第2節
2 「見者」への道
シャルルヴィルでのランボーの友人はドラエーの他にレオン‐ドヴェリエールとオーギュスト‐ブルターニュがいた。レオン‐ドヴェリエールは共和派で、『
ランボーはヴェルレーヌについて、「僕は今ポール‐ヴェルレーヌの『艶なる宴』の綺麗な十二折本を持っています。まことに風変わりで、奇妙なものです。でも、正真正銘、素晴らしい作品です」(一八七〇年八月二五日付イザンバール宛手紙)とか「高踏派と呼ばれる新しい潮流には二人の見者がいる。アルベール‐メラと、真の詩人ポール‐ヴェルレーヌ」(一八七一年五月一五日付ドメニ―宛手紙)というように高く評価している。ランボーは早速、自作の五編の詩に手紙を添えて、ヴェルレーヌ宛に出した。手紙の末尾にはブルターニュの推薦の言葉が付されていた。ランボーは手紙のなかで、ヴェルレーヌの作品の熱心な愛好者であると自らを紹介し、自分の理想、憤怒、情熱、倦怠、要するに自分の現状を伝える一切を書き綴った。そして自分の詩への審判をヴェルレーヌに委ねた。ヴェルレーヌの返事を待ちきれず、三日後にも別の詩三編を添えた手紙をヴェルレーヌに出した。ランボーはそのなかで「私は偉大な詩を書く企てをいだいています。ところが、シャルルヴィルでは仕事が出来ません。無一文なので、パリに出て行くこともままならぬ始末です。母は寡婦で信心にこり固まっています。日曜日に、教会での椅子代を払うための十サンチームしかくれません」と書いたという。やがてヴェルレーヌからの返事が届いた。ヴェルレーヌはランボーの作品に対して賛辞を連ね、いくつかの忠告もした。「私も君の狼狂症の臭気のようなものを持っています」と気質的な親近感も述べていた。そして君のような若い詩人をパリに呼びよせ、生活させてやることができるかも知れないが、その前にいろんな人々と協議しておかなければならないと書いていた。そして、第二信が届く。「来たまえ、親愛なる偉大な魂よ! みなが貴兄を呼び、貴兄を待ち侘びている」と書かれていた。
ドラエーの思い出には興味深い記述がある。ヴェルレーヌから招来の手紙が届いた時のランボーの反応だ。「微笑みかける運命」を前にしてランボーには「あとじさり」があったというのだ。「冷たく透徹した峻厳な予感」と彼は書いている。それを彼は「傲慢への誘惑に直面して、『まず己を知れ』と、自らに言わしめる、あの強烈な精神の明晰さ」と解しているが、私には前途に控えている苛烈な闘いに対する、ある躊躇のように思われるのだ。なぜならランボー目的は「見者』になるための実践だったから。
一八七一年九月中旬、ヴェルレーヌから送られた為替を換金した旅費と自分で稼いだ僅かな金を持ってランボーは出発した。母親は新しい上着を一着与えただけだった。パリに着いたランボーは、ヴェルレーヌが住んでいた、ヴェルレーヌの妻の家を訪ねる。そこで彼はしばらくの間過ごすことになる。当時ヴェルレーヌは結婚して一年余りが過ぎたころであり、妻マチルド‐モーテは身重であって、最初の子の出産を一ヶ月後に控えていた。まだ新婚家庭だった。ヴェルレーヌ家とモーテ家はどちらも土地持ちの裕福なブルジョアであり、結婚時の持参金がヴェルレーヌの方が二万七千フラン、妻マチルダ‐モーテが一万フランと宝石類、それに利息三パーセントの五〇フランの公債証書が付いていたという。
ヴェルレーヌはランボーを家に住まわせ、「醜い好漢たち」という芸術仲間の集まりに彼を紹介した。その晩餐会でランボーは用意していた「酔いどれ船」を朗読し、一座を瞠目させた。出だしは順調だった。ヴェルレーヌはすでに有名な詩人であり、文壇の大御所ヴィクトル‐ユゴーとも親交があった。ランボーが適正にマナーや礼儀を守り、作品を発表していけば、彼も遠からず有名詩人の仲間入りができたことだろう。しかし彼はそうしなかった。なぜなら「見者」を目指していたからだ。
パリ時代、彼の周囲の人はヴェルレーヌ夫妻を始め、殆どがブルジョア階層の人々だった。そのことへの反発が「見者」を目指す彼の態度を一層鋭角的で非妥協的なものにしたと思われる。
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