第20話
昨日眠りについたのは朝方だった。記憶しているのは時計の短針が五の数字を若干通り過ぎたのが最後だ。最近は時々眠れない夜があるのだけれど、それは眠りたくないという意思によるものだ。
だからまあ、そんなに深刻な悩みがあるという程でもない。
なんか、ちょっと気怠いだけだ。
音楽を聴きながら部屋のカーテンを開けて一階のリビングに降りると時計の短針は九を指していた。今日も俺は遅刻したらしい。
母親と父親は仕事でもういなかった。妹はまだ家にいるのか気になって探してみたけれど、彼女は珍しく登校していた。
リビングはひっそり閑、という感じだった。
今日は休むことにしよう。なに、夏休みまであと一週間を切っているのだからサボり気味になっても誰も気にはしないだろう。
最近の俺は学校を三日に一回のペースで休んでいるのだけれど、うちの学校は特に連絡しなくても理由を追及されたりしない。
そのお陰で休むことに一切の罪悪感がないのだった。
洗面所で一度大きな欠伸をしてから顔を洗い、いつも以上に酷い寝癖を直したけれど、今日はパジャマ姿のままで過ごすことにした。
人は長い間何もしない状態が続くと面倒臭いという感情によって、物事に無関心になってしまうことが多い。俺はきっと、自分が無関心になることを望んでいる。
穂乃果の命日に見た康平の顔は疲れ切っていた。そんな康平を前にしたとき俺の独りよがりな勇気は、雨ざらしへ晒された焚火のように一瞬にして消えてしまった。
最近は学校を休みがちなのも、帰りは図書館に残って本を読んでいるのもそのせいだ。康平と一緒にいる時間を減らすことで自分に対する情けなさや、彼の心の内側を覗かないようにしていた。
こうしておけば多分、夏休みが明けた頃には無関心になっているだろう。
康平はいつも通り恋人との別れ話を面白おかしく話して、それを帰り道で聞きながら笑う。いつも通り、親友のままでいられる。
今、康平のことを無理矢理否定したとして俺は彼を傷つけずに親友という関係を保っていられるのだろうか。そういう不安のせいで俺は、一歩踏み出せずにいた。
何も考えずに今を楽しむことが出来る人間とそうでない人間。
後者側の俺は今に対する不安が大きくて失敗する未来ばかりが浮かんでしまう。失敗しないようにどうするべきか、そういった思考に陥りがちだ。
結局、何かに縛られてばかりだ。
悲しい思い出にだって。
後悔にだって。
不安にだって。
俺は縛られている上、足掻こうともしない自分が嫌になってしまった。
冷蔵庫から取り出した冷や水をステンレスのコップに注ぎ、銀色の底を眺めた。いっそのこと中身を全部ぶちまけてしまおうか、そうしたら自分への嫌気も何もかもを忘れて気が楽になるかもしれない。けれど、そんなこと出来るわけがない。
どこまでも安全思考な俺がそんな不良染みたことをしてしまったら、罪悪感で後悔するに違いないし、後始末が面倒だ。
本心を伝えたことがきっかけで、康平と喧嘩してしまったら面倒だ。
コップを逆さにすれば中身がこぼれるのは確定しているけれど、どんな反応をするのか想像もつかない康平のことはちょっと怖い。
分からなかった、彼には彼のやり方で穂乃果との過去と向き合おうとしているのかもしれなかったから。そう思うのは俺が都合の良い方に捉えようとしているからなのか。
色々と想像出来てしまうのが面倒で怖い。
俺は臆病なのかもしれなかった。自分に勇気が備わっていれば良かったのに。
「ごちそうさまでした」
残念ながら小説の中の『主人公くん』のように『親友くん』を助けてあげられなかった俺は昼ご飯を食べ終えて、自分の小説を読んでいた。
幸せとは?
読んでみたら結構面白いというナルシストタイムの真っ最中、十二時五十分、二階に置いてあったスマホが振動した。何度も何度も掛かって来るものだから電話に出ると、俺の新しい友達となりつつある磯ヶ谷からだった。
あっちは昼休みなのだろう。
電話に出てわざとらしく咳き込みつつ、磯ヶ谷の次の台詞を考えてみる。
風邪引いたのかなあ、大丈夫四ノ宮くん?
多分、そう言うと思う。
「演技乙おつだね、四ノ宮くん」
…………。
「最近学校サボり気味だけど、早瀬くんと何かあったのかな?」
突飛に的を射すぎだ、お前は。
「別になんもねえよ、ただ面倒だから休んだだけ。夏休み一週間前になると身体がもう長期休暇気分になっちゃうんだよな」
「それなら別にいいんだけどね、少し心配だったみたい」
「心配だったみたいって、磯ヶ谷が?」
「あ、えっと、うん、そうだよ。私が」
何だ、その含むところある言い方。
「そんなに優しくしてくれるとか、俺のこと好きだったりして」
らしくなく、おちゃらけてみたのだけれど…………。
深い意味は本当になかった。
返って来たのは果てしない沈黙だった。俺は予期せぬ沈黙を前にして後悔を感じ始め、その言葉を撤回することにした。
「やっぱ何でもない」
「…………」
「磯ヶ谷?」
「……はあ」
彼女の深い溜息を聞いて、俺はその意味を考える。ふざけた解釈がいけなかったのか、撤回発言が女々しいと呆れられたのか。
前者はまだいいものの、後者だったのならば本当に好かれているのかもしれない。
どちらにせよ、こうなってしまったのだから仕方がない。
スリルと戦うんだ、四ノ宮。
高鳴る鼓動を感じながら俺は彼女の言葉を待った。
「何言ってるの四ノ宮くん?」
磯ヶ谷が死んだ魚の表情をしているのが浮かんだけれど、いつもそういう表情なのでまだ可能性はある。俺は少し踏み込んでみることにした。
「何って、何のことだよ?」
磯ヶ谷には強気になれるのが不思議だったが、俺自身余裕があったわけではないらしい。
緊張で唇が渇いていることに気が付いたからだ。
「自分のことを心配してくれてる人にどうしてふざけられるのかなあ」
「ですよね、知ってました」
「何を知ってるの四ノ宮くん?」
俺が勘違いしている未来を知っていたのさ。そういう風に開き直れるほどのメンタルを持ち合わせていないのが悔やまれる。
「何でもないよ、忘れてくれ」
そう言ったきり彼女は追及してこなかったけれど、代わりに別のことを迫られる羽目になってしまった。
「早瀬くんとは本当に何もなかった?」
人が本当に何もなかったと聞くときは大抵、本当のことを言ってという意味だ。相手が嘘をついているという前提で発せられている言葉はあまり好きでない。
好きか嫌いかなど使用者には関係のないことだった。
「何もないよ」
嘘はついていないというのに、彼女は何度か同じことを聞いてきた。これだからこの言葉は嫌いなのだ。
真実の証明手段がないせいで最終的には我慢比べになってしまうから。
折れた方が負け。
「本当に?」
「本当だって言ってるだろ。磯ヶ谷には心配かけて悪いけどさ、嘘じゃないんだ」
「うーん、分かったよ。四ノ宮くんがそこまで言うなら信じるね、何でもないってさ」
「何でもないって、独り言か?」
「うん、こっちの独り言。じゃあね、明日は絶対来てね」
今日の磯ヶ谷は少し意味深で変だった。
特にこの後思い出したように付け足した言葉が一日中、俺の頭の中をぐるぐると回っていたのである。
「あとね」
「ん?」
「やっぱりとか、自分の言葉を取り消すのはやめた方がいいんじゃないかな」
「え、磯ヶ谷?」
「これからは絶対なしだよ。じゃあね、四ノ宮くん」
電話を切られてから俺はベッドでぐったりと横になり、天井を眺めていた。
最近は調子が狂ってばかりだ。
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