第7節
七月七日、ついにヴェルレーヌはランボーと連れだって出発する。その日、マチルドが高熱を伴う激しい神経痛で床に臥せた。ヴェルレーヌは会社に行く途中掛かり付けのアントワーヌ‐クロ先生の所に寄って往診を頼もうと言って出かけた。前の晩、夫婦は口論ひとつしておらず、ヴェルレーヌは妻にキスをして出て行った。ところが、家から遠からぬところでランボーに出くわす。ランボーはヴェルレーヌに手紙を届けに行くところだったと言う。その手紙の内容とはこうだ。いまやはっきりした。皆が僕を避けているし、パリではもう何もすることがない。そこで、先ずベルギーに発ち、広大な世界の発見に身を投じるつもりでいる。忍耐はもう限界だし、決心はかたい。君とはこれでお別れだ。ヴェルレーヌは何とかランボーを鎮めようとした。自分は「十字架の道行」の約束を忘れたわけではない。しかし、周りの警戒心を鈍らせなければならないし、もう少し時間が必要だ。ランボーはさえぎった。「今すぐ僕と一緒に行くか、もう二度と会えなくなるかどっちかだよ。」するとヴェルレーヌは俄に勇気を取り戻した。「じゃ、行くとするか! 」
彼等はブリュッセルに行き、ヴェルレーヌはそこから妻への手紙を書き送った。「かわいそうなマチルド、悲しまないでくれ、泣かないでくれ、僕は悪い夢を見ているんだ。そのうち戻る。」二人はブリュッセルで亡命しているコミューン関係者と会う。彼等は会合を開いたり、小新聞を発行したりしていた。彼等からヴェルサイユ軍の残虐行為についての証言を聞いたヴェルレーヌは、パリ‐コミューンに関する一冊の本を書くことを思いつき、その資料を自分の仕事机の引出しから送ってくれるよう、マチルドに手紙を出した。マチルドはヴェルレーヌの引出しを探って、資料の他にこの三月―四月の間のヴェルレーヌ宛のランボーの手紙を発見する。ランボーとは縁を切ったというヴェルレーヌの話が嘘だったことを彼女は知る。そのランボーの手紙の文面は憎しみと卑猥な言葉に満ちており、マチルドは彼が狂っているという思いを強く抱いた。シャルル‐クロから聞いた短刀による「実験」の話やコップに硫酸を入れた話を思い合わせると、何をしでかすか分らない狂人という考えは一層強まった。そのランボーが一緒だと知ったマチルドはヴェルレーヌの命が危険だと思った。彼女はヴェルレーヌを怪物の爪から引き離し、「悪い夢」から一刻も早く目覚めさせることを自分の義務と考えた。彼女と母親のモーテ夫人は七月二〇日、ブリュッセルに旅立った。ヴェルレーヌには前もって連絡をしておいた。
マチルドは今後はこれまでと同様にニコレ街のモーテ家で暮すことはできないと思っていた。彼女は二人でニューカレドニアで過ごすことを考えていた。安心して付き合える知人が何人かいたし、ヴェルレーヌにはコミューンの流刑囚たちが資料を提供してくれるはずだった。息子ジョルジュは両親に預け、二年ほど滞在すれば悪い仲間との縁も切れるだろうと考えた。ブリュッセルのホテルで再会した二人は喜びの中で抱き合った。マチルドが戻ってきてほしいと言うとヴェルレーヌは歯切れ悪く、自分の一存では決められないような返事をした。そこでニューカレドニアで過ごす計画を話すと彼は乗り気になった。午後五時発のパリ行きの列車に乗る予定を立て、四時に駅近くの植物園で会うことにして別れた。
ヴェルレーヌは約束の時間に現れたが、ランボーと会ってきたようで酔っており、沈んで不機嫌な様子だった。とにかく汽車は出発した。国境の駅で全員が下車した。税関を通過した後、ヴェルレーヌの姿が消えた。発車時刻が迫っても彼の姿は見つからず、マチルドとモーテ夫人だけが乗車する羽目になる。扉が閉まった時、ホームにやっとヴェルレーヌの姿が現れた。「さぁ早く乗って! 」とモーテ夫人が叫ぶと「いや、僕は残る」と彼は拳骨で帽子を目深にめり込ませながら言った。これがマチルドとヴェルレーヌの二人が会う最後となった。後日談だが、呼びもしないのにマチルドがブリュッセルまで連れ戻しに来たことはヴェルレーヌに強い印象を与えたようで、彼はこの後マチルドの行動に甘い期待を抱くようになる。
家に帰り着いたマチルドは頭痛と高熱で丸二日間昏倒する。三日目にやっと落ち着いて、目を覚ました彼女にヴェルレーヌが国境の駅で書いた手紙が手渡された。「いやしむべき妖精の人参さん、二十日鼠の姫君、ひねりつぶして壺に捨ててやりたい南京虫め、何もかも台無しにしてくれたね。君はたぶん、僕の友人の心を踏みにじってしまったのだ。僕はランボーのもとに帰る。君のせいで僕が犯してしまったこのような裏切り行為のあとで、彼がまだ僕を欲してくれるならばだが。」マチルドはこの時ヴェルレーヌとの離別を決意した。
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