第15話
磯ヶ谷家は真っ白な家具や壁紙で統一された落ち着きある雰囲気だった。比較的新しい住宅街に建っていることから彼女は引っ越してきたのだろう。
暖色の照明は心を穏やかにしてくれる。特にオール電化は羨ましいと思った。
磯ヶ谷は三人分の料理を作って台所からリビングのテーブルまで運んできてくれた。
「今日のご飯はカレーだよ」
彼女は母親に微笑みながら言って、目の前にカレーライスを置いたのだが彼女の母親は虚ろな目で何も言わなかった。
結局、彼女の母親は二、三回スプーンを口に運んで殆ど残した。
彼女は夕飯の食器を洗い終えてすぐに、彼女の母親を寝室へと連れて行った。
彼女の母親は頬骨が目立つ人だったけれど、元からそうだったわけではないのが一目見て分かった。あれは痩せ過ぎているせいだろう。
「磯ヶ谷、読み終わった」
俺は彼女の遺書を封筒にしまってから返した。遺書であるとは言え、磯ヶ谷は現時点で生きていたし、内容を読んだ限りでは過去のものだった。
彼女の過去で、噂の真相。
けれど、正直言葉が出てこなかった。
死んでいなくて良かった、安易にそう言っていいものか悩んだ。
深呼吸して、目の前に座る磯ヶ谷を見た。
磯ヶ谷は特にそれを気にした様子もなく普段通り退屈そうな顔をしていて、ほんの少し俺の感じていた緊張が弛緩した。
「ごめんね、お母さん不愛想で」
「あ、いや、気にしてないよ」
「それは良かった、重い空気は苦手だからテレビ点けるね」
漫才番組だった。スタジオでは観客の笑い声が響いていて、俺は寂しい思いになった。
世の中には辛い思いをしている人もいるのに、時間はそういう人たちを待ってくれないのだと実感して寂しくなったのだ。
時間は寄り添ってくれない。
「あのさ、磯ヶ谷」
「なあに四ノ宮くん」
俺が唾を呑み込んだ音、彼女に聞こえていたかもしれない。
言葉も一緒に呑み込んでしまおうかと迷ったのだけれど、ここで聞けなかったら二度と話してもらえない気がした。
俺は迷いを振り払って言った。
「壊れてしまった人って、磯ヶ谷の母さん?」
雨の音がいつもより大きく聞こえる、そんな沈黙だった。
彼女は下唇を噛むようにして、意を決したのか口を開いた。
「四ノ宮くんの言う通りだよ。お母さんは私のせいで壊れた」
「磯ヶ谷のせいで?」
「うん、私がはやく立ち直ろうとしなかったからお母さんの精神が擦り切れた」
磯ヶ谷は目線を逸らしながら続けた。
「ある日、本当に突然だったけど今でも憶えてるよ。お母さんはいつも通り夕飯を作っていて包丁で指を切っちゃってさ、でも、痛いって言わなかった」
「お母さんはどんな感じだったんだ?」
「ぽつぽつと垂れる自分の血をぼーっと見て固まってた。そのときにね、お母さん変になっちゃったんだって私にも分かった」
――何もかも嫌になって捨てちゃったんだ、きっと。
「それからお母さんは仕事もやめて、家事も出来なくなって、ずっとあの調子。でもね、お母さんは悪くないよ。悪いのは全部私だから」
磯ヶ谷は悪くない。
「磯ヶ谷は悪くない」
自分で言って驚いた。心の中の言葉が表に出てきたのは初めてだったから。
彼女も意外そうな顔をしていた。
「ありがと、四ノ宮くん。お父さんも同じこと言ってくれたよ、だけど悪いのは私、多分お母さんは私のこと嫌いになったかもね」
――磯ヶ谷は笑って、それから普段の表情に戻って、でもと続けた。
「…………」
「自分が悪いってことに気が付けたから、私は立ち直ることが出来た。失ってからだったけど、立ち直って一からやり直せたんじゃないかなって思ってるよ」
「磯ヶ谷…………?」
彼女は机の上に置いてあった自分の遺書を引き裂いてゴミ箱へ放り込んだ。
こちらを真っ直ぐに見て言った。
「だから四ノ宮くんも元気出そうよ、友達が死んじゃったのは悲しいけど、そんな四ノ宮くんを傍で見てる人は、もっと悲しいはずだよ?」
続けて彼女は言葉を紡いだ。
「私に言えることはそれだけかな、うん、自分の経験を全部伝えられたよね」
俺は磯ヶ谷の冷たい瞳が誰よりも温かいことを知った。
色々な苦難を乗り越えて来た意思の強い人だった。
そして、一度は失敗した人助けをまたしても挑戦しようとする正義感の強い人。
人に寄り添うのが上手な優しい人だ。
彼女の瞳を見つめながら俺は微笑んだ。俺も磯ヶ谷のように優しい人だったなら妹の味方になってやれるのだろうか。
穂乃果なら、味方になれって言うに違いない。
俺は少し勇気を出した。磯ヶ谷の経験は伝わったのだ。
「磯ヶ谷」
「どうしたの四ノ宮くん?」
「不登校で思い出したんだけどさ、実は――」
磯ヶ谷に妹のことを話すと予想通り怒られてしまったけれど、必死になってアドバイスしてくれる彼女の優しさや人間性がくすぐったかった。
話し終えて、そのとき偶然雨が止んでいたので俺は帰ることにした。
帰り際に彼女へのお礼にはならないだろうけれど、自分なりに素敵な言葉を贈ってあげた。
「磯ヶ谷の母さん、全部捨てたわけじゃないと思う」
「え? どうして?」
「磯ヶ谷とお父さんが傍にいるのは、お母さんが二人を捨てずに残してくれたから。そういうことなんじゃないかな」
「……四ノ宮くんはやっぱり変な人だね、だけど」
――素敵なこと考えてるよね。
また学校で磯ヶ谷に会えることが楽しみだ。
彼女の家を出て、夜風に当たりながら考えた。けれど、幸せが何かは分からなかった。
それでも、明日へ歩き出さなければ見つからないものだと気付いた。
妹には今夜、お節介かもしれないけれど教えてあげよう。
康平には穂乃果の命日の日に教えてあげよう、俺の経験の全部を話してあげよう。
磯ヶ谷がとても良い人だってこと、明日の楽しみが見つかったこと。
それから、
「幽霊になった穂乃果に会ったこと」
蒸し暑い空気の中、俺は弾むような足取りで家に帰った。
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