第2節

 七月下旬、夏期休暇でイザンバールはドゥエに帰省した。この学年度末、ランボーはこれまで以上の多くの賞を受賞したが、それに大きく貢献したはずのイザンバールは、授賞式に「出席しなければならないという義務はなにもなかったので」最後の授業が終るとすぐドゥエに向けて出発した。ランボーは悄然と見送った。ランボーはイザンバールと触れ合ったこの半年間で自分が大きく変わったことを自覚していただろう。彼はイザンバールを訪ねて、「イザンバール先生が行ってしまったら、ぼくはどうなるんだろう? 」「まったく、こんな生活をあと一年も続けるなんて、とてもできやしない。逃げ出してやるんだ。暮らしをたてて行くことはできる。ものを書くことだって心得ているんだから。手はじめに、パリへ行ってジャーナリズムの仕事でもしてみようと思う」などと語る。学校に通う生活をこれ以上続けたくないのだ。優等生の仮面の下の本当のランボーが動きだしていた。「そんなことをしちゃいけないよ」と「思わず」イザンバールは叫ぶ。「あと一年我慢して、お母さんとも衝突しないようにしたまえ」「いいかいここにとどまって、学業を終え、大学入学資格試験バカロレアに合格するんだよ。…大したねうちのあるものでもないけれど、それで万事がうまく行くんだよ」と説得する。                       

 帰省して一月ほど経ったイザンバールのもとにランボーから手紙が届く。(八月二十五日付)「先生は幸福ですね、もうシャルルヴィルにいらっしゃらないのだから」とランボーはイザンバールを羨む。「僕の生まれた町(シャルルヴィルー引用者注)は地方の小都市にあって最高に下らない町です」と書き、前に引用した、戦争気分に沸き立つシャルルヴィルの市民たちを冷笑した記述に続く。「僕は途方にくれ、かんしゃくを起こし、愚鈍になり、呆然としています。」なぜなら読む本もなく、新聞も一紙しかなく、その新聞も「そりゃひどいもの」だからだ。「僕にとって最後の救命板である先生の蔵書」も「すっかり読み尽くし」「今はもう何も読むものがありません! 」。「生まれ故郷に島流しにされたようなものだ‼ 」とイザンバールと離れてしまった無聊をかこっている。末尾に、「二十五ページほどのお手紙を書いてくださいー局留でーそれもすぐに! 」と書いているが、その手紙の到着も待てなかったのだろう、四日後にランボーは家出をした。      

 ランボーはパリ行きの普通急行に乗るが、賞品として得た書籍類を売り払った金額では料金不足で、パリ北駅で逮捕され、パリ警視庁留置所、ついでマザスの独房留置所に監禁される。その直後にスダンでナポレオン三世が降伏した。ランボーはイザンバールに宛て救助依頼の手紙を書く。「先生、してはいけないと先生に言われたことを、僕はやってしまいました」という文言で始まるこの手紙で、ランボーは、イザンバールに「文書でなり、あるいは、検事に面会して頼むなりして、僕の身柄を引受け、借金を支払い、釈放を申請して」くれと頼む。さらに「先生の方からも、可哀想な母に、慰めの手紙をだして下さい」(傍点は原文通り。以下、傍点に関してはすべて同様)と要求している。「これまで先生を兄のように思って来ました。これからは父とも思います」という言葉がある。ランボーにとってイザンバールがどんな存在であったかがここに示されている。イザンバールは「すべてのことをした」。イザンバールの尽力でランボーは釈放され、しばらくの間、イザンバールが住んでいた、イザンバールの叔母姉妹の家に滞在することになる。

 イザンバールと一緒に過ごした三週間の間、注目されるランボーの行動が二つある。  

 一つは戦争に関係する。イザンバールは近視のために兵役を免除されていたが、祖国の危機を前にして国民軍への入隊を決意する。「教職を愛してはいたが、自分の独立のほうを何よりも愛していた」彼は「戦争が終わるまでの期限つきで」入隊を決心したのだ。登録の手続きに行こうとしていたら、ランボーが同行を申し出る。そして途中でだしぬけに、「自分も先生と一諸に登録の手続きをするつもりです」と言い出す。成年にも達しておらず、母親の了承も得ずに勝手なことは許されないとイザンバールは諫めるが、ランボーはそんな「とほうもない馬鹿げたこと」はてんから信じられないと受けつけない。登録係に断固として「だめだ」と言われて、出て行く時、ランボーは「役所の無気力」を手酷く罵ったという。ここに見られるランボーの戦争に対する態度は最初の冷笑的な態度と明らかに違っている。これには理由がある。イザンバールが述べているように「征服者たちのふところに亡命した皇帝の譲位が、この戦争の当初の意義を全面的に変更してしまっていた」のだ。帝政は打倒され、「帝政擁護のための戦争から、国家防衛的な戦争へと変わっていたのである」。「威張りくさった征服者によって祖国に加えられた侮辱、その手によって『被征服者』の頬に加えられた激しい平手打ち」に対して、「この頃になると、各々が自分自身の頬のひりひりする痛みを覚えるようになってきていた」のだ。       

 イザンバールは歩兵部隊に入隊したが直ちに出征するという訳ではなかった。銃や軍服が不足していた。それらが調達されるまで教練に参加する義務があった。箒の柄を銃に見立てて、装填や操銃の訓練が行われた。イザンバールについてきて演習を羨ましそうに見ていたランボーは、「国民軍志願兵」として入隊が許されるよう頼んでほしいと言い出す。イザンバールはその申し出を受け入れ、武器庫から予備の箒の柄を一本選んでよいという許可を取ってやる。これに力を得たランボーは旧式でもいいから本物の銃を手にしたいという野心を抱くが、それはかなえられなかった。銃がとにかくないのだ。そこでランボーはドゥエの市長に対する抗議文を書くことになる。それは「ドゥエ駐屯国民軍連隊隊員」の立場で書かれており、市長が閲兵式で読み上げた書状に対して抗議したものだ。「現下の武器不足は失脚した前政権の不明と不誠意によるもの」だが、「攻撃を受けた際、すすんで防衛の任にあたることを決意している」国民軍兵士には「あらゆる手を尽くして武器を見つけるべき」であり、それは「彼らが選出した市議会の任務にほかならない。この場合、市長が率先してことにあたるべきであって」「行使しうるすべての手段を講じるべきである」にもかかわらず、市長の公式書状は「市にはもはや率先して打つべき手がないかの如き印象を与えて、われわれ兵士のあいだに失望をひろめるかたむきがあった」ことに抗議するという内容だ。ランボーはそれをイザンバールに見せた。実はこの抗議文はイザンバールが書くよう依頼されていたもので、それにに兵士たちが署名するようになっていたのだ。ランボーに先を越されたわけだ。イザンバールは文章を読んで、「手を加えるところは何もない」と思い、「ジャーナリスティクな論争の常套句や贅言を、早くも自家薬籠中のものとしてしまったことで、祝福のことばを送ってやった」。この時期、ランボーは「骨の髄まで国民軍の兵士になりきっていた」。

 ランボーの注目される行動の二つ目は既に少し出ているが、ジャーナリスト志向である。これもイザンバールが先鞭をつけた。スダン陥落後、ある印刷屋がドゥエで『ドゥエ新聞』という小さな新聞を発刊した。その日の急送公文書を並べただけの新聞だった。イザンバールは論説記事の寄稿者として協力したいと申し入れた。「ごく控え目にではあるが、それでも新精神に合致した、政治的な見解を添えることで、彼の三文新聞にいくらかでも人目を引く活気」を与えたいと願ったのだ。報酬は一切要求しなかったので、経営者は承知して、机と二脚の椅子、それに「書くために必要なもの」一式を備えた小さな部屋をイザンバールにあてがった。そこが彼の編集室となった。そこへランボーが出入りすることになる。この新聞はまもなく『北仏自由主義者』と名前を変えた。この名前は二十年前、第二共和制の時代にエミール・デュポンという人物がドゥエで発行していた新聞の名前と同じだった。その新聞は十二月二日のクーデタ以後、発行禁止になったのだ。エミール・デュポンはパリに居を定め、以後消息はごくまれにしか伝わらなくなっていた。その名前を引き継いだところにイザンバールの志向が見て取れる。ある日、そのエミール・デュポンがイザンバールの編集室を訪れた。イザンバールは「彼が再び論陣を張るためにやって来たのだと了解し、すぐさま尊敬をこめた挨拶を返した」。そこへランボーが不意に現れた。イザンバールは彼をデュポンに紹介したが、それは「型どおりの紹介」で、「彼のことを寄稿家となる可能性のある人物と思わせるような言い方はあえて差し控えた」。ランボーが論説を書きたいという「欲望に責め苛まれている」ことを承知している彼は、「その若い反抗者がいつ実行に移すかわからない抵抗に、口実を与えるようなことはしたくなかった」のだ。なぜならイザンバールは家出をしたランボーを一時預かっているのであり、やがて母親からの返事も着くはずだった。汽車に乗せるために駅に連れていった時に、「ぼくのしなければならないことは、ここにあるのです。はぼくを必要としています。ぼくは残るのです」などと言い出されては困るのだ。だが、ランボーも負けてはいない。イザンバールを出し抜いて『北仏自由主義者』に記事を載せてしまった。編集の権限をエミール・デュポンに引き渡していたイザンバールはチェックできなかったのだ。それはある共和派の集会を報じたものだが、ランボーは人物の名前の下に「同志」という称号をつけていた。「共和制下では、誰にでも与えられた称号じゃありませんか」とランボーは反論したが、恐怖政治の記憶につながる称号でもあった。実際、「同志」と書かれた人物がイザンバールが書いたものと思い込み、文句を言ってきて一悶着起きるというおまけまでついた。

 これらのエピソードから読み取れることは、イザンバールもランボーも祖国の危機に際して、共和主義者の立場から、兵士として、あるいはジャーナリストとして国のために働こうとしていたということだ。イザンバールと過ごした三週間、ランボーは「間もなく到着するはずの母親からの手紙のことなど、考えてみようともしなかった。彼は今このときを生きていた」。それはパリ行きが成功するよりも充実した日々であったに違いない。この時期のランボーは、イザンバールとともにいる時が最も生き生きとするのだ。

 

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