第5節

   3 初期散文詩

                                           

 出発期のランボーの詩作品は初期韻文詩として纏められている。大体、一八七〇年から一八七一年にかけて書かれた作品群だ。そこに見られる傾向や特徴を見ていくことにしたい。                                        

表現的には、『全集』で韻文の翻訳を担当した金子光晴が書いているように、「初期の作品には、やわらかい叙情の詩が多く、」「描写は、あくまでリアリズムで、(略)いきいきと躍動している」ということが言える。難解さはほとんどない。          

 内容的に注目すべき傾向として次のようなものが挙げられる。              

 ①子供や貧しい者など、弱者や受難者への愛情。②共和主義者・革命派としての立場の宣明。③王やキリスト教の権威の否定。④異性への憧れ、あるいは官能的な欲求の解放、である。                          

 ①を表す作品としては、「みなし児たちのお年玉」「びっくりしている子供たち」「会にあつまる貧しい人々」などがある。「みなし児たちのお年玉」は両親のいない家のなかで、「お母ちゃんは、いつかえってくるのかしら」と母親を慕う四才の二人の子供に天使が「柔らかなねどこ」としての母親の夢を見させてやるという詩だ。この詩には父親がおらず、また「甘えられる」母親も持たなかったランボーの心情が投影している。「びっくりしている子供たち」は、パン屋があなぐらで「でっかいパン」を焼き上げる様子を、雪が降り、寒風が吹く窓の外にしゃがみこんで、「身じろぎ一つ」せず覗きこんでいる五人の貧しい子供たちを描いている。「母さんのおっぱいのようにあったかい」「おあつらえの特製パンが/焼けあがって竈から出されるとき」「目のあたりの天国の/光まばゆさに目がくらみ/あんまりかがみ込みすぎたので」子供の「半ズボンのお尻がびりっと裂け」るのだ。「教会にあつまる貧しい人々」は「一週の六日間、ありがたくもない苦い人生を神から与えられながら/日曜日には、腰掛け板の光沢つや出しにやってくる」貧しい人々を描いている。彼等が「見ていると噴(ふ )きだすほどな、ひたむきな狂気じみたようすで祈っている」のに、「いっさいかかわりなく、キリストさまは、うっとりとして、遠くのほうを眺めている」。                                     

 ②には「鍛冶屋」「ソネット」がある。「鍛冶屋」は、フランス革命時に人民に占拠された宮殿において、「顔蒼ざめ」たルイ十六世に対して、「鍛冶屋」が革命の意義や精神を説くという作品だ。「いっさいがっさい、わしらは不幸つづきだった。やけつくの下でぷすぷすくすぶるほど背を焼かれて、あっちへ行き、こっちへ戻り、はげしい労働の苦役でげっそりした連中のことごとくは、帽子をぬぎな、市民どん。やつらも、みんな人間さまなんだ。はえぬきの労働者だ。陛下どん。労働者というものだよ! わしらはみんな、偉大な時代のために、それを知るためにいる人間なんだよ」と鍛冶屋は語る。ランボーの社会的理想の原点にはフランス大革命があったと思われる。王党派と共和派の確執が繰り返されるフランス社会において、ランボーは自らを大革命の流れを受け継ぐ共和主義者として明確に意識し、位置付けていた。そのような歴史意識が「ソネット」にも表れている。この作品は大革命後のヴァルミー、フルーリュ、イタリーの戦いで「共和国」を守るために戦死した死者に捧げられている。「〃自由〃の接吻の烈しさで、ふるいたった君たちは、全人類、の頭上に、魂にのしかかるくびきをものともせず、木靴の底で踏み砕いた」とうたう。「動乱のまっただなかにおのれを投げ出した偉大な君たち/ぼろのしたに、愛の火をとび跳ねおどらせていた君たち」をランボーは「憂わしくもやさしいひとみをした百万人のキリスト」と呼んでいる。

 ➂については、「悪」「最初の聖体拝受」「タルチュフの罰」「正義の人」などがある。「悪」は戦争によって「幾千万の人間が血まみれな堆積かたまりと成り果てる」「この期にもなお浮き織りの結構な祭壇布や、香炉のかおりや、黄金の大聖餉杯だいせいさんはいを前にして」「いい気になって、讃美歌のふしにゆられて居眠りしている」「神さま」を批判している。そのくせ、「黒い古ボンネットの下ですすりあげ、苦悩にひしがれた母たちが」「へそくりを賽銭に投げる時だけ、細目をあける」と痛烈に皮肉っている。「最初の聖体拝受」にはもっと激しいキリスト指弾がある。「キリストよ。おお、キリストよ。あくことをしらぬエネルギーの大泥棒よ。二千年ものあいだ恥と頭痛で、女たちの苦しげな額を、大地に釘づけにし、ひっくり返して、鉛土色の生涯を犠牲にさせた陰険な神よ。」「正義の人」には「全く君の、いやしさときたら! 虱の卵でうようよしているその額! 口にもしたくない君たちの名は、ソクラテスとイエス。聖人と賢人なのだ」という文句がある。彼がキリスト教を否定するのは「狂信的なカトリック教徒」(『全集』年譜)である母親によって幼時から信仰を強制されたことへの反発がある。それとともに、革命に寄せる夢として語っていたように、科学や人間の知的向上に対する信頼があった。そしてもう一つ、彼が宗教を否定するのはそれが封建制だけでなく、ブルジョア社会においても支配秩序を支える柱になっているからだ。王権とキリスト教、そしてパリ・コミューン敗北後にはブルジョワジーが反体制者ランボーにとって否定すべき対象となる。

 ④は一番数が多い。「小説」「A LA MUSIQ」「冬のための夢」「キャバレ 『緑』」「こまっちゃくれた娘」「ニナを引きとめるもの」などがある。いずれも少年から青年になっていくランボーが異性への関心や触れ合いを初々しく表現した作品だ。「そして僕は、熱病的に燃え上がる美しい娘たちの裸をおもいうかべるのだ。/彼女らは僕をへんな奴だと気づくかして、ぼそぼそと低い囁き声になる。/僕は、この唇にぴったりと、その娘たちの唇の味を感じる。」(「A LA MUSIQ」)という具合だ。こうして詩は母親の厳重な監視下で「息の根がつまる」思いをしていたランボーに、青春の自由や官能の息吹きとともに訪れたのだった。        

 他には「谷間に眠るもの」のような形象鮮やかな反戦詩もある。ブルジョア支配下のパリを嘲笑した「巴里の軍歌」「巴里蕃息」、皇帝を揶揄した「セザールの怒り」などもある。                                         

 以上、出発期のランボーの様子を見てきた。まず浮かびあがるのは優等生のランボーだが、これはイザンバールとの接触を通じて変容していく。彼の詩作は本格的になり、詩人としての志を抱くようになる。さらに普仏戦争という時代の激動は彼の眼を社会に対して鋭く向けさせることになる。彼はそのなかで、共和主義者としての自分の立場を確認し、強める。その立場から彼は兵士を志願したり、ジャーナリストを志向したりして積極的に動く。ランボーが行動の人であり、行為の人であることが鮮明に出てくる。これらのすべての面において、イザンバールは影響を与え、先導役だった。まさに彼はランボーがランボーになるための産婆役を果したのであり、その存在は極めて重大だったと言える。さらにランボーは、パリ・コミューンの成立に際して狂喜し、革命に寄せる夢を熱っぽく語っている。そして彼自身がコミューン兵士の中に加わりさえした。ランボーは社会的理想を抱いた行動の人だった。上述の傾向の反面として、彼は王権とキリスト教を否定し、また支配者となったブルジョワジーに反発していた。以上のことが出発期のランボーに見られる主な傾向だ。                                                                          





※ ランボーの作品、書簡の引用は*の箇所を除き、『全集』によった。*の箇所は『素顔のランボー』(宇佐美斉 編訳 筑摩書房 一九八九年)によった。
























































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