第23話
憤りの心模様が虚無感に変化したのは、二人と口を聞かなくなって二日後だった。
今日も学校をサボった俺は憂鬱に参っている。
あと数日で夏休みが始まり、二人とは一生涯喧嘩をしたままとなるだろう。
まあ、そうなったらそうで仕方がない。悪いのは多分、俺だ。あの時は自分の行動を他人のせいにしてしまったが、自分の失敗は自分に過失がある。
だから今になって襲ってきた虚しさは、行動理由を他人に求めた罰なのだ。
罰は受けるのが良い人間としての常識である。そんな解釈をしては空白の時間を潰していたのだった。部屋のベッドで横になりながら何の益体もない暇潰しをしていると、昼になったのでリビングに降りた。
晴天の散歩日和だったことを部屋の外に出て初めて知った。
散歩なんてしないのだけれど。
「あるわけないよな」
午後三時、おやつは食べないが甘美な物語を読んだ。ゴロゴロして過ごすのにも勇気が必要で、自分の怠惰に嫌気が差した俺は読書を中断し、スマホを見た。もしかしたら磯ヶ谷から着信があったかもしれないと淡い期待を抱いていたのだ。そんなことあるはずないのに。
あるはずのないことを期待してしまうのには、それなりに理由がある。二日前から今日に至るまでの間、磯ヶ谷は何度か話しかけてきたのだ。「元気になった?」や「今日は一緒に帰ろうよ」など、内心そんな真似が出来たら良いと思いながら臆病な俺は無視を決め込んでしまったのだった。
差し伸べられた手を素直に受け取らないところが、俺の致命傷にして最大の欠点だ。過去を引きずってはならないと穂乃果からも、磯ヶ谷からも教わったばかりなのに、人はそう簡単に変われない生き物なのかもしれなかった。
いやいや、そうじゃない。過去なんて呼び方をしてしまったせいで遠い昔のことのように思えてしまったけれど、三日前の出来事だ。話しかけられる磯ヶ谷の方がおかしい。
自問自答していると妹が学校から帰ってきたようで、しかし、足音はもう一つあった。最近彼女は友達を作ることに成功したらしかった、こうなって来るといよいよ周囲に自分が取り残され始めているのかもしれないと不安になる。
妹の進歩くらい喜んでやるべきだろう。
本当に俺は情けない。
ぼんやりと天井を眺め、無意味に笑ってみる。すると、どういうわけか益々自分が惨めになってしまった。笑わなきゃ良かった。
穂乃果はちゃんと成仏叶ったのだろうか。
次に会ったら手紙を書くという約束をしたものの、何となくその日はやって来ないだろうことを俺は知っていた。彼女は自分の死を自覚してしまったのだからお約束的に存在は消失しなければならないのである。
正直なところ、穂乃果には成仏していて欲しかった。仮に彼女が未だ浮世を彷徨っていたとして再開するようなことがあれば、俺はもうあの時のように見送る決心が付かないだろう。もう一度彼女の温かさに触れてしまえば、孤独に耐えきれず押し潰されてしまうのではないかとさえ思える。
再開しないことを願って俺は目を閉じた。
これは惰眠じゃない、孤独に慣れるための訓練なのだ。きっと、神様も許してくれる。とは言え、すぐに寝付ける体質ではないからして、けれど不眠生活のお陰か数十分で意識は途切れた。
カサカサという音を耳元で感じ目が覚めたのだけれど、それは自分の寝返りのものだった。カーテンを透過する光は弱々しく既に日は沈んでいるようだった。
体を起こしてスマホを手に取る。眩しさに表情を歪め、目が慣れてきてまた落胆した。
「何だか、恋文を待つ乙女みたいだ」
呟いて、時間を恋に興ずる暇な女貴族を想像し、寂寥感が湧いてしまった。
「読むか」
力無く言ってベッドから立ち上がった俺は、リュックを開けて文庫本を手に取る。
実は昨日、俺は暇つぶし、いや、訓練を乗り越える秘密道具として新しい本を買っていたのだった。ちょうど惰眠明けの労働欲がそれを思い出させてくれた。
俺は大抵、眠りから覚めると潰した時間を取り戻そうという使命感に駆られる。
そのせいだろうか、お気に入りの作家の新作が面白いと感じなかったのは。
二、三ページ読んで栞も挟まず、パタリと本を閉じてしまったのだ。そうしてベッドへ再び身を投げた。天井をぼうっと眺める。
趣味に没頭しようとしても楽しめないこの感覚には覚えがある。
それからは人間としての正常な生活行動をこなした。母親が作ってくれた晩御飯を食べて、お風呂に入って、寝床につく。
けれど、それは養分を吸収して、雨を浴びて、日中芽を伸ばすありふれた植物にでもなったかのような気分だった。
生きているのか、死んでいるのか分からない、そういう感覚。
退屈、憂鬱、寂寥、そのどれとも違う。
息をしているだけ。何も考えていない。
明日も多分、似たように時間を浪費する。学校へ行って、授業を受けて、家に帰る。
そこに輝きある今はない。
長い間、康平と磯ヶ谷と日常を過ごしすぎたのかもしれない。彼、彼女が傍にいることが当たり前になっていたんだ。
俺の小説の話を退屈そうな表情で聞く磯ヶ谷が、隣の席にいる。
軽口や噂話を暇を見つけては話してくる康平が、隣を歩く。
頭の中で彼らを描写しては、適当な返事をする一日。
それがどうしようもなく温かくて、くすぐったい。
輝いていた今に、目が慣れていたんだ。
幸せはそこにあった。どこにでもあった。気が付いてなかった。
――どうして康平にあんなことを言ってしまったんだよ。
康平が過去に縛られているから?
縛られていたのなら、なぜ康平は謝ろうとした?
「なんで」
過去を乗り越えたくなかったのなら謝らなければ良かったのに。
黙っていれば、康平は今まで通り感傷に浸って生きていけたのに。
「馬鹿だ、俺は」
俺は気が付いてしまった。
康平にとって穂乃果は代わりのきく存在なんかじゃない。
――幼馴染だったんだぞ、十何年も一緒にいた相手を失った気持ちが分かるのか!?
「ああ、分かるわけなかったんだ」
彼にとって穂乃果は幼い頃から傍にいて共に成長してきた、そんな思い出の全てで。
それを失って、だけど、前に進もうとしていたんだ。
寂しさを埋めるために誰かを傷つけたかもしれない、それでも。
それが良いことか、悪いことかなんて彼が一番理解していたはずで。
だから、それをやめようとして代わりに俺に寄り添って欲しかったんだ。
康平が話してくれたのは、時間が掛かっても背中を押して欲しいと俺を頼ってくれていたんだよ。
「最低だな、俺」
磯ヶ谷は何で笑ったんだ?
俺は必死に彼女と過ごした時間を思い出す。彼女が笑顔だった瞬間を。
教室中の視線が俺たちに集まった時。
初めて康平と話した時。
自分のせいで壊れてしまった母親の前。
母親の話を俺にした時。
親友が死んで、責任を押し付けられた時。
そして二日前の俺に。
何で笑ったのかなんて考えたことなかった。
けれど、分かってしまった。
「怖かったんだ」
大勢から向けられる視線が怖い。
初対面の人と会話するのが怖い。
自分のことをどう思っているか分からない母親に嫌われるのが怖い。
秘密を打ち明けたときに返ってくる俺の反応も。
親友の自殺も。
――そして、何と言葉を掛ければいいのか迷って。
それでも、悲しまないで欲しかったから必死に考えた。
今日は一緒に帰ろう……ね。
「磯ヶ谷……」
一昨日も昨日も申し訳ないことをしたと思って、だから声を掛けてくれた。
「友達だったからか……」
友情なんかに精神張り過ぎなんだよ、お前……。
もしそうなら、俺は自分の中に熱を感じ、視界がぼやけ始めた。
そうして咽び泣いた。
情けなくて、心底情けなくて。康平のためだと言いながら、結局は自分の気持ちを晴らしたかっただけの偽善者だ。
俺は生きる価値もない本当のゴミだ。
死ぬべきだ、死んだ方がマシな人間だ。自己満足のために人を傷つけてばかり。
もっとだ、二人だけじゃない。
働いてくれる両親。
朝と晩、必ず料理が出てくる。
風呂に入れる。
兄だと慕ってくれる。
本を読める。小説を書けるペンが、紙がある。
全部、全部、全部、温かくて、くすぐったい、気付くべきだった。
幸せとは何か、一人で考えてないで周り見ろ、馬鹿。
ああ、心が熱い。心臓が耳元にあるようにドクンドクンと聞こえる。
それでも、どれだけそう思っても、叫んでも、首を絞めても、死にたくない。
何で。
何でまだ。
皆の優しさを踏み躙っておいて、本当に最低だろう。熱を帯びた涙を流すことだって、自分のことを可哀想などと思っているからかもしれない。磯ヶ谷を悲しませたことよりも最低な真似をした自分を擁護しようとして泣いているんだ。
けれど、本当は涙の理由なんか知らなかった。
悲しくて、情けない。
――それだけしか、分からないや。
でも、本当にそれだけなのだろうか。自分のことだけなのだろうか。
天井が机になったみたいに自分の顔が腕の中にうずくまる。視界を塞いで、真っ暗闇の中に浮かび上がる本当の気持ちが知りたかったんだ。
感動する物語を読んでいると時々泣いてしまうことがあるけれど、涙を流す直前、自分の方から物語に歩み寄る。きっと、それは自分の意思で泣こうとしているんだ。
今は自分の身体が誰のものなのか判然としない。これまでの泣きたくて泣いているのと違って、そういう演技とは真っ向から逆の自然な力が働いている。
その力がどういうものなのかを知らない。
知ってどうにかなるわけじゃないけれど、この頃自分の表情ばかりを気にしていた俺は涙の意味を見つけたかったのだろう。
薄暗い部屋の中、夜風を受けるカーテンが揺れているのだろうか。
意識の外の音と言えばそれくらいで、あとは咽び泣く俺の嗚咽。目を閉じているから伝わってくるのはそれだけだ。
部屋に自分の声が響いたのは久しぶりだった。
空気が澄んでいた。
泣き止んでから鼻先が少し冷たく感じた。
喉が渇いたのは体中の水分を涙がもっていったせいだろうか。いっそのこと干からびてしまえば良かったのに、そう思いながら胸いっぱいに空気を取り込んだ。入り込んだ空気が冷たかったのか胸が痛む、胃が痛む。この苦しみは死んでしまえば楽になる。けれど、何かが俺を引き留めている。
深い、深い暗闇の中で小さな光を見つけた。精霊か何かだったのか、彼は言った。
――仲直りがしたいんじゃないか、一生後悔したくないだろう。
心の底で、身体を焦がしながら光の残滓として残っていた思いがそれだった。
息を呑む。もう一度、呼吸をしてしまったら吹き消えてしまいそうで怖かったからだ。当然俺は咳き込んだけれど、思いは消えなかったのでほんの少し安心した。
だけど、勇気が必要だった。
皆の視線と向き合う勇気、思いを受け止める勇気、一番怖い自分の言葉を紡ぐ勇気。
奮い立たせる何かが必要だった。
自分の人生が幸せだったと自信を持って言えた少女。
大切な人を失くしたけれど、少しずつ前に進もうとしていた少年。
常に怯えながらも、自分の正しいと思うことをしてきた少女。
皆、一生懸命だった。
幸せの意味を彼らは知っていたのではないだろうか、だから自分の道を進めたんだ。
彼らと並ぶだけの何かがあったなら。
「仲直り……出来たのかもな」
吐き捨てるように本心を呟くと、スマホが小さく揺れた。何度も揺れるものだから、電話が掛かってきたのだとすぐに分かった。
画面を見たとき――どんな顔をしていたのだろう。
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