第24話

紙とペンを手に取って、裸足のまま靴を履き家を飛び出した。自分の町内を抜けたとき、自転車に乗った方が早いと気付いたのだけれど、仮に引き返したら格好がつかない主人公だと思った。

 俺は自転車カゴに紙とペンを放り込んだ。自分の物語の見栄えを気にして迷った結果、俺はダサい方を取った、そりゃそうだ、早い方が誰だっていいに決まってる。加えて、紙が風に飛ばされないよう原稿用紙の束を持ってきたのは名案だった。

 俺は冷静だ、時々冷たい人間だなんて言われるけれど、まあ、その通りかもしれない。でも、その通りで良いし、そうじゃなきゃ何をやっても後悔する。

 自分らしく生きて行動しなければ後悔するんだ。世の中にはやらないで後悔することが多いのだけれど、やって後悔することなんて殆どない。少なくとも俺は、宝くじを買ったときくらいしか後悔していない。

 けれど、後悔するとかしないとか以上に挑戦することが難しいのだと思う。それで大抵の場合、俺はやらないままに終わる。だから俺の小説や言葉には重みが足りていない。

 俺は何かに挑戦するとき、正しいやり方をやる前から考える。失敗するんじゃないかと不安だからだ。幸せとは、そう考えだしたのも自分自身を信じられず不安だったせい、幸せになる方法の正解なんかを他人に求めていたように思う。皆は幸せになる方法を知っていたけれど、それはちゃんと自分で見つけて来たものだった。

 大事なのは、正しいか正しくないかを考えるのは後でいい。やった方が良いと思うことを正直にやって、もし駄目だったら、そのときはちゃんと失敗しろ。

 次の小説を書くときはこのことを書くだろうけれど、多分今も失敗することを恐れている。それでも勇気が欲しいと思ったから、勇気を分けてもらいに行こうと行動した。

 雲一つない綺麗な星空の元、俺は息を切らしながら立ち漕ぎをしている。とは言え、勇気をもらうためにも勇気が必要だった。だから俺は自分を奮い立たせるためにこう思った。

 こんなにも世界が残酷だと思えるのは自分だけだ。

 お前は世界で一番悲しい奴で情けない。

 だけど、それが自分らしさだ。

 お前のその感情を理解できるのは唯一自分だけだ。自分にしか出来ないことをやっている、貴重な体験をしているんだ。

「俺は幸せ者だ!」

 泣いた、笑った、叫んだ!

 今の気持ちを忘れるな、何かに刻め。紙にでも、心にでも。

 だから、俺は立ち上がった。最後の勇気の一欠けらを無理矢理生み出して。

 死んだ友人ともう一度会えたなら、それは世界で他にない自分だけの経験をしている。

 自分にしかない何かが自信へと変わるんじゃないか、そうに違いない。

 幸せとは、自分を特別だと思うことなのかもしれない。けれど、そんなことは後から考えれば良い。

 俺は堤防のいつもの街灯とベンチがある場所で止まった。

 河の流れるせせらぎ、風に揺れる草木、普段通りの景色なのだけれど、そこに穂乃果の姿は見当たらない。焦燥感に突き動かされ俺は掛かってきた番号に折り返し電話をする。

「頼む!」

 数回、繰り返された発信音の中で嫌な予感がした。失敗する未来は俺の場合、殆ど現実になる。だから予感が的中した。

 使われていない番号だったんだ。

「穂乃果、どこにいるんだ」

 焦って俺はアスファルトの先にある茂みへと入った。河原というだけあって広い河川敷が広がっている。どこかに隠れているのかもしれない。

 草の根をかき分けては走り、何回も、何度も彼女の名前を呼んだ。

 短い呼吸を繰り返し、充血しているかもしれない目で辺りを見渡していたそのとき、聞き覚えのある声が俺を呼んだ。

「四ノ宮くん……?」

 明かりに照らされた退屈そうな磯ヶ谷、制服姿の彼女は堤防の上に立ち少し先にいる俺を見ている。咄嗟に返事が出来ないでいると、彼女は笑顔を浮かべた。

 心が痛い。

「何か探し物? 手伝おうか?」

 なんでそんなに、良い奴なんだよ。

 だけど、何か言わないと。

「磯ヶ谷は……」

「うん」

「こんなところで何してんだ?」

 聞くと彼女は笑顔を止めて、また普通の表情に戻った。そうやって真っ直ぐに俺を見ている。内心では俺に怯えているのかもしれない。

「私? 私は散歩だよ」

 ここで彼女に会ったのは偶然だったらしい。

「そっか、じゃあな」

「あ、うん。じゃあね」

 彼女の後ろ姿を見ながら、俺は無意識に名前を呼んでしまった。

 振り返った彼女は不思議そうに首を傾げている。

「やっぱ何でもない」

 そんなことが言いたかったわけじゃないけれど、もう遅い。普段は身をひそめている臆病が働いてしまったのだ。磯ヶ谷は何も言わず行ってしまった。

 溜息が出た。どこまでも情けない自分に。

 むしゃくしゃする自分を抑えきれず、俺は自転車カゴに入っていた紙束を河川敷に向かって投げつけたのだけれど、腕力が足りていなかったのか宙で散ることもなく少し先に落ちた。

 ペンも投げようとしたけれど、母親が入学式のときに買ってくれた物だったので出来なかった。そうしてカゴの中に静かに戻した。

 どこまでも臆病で、釈然としない。

 仲直りがしたいはずなのに、謝罪の一言も出来なかったのが悔しくて、その場でうずくまり泣いた。一人で泣いた。

 泣いてばかりで、男の癖に泣き虫なのが嫌になってしまう。

 感情が乱れてばかりの最近は何か、調子が狂う。どれくらい時間経っただろうか、多分五分は経った。磯ヶ谷が何処に向かっているのか知らないけれど、堤防は長いからまだ歩いていることだろう。

 まだ、間に合うのに。

 明日になれば、ここまで自分を突き動かした小さな勇気の火種も消えるだろう。

 残るのは灰になったような、冷たい俺だ。

 本当に身体が冷えてきたのを感じていると、比べ物にならないくらいに冷たい無機物のような感触の何かが俺のうずくまる頭を押さえたのだった。

 背筋に嫌なものを感じたのだけれど、珍しくそれは的を外れた。

「四ノ宮」

「遅刻……すんなよ」

「顔を上げちゃ駄目、いい?」

「何で?」

「私はきっと、醜い姿をしているからよ。だからお願い、話だけ聞いて」

 頭を押さえているのは恐らく手なのだろう。そこに異様に力がこもっているのは、本心から見られたくないと思っているからだ。

 俺は小さく首を縦に振った。

「四ノ宮はあの子を追わないと一生後悔するわ」

「見てたのかよ……ほっとけ」

 本心とは真逆のことを言ってしまうのは俺の悪いところだ。

 それを誰かに否定して欲しいのかもしれない、他人の優しさに甘えたいのだろうか。

 最低の人間だった。

「嫌なら……もう言わない」

 けれど、穂乃果は心に針を立てるように冷徹な声音でそう言った。

 意外、あまりに予想外。

「…………」

 一瞬見放されたのだと思ったけれど、言葉を失ってから考えて彼女は選択肢を与えてくれているのだと気付いた。だから俺は最後の薪を小さな火種に焼べる。

「続けて」

 薪の重さに押し潰される不安と戦うことを選んだ。

「後悔することくらい四ノ宮も分かってるかもしれないけど、一歩勇気が出ないのは何でだと思う?」

「俺が……」

「俺が、なに?」

「臆病で、人の気持ちを素直に受け取ることも出来ない情けない人間だからだ」

 言葉はすぐには返って来なかった。穂乃果のことを困らせたのだろうか、底なし沼のように続く暗い心の中に彼女を巻き込んでしまったのだろうか。

 ああ、最低な人間だ。

 同情をもらいたいだけの、いつか自分が嫌悪した康平の姿だ。

 優しい返事が返ってくるのを怯えて待つ、いつか嫌悪した磯ヶ谷の姿だ。

 勝手な思い込みで、彼ら彼女らを貶めたのは俺自身を投影していたからなんだ。

「四ノ宮」

 何だ。

「最低な人間だと思い込むのは勝手にして」

「…………」

「いつまでも、そうやって引きずってなさいよ。自分は冷たい人間で、情けない最低な人間だって。そう思うなら最後、擦り切れてしまえばいい。案外、壊れてしまった方が自分がどういう人間だったか分かるかもしれないわ……けど、四ノ宮は知らないの」

 尖っているはずの言葉が、今の俺には液体のように馴染んでいった。

 けれど、一つだけ固形物が混じっていたのだろうか。

「周りがあなたのことをどう思っているのか」

 胸が痛んだ。

 俺と同じことを思っているに違いないのに。そう思って、心の傷を修復しようとしていたのだけれど、彼女は尚も言葉を紡いだ。

「それは自分で考えなさい。すぐに四ノ宮が最低かどうか分かるわ」

――今から言うこと、自分の心で聞いて。

「彼女は失くしていた小説ノートを拾ってくれた、名前も書いてなかったのに」

何で、穂乃果がそれを。

「いつも大事そうに持ち歩いていたし、届けなかったら悲しむだろうなって隣の席の男子の顔を想像したそうよ。届けてみたら想像していたより反応が薄いどころか、怒られたんだって」


――返答次第ではお前を許さないっ、そう言った。


 変だけど、面白い人だなって思った。本当はノートに小説が書いてあるのを見たけど、申し訳なかったから言わなかった。

 だけど次の日は勇気を出して話した。小説が面白かったことと、彼の雨を嫌う理由が素敵だったこと。けど、死んだ魚の表情で言われても困るって言われて、普通の表情だったんだけどもしかして私は生臭いのかな。

 四ノ宮くんは幸せの意味について悩んでて、その日は私も一つ答えを持ってきた。小説を読ませてもらうのと引き換えに教えてあげた。明日の楽しみがあることだって。

 明日から素敵な小説を読ませてもらえるのが楽しみ。

 その日を境に私は毎日四ノ宮くんと話すようになった。決まって幸せの意味についてだったけど、いつも変な方向に逸れていく四ノ宮くんが面白かった。だって、幸せとは自分に酔うことって言うんだもん。

 最近四ノ宮くんはね、元気ないし、小説ノートを教室に忘れていくことが多いよ。届けに行ったら早瀬くんに「うちの四ノ宮をお願いします」って言われて、その夜に意味が分かったら途端に恥ずかしくなった。多分、四ノ宮くんのことを意識しちゃったのかも。

 今日は四ノ宮くんとお出掛けをした。名目上は彼を励ますためだったけど、お洒落して行ったのは振り向かせたかったからかな。でもずっと元気なかったから、私は少し不安になった。私といても楽しくないのかもって。そう思ったらその日は一日中不安が頭の中を駆け巡っていた。

 だから四ノ宮くんに帰り道で聞いた、「楽しかった?」って。楽しいって答えたけど、笑わないから少し強引に笑わせた。頬に触って無理矢理、すごい緊張した。でも、良かった。四ノ宮くんは本気で笑ってくれたから、それを見たら私、抑えてたものがあふれ出してしまって泣いたし、訳の分からないことも言ってしまった。

 嫌われたかもしれないと思って、このまま次の日になるのが不安だったから何とかして過去を話そうとしていたら、ちょうど口実が出来た。雨宿りも兼ねて家に来てもらったんだよね、ナイス雨。

 だけど、よくよく考えたら嫌われたくなくて過去について話すのに、嫌われてもおかしくない過去を打ち明けるのは怖かった。でも、四ノ宮くんは私に「磯ヶ谷は悪くない」と言ってくれた。変な人だけど、優しくて時々格好良いよ四ノ宮くん。

 四ノ宮くんはいつも通り私に接してくれるけど、ふと見たとき疲れた顔をしている。最近、三日に一回は学校休むし何かあったに違いない。早瀬くんに聞いたら、四ノ宮くんは親友同士なのに彼のことを避けているらしい。理由をそれとなく聞いて欲しいって頼まれたから聞いてあげた。それで電話したんだけど、凄くドキドキすることがあった。

 四ノ宮くんが「そんなに優しくしてくれるとか、俺のこと好きだったりして」なんていつもは的外れなくせに、私の心を見たようなこと言ってきて心臓がバクバクしたけど早瀬くんが隣にいたから無視した。

 今日はあんまり話す気分じゃないけど、穂乃果ちゃんには話すね。

早瀬くんと四ノ宮くんが喧嘩した、私が余計な真似したせいでさ。

四ノ宮くんも傷つけちゃうし、私やっぱり駄目だね。


――中学校の頃から何にも変わってないなあ。


「ねえ、四ノ宮……込み上がって来るものがあった?」

「…………」

 もしも、何も思わなかったのなら俺の心は死んでいる。

 最低の人間になる。

 ああ、胸が熱い。火種が弾けるように薪を燃やし、大きくなっていく。

 心の暗闇が紙切れのように呑み込まれて消えていった。

「あった、ちゃんとまだ」

「じゃあそれは自分の本当の気持ちで、意思よ」

「…………」

「彼女は、交差点にいる」

「……俺、行ってくる」

 抑え込んでいた彼女の手が軽くなったのを感じて走り出した。

 恋愛ドラマなんかだと、主人公が無我夢中で直線を疾走する場面は感動的に描かれる。その間は大体色々な記憶が頭の中を駆け巡っていたりするのだけれど、現実はそれほど情景的ではなかったらしい。

 だから走っている間の俺は、自転車を置いてきちまったとか、長袖着て来るんじゃなかったとかそういうことを考えていた。けれど、堤防を越えて交差点に辿り着いたとき頭の中は、磯ヶ谷のことで一杯になった。

 彼女は交差点を渡った先で、桜色のスニーカーを片手に橋の下を覗き込んでいる。

 人通りの少ないこの辺り。

 橋の下を流れる河川。

 そして地面までの高さ。

――中学校の頃から何も変わってないなあ。

 彼女は俺を傷つけてしまったと、あの頃と同じように傷つけてしまったと思っている。

 俺の首筋に冷たい汗がだらりと流れた。

「はやまるな、磯ヶ谷!」

 そんな、いつかどこかのドラマで聞いたような台詞を俺は叫んで駆け出した。後ろから抱きしめてその場から彼女を引き剥がすように後方へ倒れる。背中は打ったが頭は打たなかったのが幸いだった。

 そうして彼女を離し、人生で二度としないと思っていた壁ドンではなく床ドンの態勢を取ってしまった。

彼女の第一声。

「し、四ノ宮くん……!?」

 自分でも信じられない剣幕で俺は言い返した。

「死ぬんじゃねえ馬鹿! お前がいなくなったら俺は……」

 俺は。

 壊れてしまうかもしれない。

 一人になってしまうかもしれない。

 幸せの意味に一生気付けなくなる。

 そんなくさい理由は必要ない。

「俺は悲しいんだ」

「…………」

「頼む、またどっか出掛けよう。今度はちゃんと楽しかったら笑うし素直になる」

 これからなんだ。

 何もかも。

「気色悪いなんて言わないし、康平とも仲直りする。傷つけたりもしないから。だから、だから、だから!」

 涙がこぼれ落ちた。磯ヶ谷の頬に落ちて、彼女は驚いたように目を丸くした。

 夜の風が冷たい。

 彼女の髪が揺れて、優しい匂いを感じたのと同時に俺は言った。

「いなくなんて……なるなよっ!」

 言葉が響いて、磯ヶ谷の顔が徐々に赤くなっていく。

「四ノ宮くん……勘違いしてるよ。私、自殺なんかしないよ」

「え?」

 それから目を逸らして彼女は言った。

「あとね、この態勢はちょっと恥ずかしいかなあ」

 俺は彼女を押し倒し、その上両手を抑え込んでいたのだった。赤面。

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