第18話

雨が降った日の夏の夜は大嫌いだ。

 濡れているアスファルトのせいか、纏わりつくような湿気が気持ち悪かった。

「おひさー四ノ宮! ちょっと来てー」

 妹と数年ぶりにまともな会話をしたその日、俺は親友の幽霊に呼び出された。

 数週間ぶりのことだったし、多少の驚きや高揚があったもののそんな疑問を凌駕してしまうほどの謎に俺は直面している。

 さて、本題へ。

 俺は幽霊という霊験あらたかな存在について、実際のところあまり興味がなかった。けれど、興味が無いなりに考えていたことがある。

 それは何故、幽霊が怖いものと思われがちなのかということだ。

 別段科学的な理屈に基づいて解析したというわけでもなかったし、専門家なんかがいれば鼻で笑われてしまうかもしれない。けれど、凡夫なりの価値観で辿り着いた答えは単純なことだった。

――真夜中に知らない人がいたら、そりゃ誰でも怖いに決まっている。

 逆に言えば、世のお茶の間を恐怖に突き落として来た貞子だろうとなんだろうと、彼ら彼女らのことを昔から知っている人物ならば怖がったりしないはずだ。

 まあ、大抵の場合は死後数十年後に化けて出るのだけれど。

 そんなことはどうでもいいとして。

 問題なのは穂乃果に関しても同じことが言えるということだ。

 仮に彼女が俺以外の人間と接触していたとしよう。果たして、彼女とばったり遭遇してしまった相手は冷静さを保ちながら何の疑念も持たずに接することが可能なのか。

 午後九時あるいは午後十時半。

 人通りの少ない夜道。

 消えかかった街灯の元、ベンチに腰掛ける見知らぬ人物。

 その人物は中学校の制服を着ていて片足だけ靴を履いていない少女。

 口元に浮かべる幼い笑みが妖しい雰囲気をもっている。

 以下の舞台設定を踏まえて考察してみたけれど、彼女の知人でもない限り見ただけで冷静さを失ってしまうだろう。

 話しかけようだなんて以ての外だ。

「なあ、穂乃果」

「ん? 珍しいわね、四ノ宮が私に情熱的な視線を向けてくるなんて」

「いや、なんというか……しばらく見ないうちに変わったなって」

 彼女は無い胸を押さえ、顔を赤くしてこちらを睨んできたのだけれど、残念ながらそういうおふざけじゃない。

 俺の視線はただ一直線にベンチに腰掛ける彼女の方を向いている。

――彼女の足を。

――両足を爽やかに飾る桜色のスニーカー。

 いつ、どこで、誰からもらったんだろう?

 そのことへの疑問符が凡そ脳内の大半を埋め尽くしていたに違いない。

 息を吐くように聞いてしまった。

「その靴、どうしたんだよ?」

「よく聞いてくれた! はっはーこの靴はねえ!」

 話し出した穂乃果はやけに得意げだった。

 嫌な予感がして、けれどそれを隠しつつ彼女の言葉を待つ。

「新しい友達からもらったんだ! かわいいでしょ? ほれほれ」

 バレリーナのように足先を伸ばし、弾けるような笑顔を見せる彼女に俺は溜息をついて隣に座った。

 穂乃果は昔から一度話した相手を友達だと表現する。

 けれど、そのお陰で相手は知人以外の人間なのだと仮定することが出来た。

「溜息つくなー! 幸せが逃げてもしらないからね?」

 幸せは逃げたりなんかしないだろ。

 逃げてるのは自分の方だ。

 誰からもらったのかを聞こうとして、一体どんな風に聞くことが自然を装えるのか模索していると彼女が言った。

「ねえ四ノ宮」

「うん?」

「私が靴履いてなかったこと知ってた?」

「…………」

 とぼけよう、そう思った。

 けれど、彼女が自分の死に気付くかもしれない一大事が突然やってきたものだから、思考が上手く追い付かず黙ってしまった。

「知ってたの?」

「…………」

 答えなくとも、彼女の優しい表情を見れば既に心の内側を見抜いているのが分かった。祈るばかりだった。

 彼女は過去の存在で、いつかはいなくなるとしても。

 やっぱりそれは辛い。

 覚悟はしていたけれど、今じゃないと願ってしまう。

「四ノ宮、勝手にしょぼくれてんじゃないっ!」

 穂乃果は俺の背中をいきなり叩いた。

 え、何で?

 多分、俺はそんな顔をしていただろう。

――全て杞憂だった。

「きっとこの靴は現実世界へ帰るための切符みたいなもの、ええ、そうに違いないわ!」

 どういう心境の変化があったのか理解出来なかったけれど、彼女は拳を力強く掲げてやる気をみなぎらせている様子だった。

 幸いにも彼女は、大事なところで馬鹿だった。

 いや、本当に馬鹿で良かったとこの時思ったのは内緒にしておこう。

 心が白くなっていくのをじわじわと感じながら、俺はすぐに話題を靴に戻した。

「四ノ宮に電話が繋がらないときは大体、その新しい友達とここでお話してる。この靴はその彼女がくれたの」


――元気になりますようにって、笑顔で渡してくれたのを憶えてる。


「古い方の靴は邪魔だったし、その辺に捨てちゃった」

 古いといっても、買い替えたばかりで履き慣れていなかった記憶がある。事故に遭った時、片方は抜けて履いていた方は損傷が酷かったはずだ。

 思い出したくもない光景だった。

「彼女は本を読むのが好きなんだって! 四ノ宮と気が合いそうね!」

 幽霊に遭っても表情一つ変えず、冷静に会話できる人間を想像して思い浮かんだ。

 感情がないのではないかと錯覚してしまうようなクラスメイト、磯ヶ谷のことだ。

 けれど、彼女が笑って靴を渡す光景を想像してやっぱりありえないという結論に至った。彼女は笑わない、笑うという表情を忘れてしまったみたいに。

 厳密に言えば、笑顔を見せることはあるけれど、それがどういう感情に従って作られているのかを俺は知らなかったのだ。

「磯ヶ谷って名前?」

「名前までは知らないわ、でも笑うととっても可愛い女の子! どうよ、羨ましい?」

「絶対違う、もし俺が間違っていたらあいつの人格を疑う」

「え?」

「いや、何でもない」

 仮に穂乃果の言う可愛い女の子が磯ヶ谷なのだとしたら、俺の知っている彼女は詐欺師になれるだろう。寧ろ、詐欺師になるべきだ。

 教師の次は詐欺師に転職。

 そんな波乱万丈な磯ヶ谷の未来を案じ、冗談で思ったそのことについ口元が綻んだ。

 穂乃果が俺の顔を見て首を傾げたのでもっと可笑しくなって笑ってしまった。

――はははっ、と。

「んーよく分かんないけど四ノ宮が笑うなんて珍しいわね。あんたは笑ってる方が似合うのに勿体ない。どうして表情に出さないの?」

 思いはひっそりと心の中で描写する主義なんだ。そうして心の中から溢れ出してしまった感情だけが人の表情を動かす、そうあって欲しいと俺は信じているから。

 というように説明したとして俺以外の人が理解できるとは思えなかったので、違うことを言った。

「俺は生まれつき皆みたいに表情筋が柔らかくないんだよ」

 微笑んで言ったけれど、康平みたいに上手には笑えない。

「なるほどね! 二年間の謎が解けたみたいでスッキリした」

 快活に笑う穂乃果は冗談だと明かすまで本気で信じていた。

 単純な奴だなあ、全く。

 磯ヶ谷ならばすぐに嘘だと気付いて本当のことを聞きだそうとしていただろう。磯ヶ谷と穂乃果の性格は似ても似つかない、そりゃそうだ別の人間なんだから。

 けれど、彼女たちは他人のことに一生懸命になれる良い人だ。

「四ノ宮、そろそろ小説の続きを読む時間になったみたい」

「そんな時間あるの?」

「今私が決めたんだけど、文句ある? ひょろがりの四ノ宮?」

 ひょろがりじゃない、引き締まっているだけだ。

「文句ないよ、どうぞお嬢様」

 彼女は小説ノートを受け取るなり読み始め、最終章の終わりまで終始無言だった。

 黙って読んでいたのは、俺の小説が彼女を引き込ませるような魅力があったからだろうか。正直なところ自信はなかった。

 幸せを探す物語は最近になって完結したのだけれど、未だ自分の中では幸せの意味が判然としていなかったのだ。

 たくさんの幸せがあって、一つの定義を見つけることが難しかった。

 穂乃果は読み終えてから深く息を吐いた。

「四ノ宮がモデルの『主人公くん』は五章で茜が死んだとき……」

 遠くを見ながら彼女は言った。

「どう思ったんだろう、きっと、悲しくて辛い思いさせちゃったんだろうなあ」

「穂乃果……?」

「で、でもさあ、あ、茜は最後まで幸せ者だった、よね?」

 下唇を噛み、今にでも泣き出しそうな彼女は小さく震えていた。

――泣いちゃだめだ、私はもう誰かを惑わせてはならない。

 茜がもしも幽霊だったら、穂乃果がもしも幽霊だったら。

 彼女は渦巻く感情と必死に戦っている、そんな気がした。

「た、たとえ、この世界に茜がいなくなっても、み、皆は彼女のこと憶えて、いてくれるからさあ、し、幸せだった、はず、だよね」

「…………」

 心の琴線が彼女の言葉を受けて激しく揺れ出した。

 けれど、胸に痛みはない。

 彼女が泣いてしまっていたら、多分俺の胸は張り裂けそうになっていただろう。


――彼女は気付いていたんだ、死んでいることに。


「や、だな私、茜が死んじゃって泣いてくれた『主人公くん』と『親友くん』を見てると、嬉しいなあって思っちゃう」

 ある日、突如として日常が終わった女子中学生。

 彼女が死んでたくさんの人が泣いた。

 泣いてくれる人がいて嬉しいと彼女は言った。

 でも、そんなの嘘だ。

「そこに茜がいなくても、彼女のことを忘れないでいてくれる人が、たくさんいて良かった」

 違う。

「『主人公くん』が落ち込んで立ち直れなくなったときは困っちゃったりしたけどさ、『親友くん』や新しい友達と手を取り合って、もう一回、やり直すの」

 本当は違う。

 こんなのは――。

「理想の、ハッピーエンドよ、ね」

 物語はハッピーエンドでも、こんなの間違ってるんだ。

「違うよ、穂乃果。本当は皆、君がいてくれる未来を望んでいた」

「何言ってるの、茜の話でしょ……」

「もうやめてくれ……これは物語なんかじゃ――」

 言葉の続きを遮るように彼女は俺を抱きしめて、耳元で囁いた。

 か細い、吹けばすぐに折れてしまいそうな声だった。

 だけど俺は否定することも、返事をすることも出来なかった。

「これは茜の物語……でしょう?」

 ふわりと優しい匂いが身を包む。

 ああ、温かい。

「ねえ、四ノ宮」

「…………」

「私達、色々あったわよね」

 胸の中心にじわじわと熱を感じ、それが溢れ出さないよう俺は堪えた。

 彼女の優しい声を今でも鮮明に思い出せる。


――四ノ宮はさあ、どうして放課後に教室で本を読むわけ?


「昼間は教室に居場所が無くて、放課後だけはあの場所にいたかった。自分がここにいるってことを誰かに気付いて欲しかったんだ」

「聞けて良かった。だって四ノ宮、全然自分のことを話そうとしないもの」

「ごめん」

 邪魔者扱いされていても、そんなことを望んでいた。

 俺も居場所が欲しかった。

「二年間も一緒にいたのにさー、いつになったら心開いてくれるのかってこう見えても悩んでたんだから。許してあげない」

 心ならとっくに開いていた。だけど、素直じゃないんだ俺は。

 表現が苦手なんだよ。

「ごめん」

「別に本気で怒ってるわけじゃないわ」

「ごめん」

「…………」

 彼女は怒っていなくとも、傷ついていたのかもしれない。

 自分が不器用なことを後悔した。

 彼女への感謝の思いを伝える前に、相手がいなくなってしまったから。

 康平と同じように後悔している。

「全く、下向いてばっかじゃない四ノ宮。どうしてでも謝りたいっていうなら約束して」

 彼女は深呼吸して、暫く心の間を置いて言葉を紡いだ。

「私が死んで悲しいって思い、全部忘れること」

「い、いやだっ!」

 子供のような声と抑え込んでいた涙が溢れ出したけれど、もう限界だった。

「何で?」

「…………」

「私との思い出は悲しいものだから?」

「違う! そうじゃない!」

 君とのどんな思い出も忘れていいとは思えないからだ。

 事故が無ければ、俺たちは同じ卒業式を迎えて、また三人で堤防の上を歩いていたかもしれない。そのうち穂乃果と康平は結ばれて、その姿を親友として見守っていられたのかもしれない。いつか二人は結婚して友人として式に招待されて、本当に楽しかった数年間を振り返る日があったかもしれない。

 そんな未来を想像出来るのは今の思いがここにあるからだ。

 忘れていいわけがないんだよ。

「忘れていいわけがない」

「聞いて、四ノ宮」

「…………」

「私は寝て起きたら悲しいことなんて忘れてる。私が能天気だからそうなんだろうけど、人はいつか悲しいことを思い出せなくなるように出来てると思うわ」

「……そんな都合の良いこと」

「あるよ、人はそういう風に出来てる、きっとね。四ノ宮はそれが嫌?」

――悲しい思い出が消えて、幸せな思い出だけが残ること。

「人はね、悲しい事をいつか思い出せなくなる代わりに、幸せな事はいつまで経っても思い出せるようになってる。四ノ宮はそれが嫌?」

――また思う、最近は気にしてばかりだ。

「私はそれで良いと思ってる。だって、これから何十年生きていく中で辛い事や悲しい事があったとしても、温かい思い出がいつだって支えてくれるってことだもん。泣きたくなったら四ノ宮の小説を思い出して感動して泣くの」

――俺は今、どんな顔をしているのだろうってまた思う。

「何度も一緒に歩いた堤防の上、あの時間は楽しかったなあって。私達が笑っていた瞬間は二度と帰って来ないかもしれないけど、いつだって思い出せるわ。そして私は一人じゃないって確認して康平や四ノ宮から勇気をもらうの」

 勇気をもらう。

 穂乃果から、思い出から俺は勇気をもらっていた。

 知らぬ間にそうしていたんだ。

 だから磯ヶ谷に本を読んで欲しいと頼めた。

「四ノ宮、もう一度お願いする」

 ありがとう、穂乃果。

 教室に居場所をくれて。

 小説を読んでくれて。

 友達になってくれて。

 俺の親友を連れて来てくれて。

 世界がこんなにも輝いていると気付かせてくれて。

「悲しいって思いは全部忘れて?」

「ああ…………忘れるよ、一つだけいい?」

「どうしたのよ? 珍しいわね、四ノ宮がお願いごとだなんて」

愛おしい友の温もりを頬で感じてから、ゆっくりと熱い息を吐いた。

 そうして心に住み着いていた臆病を追い出し、隙間を作る。

 自然と身体が軽くなったようで言葉を紡ぐことが出来た。

「穂乃果は、幸せだった……?」

「なあに当たり前のこと聞いてるのよ、うーん四ノ宮風に言うなら幸せとは」

――幸せだった、幸せだったと思えることが今はとても幸せ。私をこんな気持ちにさせてくれた皆、生んでくれたお母さんお父さんにも感謝しなくちゃ。

 泣いていることを忘れて、我慢できず彼女の顔を見た。

 すると彼女もまた顔を濡らしながら、けれど、とても眩しく笑ってもう一度抱きしめ合うのだ。

 康平が穂乃果のことを好きだったということを話すと、意外なことに彼女は知っていたかのように得意げで、いたずらに笑顔だった。

「手紙を書くというのはどう?」

「書くってどうやって?」

「四ノ宮が紙とペンを用意するの。ノートが触れるんだから出来ると思う」

 穂乃果の冴え渡る思考に驚きつつ、次回会ったときに計画を実行しようと決めた。

 彼女の浮かれ具合を見るに両想いだったに違いない。

 これだからリア充は、見ていて気分が良いなあ。

 そうして俺たちは普段のように別れて、一人で夜を過ごした。

 今日はぐっすりと眠れたのだった。

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