ランボー試論

坂本梧朗

Ⅰ 出発期

第1節

                                    

   初めに


 詩誌『沙漠』の二二四号にフランスの象徴主義についてエッセイを書いたが、その中でランボーにも触れた。その折には時間的な制約があり、ランボーについても主要な作品だけ読んで執筆したのだった。脱稿後も『ランボー全集 全一巻』(雪華社 一九七〇年 以下、『全集』と略記)を読み続け、収載された全作品と書簡を読み終えた。『全集』の半分近くを占める書簡の、その大半が、砂漠の商人となったランボーがアラビア半島やアフリカのアビシニア(エチオピア)から家族に宛てたものだ。ヨーロッパを離れてからの手紙には、死に至るまで、詩や文学に関する記述は全くない。ランボーの文学放棄は知っていたが、それは徹底したものだったことを改めて認識した。そこで浮かび上がってきた思いはやはり、あれほど評価の高い作品を残した人物が、どうしてこれほどきっぱりと詩や文学とのつながりを断ち切ってしまったのか、ということだった。以下の論述はこの疑問に対する私なりの考察であり、回答である。



 Ⅰ 出発期

  

    1 イザンバール


 ランボーは優等生だった。七歳で就学したランボーは、厳しい母親の監督の下、八歳から十五歳まで殆ど毎年、学業優秀で表彰されている。特にシャルルヴィル市立高等中学校の第二学級終了時(十五歳)には、宗教教育、ラテン語話法、ラテン語作詩、ラテン語仏訳、ギリシア語仏訳、地理、暗唱のすべてにおいて第一等特賞を得ている。その二年前、すでに校長は「善悪いずれかの天才になる」と太鼓判を押していた。中学時代に書かれたラテン語の詩文はドゥエ・アカデミー・コンクールで第一等特賞を取り、会報に掲載されている。日本語訳で読んでも、十四、五歳の少年が書いたとは思えない見事な文章だ。 

 第二学級を終了した後、修辞学級に進級する。一八七〇年一月一七日付の辞令で担任がジョルジュ・イザンバールに変わる。イザンバールは二十一歳の熱烈な共和主義者であり詩人でもあった。彼は芸術全般にわたる新知識の持ち主として、清新な風をクラスにもたらした。ランボーは詩や詩人について心を開いて話せる相手をイザンバールに初めて見出し、進んで接近した。イザンバールの目に最初は「模範的で非の打ちどころのない、怪物じみた子供たちのうちのひとりであって、競争試験用に飼育された家畜」の典型と見えたランボーが、しだいに家庭的な抑圧や文学上の野心を告白し、真情を吐露するようになる。イザンバールも生徒というよりは年下の友人としてランボーを遇した。イザンバールは週に数度、無報酬でランボーに個人教授を施し、ヴィクトル・ユゴーや高踏派の詩人テオドール・ド・バンビィルの著作を読ませた。ところがランボーの母親から「あの子にこのような読書を許すことが危険なのは、申しあげるまでもございません」という抗議の手紙がくる。彼女は帝政に反対して国外に亡命しているヴィクトル・ユゴーの作品について危惧しているのだ。彼女は息子の読書までを監視し、文学書などを買うための余分な金は与えなかった。

 ここでランボーの家庭環境について触れておこう。家族は母親のヴィタリー、兄のフレデリック、妹のヴィタリー、イザベルの四人だ。父親のランボー大尉は夫婦不和のため、ランボーが六歳の時、家族を離れてグルノーブルに転任し、以後家に戻ることはなかった。母親のヴィタリーは厳罰主義で子供たちに臨んだ。子供たちの日常生活を厳しく監視し、違背があると例えば夕食を抜いたりした。朝の登校時間の僅かな間がランボー兄弟の息抜きの時だった。日曜日には兄弟姉妹は整然と隊列を組んで教会のミサに通わさせられた。夫婦の不和の一因は、子供達を平手打ちとお仕置で有無を言わさず抑えこむ妻の専制ぶりにランボー大尉が愛想を尽かしていたことにあるという。ランボー大尉が家を出て暫くすると、母親は世間の目を気にしてか未亡人を自称し始める。喪服姿や墓参り好みは変わらないが、以後、母親の子供達に対する「専制」は強まった。              

 ランボーの友人であるエルネスト・ドラエーの思い出によれば、ある日、ランボーはドラエーの帽子にいたずらをして、飾り紐の端を一インチも垂れ下げてしまった。ドラエーは仕返しにランボーの山高帽子にげんこつを二発見舞い、ぺしゃんこにした。するとランボーは雨でぬかるんだ地面に自分の帽子を投げ捨て、足で蹴り始めた。ドラエーは慌ててその帽子を拾い、ランボーに返した。「君のお母さん、何て言うだろうか?…」と問うと、ランボーは肩をすくめて、「あらかじめ取り決められているのさ。二日間、パンと水だけの食生活だよ」と答えたという。これがランボー十六歳の時だから、母親の「専制」は長期間続いていたことになる。                            

 イザンバールによって文学熱を煽られたランボーは詩人を志す。彼は一八七〇年五月二十四日付の手紙を高踏派の詩人バンビィル宛に出す。自作詩三編を添えた。「私は、詩の女神ミューズの指に触れた子供として(略)私の素朴な信念、希望、感覚、そういった一切の詩人的なもの(略)を口にし始めました」という書き出しで、バンヴィルに詩を送ったのは、「私があらゆる詩人、理想の美に憑かれた凡ての高踏派詩人パルナッシアンーというのも、詩人とは高踏派にほかなりませんからーを好むからです」と述べている。また「私が常に、ミューズ自由リベルテの二人の女神を崇拝していることは誓って断言できます」とある。そして自分の詩を「高踏派詩人たちの間に割りこませて下さるように御高配いただ」くことを懇請している。つまり当時分冊で毎月出ていた第二次「現代高踏派詩集」への掲載を頼んだのだ。しかしランボーのこの願いは実現しなかった。                          

 イザンバールと出会った一八七〇年にはもう一つランボーの人生に大きな影響を与える出来事が起こっている。普仏戦争の勃発だ。プロシアはドイツの統一に干渉し、妨害を加えるフランスを軍事的に打倒する必要があった。一方、フランス皇帝ナポレオン三世はメキシコ遠征の失敗による権威失墜や国内政情の不安をプロシアとの対決によって一気に解消しようとする冒険的意図を抱いていた。プロシア首相ビスマルクはスペイン国王選出問題を利用してフランスを挑発し、フランスは七月一四日開戦を決定した。フランス軍は連戦連敗し、九月二日、スダンの地に包囲されたナポレオン三世は降伏した。しかしそれで戦争は終らなかった。皇帝の降伏を知ったパリ民衆は蜂起し、帝政を打倒し、臨時国防政府が樹立され、共和制を宣言した。この国防政府によって戦争は続行された。新政府のメンバーについてランボーは、帝政を支えた「醜悪な連中」と「似たりよったりの価値しかないんだぜ」と冷ややかに言い放ち、そんな認識のないドラエーを途方にくれさせた。民衆の革命化を恐れ、プロシアとの和平を求めていた臨時国防政府は、徹底抗戦を要求する民衆の前にしだいに統治能力を失っていく。ランボーの言葉はそんな国防政府の本質を鋭く洞察したものだった。                              

 ランボーは戦争に対して最初は冷ややかであった。八月二十五日付のイザンバール宛の手紙に、「殊勝顔した住民が、身振り仰山にやたらと剣客めいた真似をする、それも包囲されているメッスやストラスブールの人たちより、ずっと派手にやるんですからね! 食料品屋の御隠居さんが軍服を身にまとうなんて、恐れ入った次第です! 公証人も、硝子屋も、税務署の役人も、指物屋も、猫も杓子も、鉄砲をかかえて、メジエールの門で、愛国パトロールの任務についているという、何とも勇ましい光景にはたまげちゃいます」と書いて、戦争気分に沸き立つシャルルヴィルの市民を冷笑している。さらに「祖国は立てり!…ぼくは、祖国には座っていてもらいたいのです。長靴を動かしなさるな! というのがぼくの主義です」(*)と書いている。これにはイザンバールが述べているように、「空威張りや「盲目的愛国主義」を嫌うランボーの気性も関係しているだろうが、根本的には彼が帝政に反対だったからだと思われる。ランボーは共和主義者だった。この彼の志向は早くからあったようで、十三歳のランボーが、一八五一年十二月二日のクーデタで第二共和制を廃止した「ナポレオン三世は、徒刑場に送るべきだよ」と答えてドラエーの度肝を抜いている。                                      

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