなのために心をひろげてやれるように、(略)ーあわれな人々よ、労働者たちよ! おれは、祈りなど求めはしない。あんたがたの信頼をかち得たならば、おれは、幸福になれるだろう。」ここには労働者に対する関心の持続を見ることができる。


 

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