第8節
九月七日、ランボーとヴェルレーヌの二人はドーヴァー行きの郵船に乗りこむ。翌日ロンドン着。ここでも亡命中のコミューンの活動家たちが彼等を迎える人々であり、その仲間のヴェルメルシュが二人に譲り渡したハウランド街三十四番地のアパートに落着く。大英博物館をはじめ、各所を見物。当時最先端の近代都市の威容と喧騒と活力、その陰の貧困と悲惨に目を向ける。ランボーは『イリュミナシオン』の幾つかの部分をこの頃書き始めた。
一方、パリでは十月二日、モーテ家の代訴人によって離別請求の申請書が裁判所に提出された。この時期、ランボーと過ごすヴェルレーヌの気掛かりは二つあったと思われる。一つは、これはパリ‐コミューンの潰滅以来彼が抱いている不安であるが、コミューン協力者である自分に対する当局の追及だ。実際、パリ、ヴェルサイユ、ヴァンセンヌ、シュレーヌにおける軍法会議では八千人を超える有罪判決が下され、コミューンに荷担した役人の逮捕は続いていた。警察は国境を越えて監視の目を光らせていた。ヴェルレーヌの名はリストに載っていた。もう一つの懸念は離別訴訟の成り行きだった。こちらの方はヴェルレーヌには甘く見るところがあった。マチルドには本当に別れようという気はなく、周囲がそうさせているので、彼女を説得すれば収まりがつくという思い込みだ。
一八七三年四月三日、ヴェルレーヌはマチルドを説き伏せるためにパリに行く決心をして、ニューヘブン行きの列車に乗った。そしてディエップの郵便船に乗りこもうとした時、胡散臭げな二人の男がコミューン関係者を待ち受けている運命について話しているの耳にして、慌てて引き返した。彼はマチルド宛の手紙を書き、裁判は互いの不幸にしかならず、幼いジョルジュの事も考えて、和解の道をとることを訴えた。ついては自分は今からナミュールに行くからそこに迎えにきてほしい。これが最後のチャンスだ。君は来てくれるだろう。呼びもしないのにマチルドがやって来た、あの「ブリュッセルの不意打ち」の再現をヴェルレーヌが期待していたのは確かだ。四月四日、ドーヴァーからコンテス‐ド‐フランドル号に乗船、アントワープに着く。ナミュールで彼は旧知の司祭にマチルドとの和解の調停を依頼する。ところがそこにマチルドからの手紙が届く。内容は明確な拒否。「あなたの感傷的性格からすると、訴訟に負けるのではという恐怖が目に見えるようですわ。私の方は怖くなんかありません、負けっこないとわかってますから。だからあれこれと呼び出したりして私を悩ますのはやめて下さい。」ヴェルレーヌは危うく卒倒しそうになった。彼は打ちのめされ、ジュオンヴィルの叔母の許に身を寄せた。
ロンドンに一人残されていたランボーはこの頃、荷物を纏め、母親がそこに農地を所有していたロッシュへ向って出発した。ロッシュは母方の一族の発祥地で、そこには既に家族(母親、兄フレデリック、二人の妹)が来ていた。五月、ランボーはこの地からドラエーに手紙を送り、「母上は俺をこの陰鬱な穴の中に押し込めた」と嘆き、自分は今、「散文の小さな物語をいくつか書いて」おり、その総題は『異教徒の書』か『黒人の書』となるはずだが、自分の運命はこの本にかかっていると伝えた。後に『地獄の季節』となるものだ。
ランボーとヴェルレーヌ、それにドラエーは、フランスとの国境に近いベルギーの町ブイヨンで何回か会食したりしたが、五月末、ランボーとヴェルレーヌは再びイギリスに向けて旅立つ。ロンドンではハイゲート‐ヴィレッジの近くのアレクサンダー‐スミス夫人宅の一室を借りた。ここで二人は英語の勉強や、大英博物館での読書や研究、芝居見物にもよく出かけた。一方、ヴェルレーヌは日に二時間、三シリングでフランス語を教え、家賃と煙草代を稼いだ。彼は訴訟については「この問題にきっぱり片をつけるのは法律の仕事」と割り切り、訴訟が解決しないうちはパリに戻らないつもりだった。「自分は人道上許される範囲のことをして、妻の愚かさや悪意に打ち勝とうとしたのだ」「良心のおかげで平静でいられる」と彼は考えようとしていた。
六月末になると、自分は立ち直ったと思えるようになった。しかしその頃、ヴェルレーヌの心の平衡を危うくする状況が生まれてくる。彼とランボーの同性愛的関係がコミューンの亡命者の間で囁かれ始めたのだ。これにヴェルレーヌは耐えられなくなる。これはモーテ家の水車が差し向けた水だ、とヴェルレーヌは思う。「胸糞の悪い中傷非難の類なら粉砕してやる」とルぺルチエには書くが、原告側の証人に取り囲まれたらどう抗弁するか。敗訴は明らかだった。彼は酒を飲みだし、呻いたり泣いたりし始めた。
しかしランボーはそんなヴェルレーヌを受けつけない。ランボーはそんな彼の弱さに嫌悪の情を抱く。「不憫な兄貴だ! あいつのお陰でどれほど耐え難い不眠の夜々を過ごしたことか! 」(『イリュミナシオン』「放浪者」)プチフィスの表現を記せば、「この似非『見者』はただの臆病者に過ぎず、だからあんな女房や義父が彼には似つかわしいのだ! 」
二人はしばしば激しい喧嘩をし、ナイフを持ち出す決闘となったりもした。血が流れると、すぐさま二人は駆け寄って、「数ジルのブランデー」を前に仲直りするのだが、ヴェルレーヌが妻と家庭を失うことを恐れれば恐れるほどランボーは冷酷になり、ランボーが冷酷になればなるほどヴェルレーヌはマチルドを懐かしむという「地獄のサイクル」。
ある日、ランボーがコミューンの亡命者の一人であるジュール‐アンドリューから、人の見る前で門前払いを食わされた。これで内密の囁きが白日のもとに曝されたのだ。ヴェルレーヌは侮蔑的な沈黙、敵意の籠ったほのめかし、皮肉に満ちた薄笑いなどに出会うことになる。彼は、誤解だ、陰謀だ、自分にはそんな趣味はないと言い切ったが、信じてもらえないと知ると行動に出ようと決意した。
七月三日、片手にニシン、もう一方の手に油の壜をぶら下げて買物から帰ってきたヴェルレーヌをランボーが、「油とニシンとご一緒とは何とも抜けて見えるよ! 」とからかった。これがきっかけを与える。ヴェルレーヌは激怒しながら部屋に入り、友を突き飛ばし、こんな地獄墜ちの生活はもうたくさんだ、と言い放ちながら、旅行鞄を掴むと外に出て行った。すでに計画は出来ていたのだ。ロンドン港の方へぐんぐん歩いて行くヴェルレーヌをランボーは茫然として見送る。
船上の人となったヴェルレーヌはランボーに手紙を書く。「君の気まぐれ以外に原因のないあの乱脈で修羅場ばかりの生活が、もうこれ以上僕を悩ますことはできない。もしも今から三日以内に完全な条件で女房と再び一緒になれなかったら、僕は口中に一発打ちこんでみせる。」というような内容だった。追伸には「いずれにせよ僕たちは二度と会うまい。女房がもしやって来れば君に住所を知らせる。そしたら手紙がほしい」とあった。ランボーは「君の手紙には何一つ実のあることは書いていない。君の細君は来るもんか。(略)僕と居て初めて君は自由になれるのだ。僕だって今後は聞き分けをよくするからと誓っているのだし、こっちの過ちは全部悔やんでいるし、気持もやっとはっきりしたし、君を大変愛してもいるしするのだから、もし君が戻って来ないか、それとも僕が君のもとへ行くことを望まないのであれば、君は一つ罪を犯すことになり、一切の自由は失われるやら、今までに味わってきたのよりも多分もっと無残な倦怠に悩まされるやらで、長年の間後悔し続けることだろうよ」という手紙を送る。末尾には、連絡がなければパリに発つつもりだと書いてあった。
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