第13話

夕暮れの空を眺めながら俺は何を思うべきだったのだろう。来た道を戻っていくバスが心地良く揺れていて、ふと磯ヶ谷を見たとき彼女は眠っていた。

 俺は今日という一日を残念ながら澄んだ気持ちで過ごすことが出来なかった。それは他でもない俺のせいであり、自分のために一日を割いてくれた彼女には申し訳ない一心だった。次第に夕暮れは雲に隠れて、辺りは薄暗くなった。

 釈然としない、雨でも降るのかもしれない。

 そんなことを考えている内にバスは最初のバス停に止まった。暫く歩いて、街灯がちかちかして明かりが灯るところ見た。気が付けばいつもの堤防だった。

 それまで磯ヶ谷は一言も話さなかった。

 俺は康平と違って演技が下手だから、きっと楽しんでいないのがバレてしまったのかもしれない。

 嫌われてしまったのかもしれない。

 でも、それでも仕方がない。

 俺だけ浮かれていてはならないのだ。

「四ノ宮くん」

 堤防の真ん中くらいにある階段まで歩くと磯ヶ谷が初めて言葉を発した。彼女は普段この階段を使って通学している。薄暮のせいで視界がはっきりとはしなかったけれど、彼女はきっと笑っていない。

「ここでお別れか?」

 彼女の沈黙があまりに長いものだから、とりあえずそうだろうと思ったことを言った。

「違うよ、四ノ宮くん……目を瞑って」

「いいけど、何で?」

「何でって、何ででも瞑って」

「はあ」

「瞑らなかったらお前を許さないっ! 似てるかな?」

 いつかどこかで言ってしまったコミュ障ネタをやり返されてしまったことに多少の恥ずかしさを憶えつつも、俺は目を瞑ることにした。

 二十秒ほどして、磯ヶ谷の声が聞こえた。

「今日楽しかった?」

「うん、楽しかったよ」

「そっか、それは良かったね」

「磯ヶ谷は、そっちこそ、どうだったんだよ?」

「私は、まだ終わってないからね。今からが、うん、一番大事かな」

 磯ヶ谷はでも、と。

「楽しかったのなら良かった」

 そう聞こえたのと同時に、両頬に人肌を感じてすぐにそれが彼女の手だと分かった。

 それから、むに、むに、むに、と。

 頬を上にしたり、下にしたり、横に引っ張ったりしてきた彼女は「うーん、違うかなあ」などとよく分からないことを言っていた。

 そのよく分からないことなど、今の俺にはどうでもよかった。

 今の俺には、女子に顔を触られているという未体験の出来事への、いや、事件への驚愕で頭の中がいっぱいだったのだ。

「い、いほがや!?」

「中々難しいよね、でもヒゲがじょりじょりしてなくて良かったよ」

「なんのこほ!?」

「うん、これで良いよね。私は頑張った……四ノ宮くん、もう少しその顔でいてね」

 言って彼女は数歩後ろに下がって、そして一瞬眩しい光と共にシャッター音が鳴った。

「良いよ、目を開けて。あ、写真送ったから今すぐ見てくれたら嬉しいかな」

 ポケットに入れていたスマホが振動したので、俺はじんじんと痛む頬をさすりつつ送られてきたメッセージを開封した。

 するとそこに写っていたのは、変に頬を引きつらせた間抜けそうな俺の写真だった。

「何だ、これ」

 写真を撮った本人ですらクスリともしないとか、誰得なんだよ。

 苦笑し、スマホの明かりに照らされる彼女の顔を見たけれど本当に笑っていなかった。

 泣いていいよね。

「四ノ宮くん、本当に楽しい時はこんな風に笑った方が良いんじゃないかな?」

「これが笑ってるって、モンスターみたいな顔になってるだろ」

「あ、大丈夫だよ、みたいじゃなくてモンスターだからね」

「酷過ぎて泣きそうだぜ……」

「ほら、笑った」

「え」

 四ノ宮はもう一度素早くシャッターを切って写真を送って来たのだけれど、そこに写っていた俺は言う通り僅かに笑っていた。

 僅かに笑う俺は、とても楽しかったのだろう。

 けれど、そういう自分がまだ残っていたことに嫌気が差し、心の黒い部分がざわついているのを感じた。

「あのね、四ノ宮くん。どんなに悲しいことがあっても、いつまでも不貞腐れてちゃいけないよ」

 彼女は少し長く息を吸って、それから言葉を紡いだ。

「私、実は昨日学校で四ノ宮くんに怒ってたかもしれないけど」

 知ってるよ、顔が怒っていたから。

「今は怒ってないよ、少し昔のこと思い出してそうしたら四ノ宮くんの気持ち分かったから。四ノ宮くんはきっと、自分みたいな人間が楽しい思いしてていいのか、自分みたいな人間が一人幸せになろうとしていいのか、そういう罪悪感みたいな感情に苛まれてるんだよね? 分かるよ、その気持ち。だけど、そんなことしていたらいつまで経っても」

 いつまで経っても。

「前には進めないよ。ううん、進めないだけじゃない。いずれは友達も、家族も、いなくなってしまうかもしれない。もうそんな人を私は見たくない!」

 いなくなるって言うのは、康平や父さんや母さん、妹も俺を見捨てるということだろうか。

 そうなったら、仕方がなかったと思うしかない。

 自業自得だ。

 寧ろ、皆が俺を置いて前に進んでくれるならそれでいい。

 俺はどんな顔をしていたのだろう。

 磯ヶ谷が歩いて、お互いに顔の見える位置まで距離を縮めてきた。

「磯ヶ谷?」

 彼女の顔を見て、空気が凍り付いた様に重くなった。

「知らないよ? 大好きな人が笑わなくなっても」

 彼女の瞳に輝きが灯り、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 あ、と声が出てしまったのを悔やんだ。


――彼女が泣いたのを初めて見た。


「知らないよね、四ノ宮くんは皆の気持ち。皆、家族や友達は自分の大切な人が苦しんでいたら力になりたいって、笑って欲しいって思うんだよ。笑ってくれるまで見捨てたりしないし、ずっとどうしたらいいのか考える。そして壊れていくの」

「壊れる?」

「その子が笑ってくれないのは何でだろうって、精神をすり減らしながらずっと考え続けて分からなくなって、全部自分のせいだって思っちゃう。全部全部自分のせいだって思い込んだら最後は何もかもがどうでもよくなるんだよ」

 だから、だから、だから、と磯ヶ谷は言い続けやっと言葉が紡ぎ出された。

 呼吸が追い付いていない彼女は息を荒くして言った。


「だからね……楽しかったら笑って、お願い」


 俺は瞬きをすることも忘れて、口を閉じることも諦めて、彼女の頬を伝う涙を拭った。

 彼女は白い手で俺の手を頬に押さえて、嗚咽を漏らしながら泣いている。

 何が彼女をここまで熱くさせたのか分からなかったけれど、磯ヶ谷の心の中で何かが大きく揺れていることは分かった。

「ごめん、ごめんね、ごめんね、分からないよね、四ノ宮くん。私が何で泣いてるとか知らない、よね。理由抜かしちゃった、今の思いを伝えることしか考えてなかったから」

「分かったから、その……泣くなよ」

 もう充分なんだ。

 もう充分、磯ヶ谷の温かさは伝わったからさ。

「泣かないよ、泣かないって決めてるから」

「さっき自分で泣いてるって言ってた、支離滅裂だなあ」

 彼女は頬に当てている俺の手をつねってきた。

「泣いてない」

「わ、分かりました」

「あのね、四ノ宮くん」

「うん」

「笑うか笑わないかも、楽しいか楽しくないかも、全部自分で決めることなんだ」

 全部自分で、決めること。

「明日が楽しみと思うことも、結婚をすることも、何かを失うとか失っていないとかも、全部自分で決めること。私が何を言いたいか分かる?」

 俺は考えて、一つだけ次に彼女が言おうとしていることが思い浮かんだ。

 今までずっと探して来たことだった。

「幸せとは?」

「うん、正解だよ……幸せとは自分が決めること、自分の意思で立ち直って生きて行かなきゃ四ノ宮くんの答えは見つからないんじゃないかなあ」

 言い終えてから恥ずかしかったのか、白い頬は朱に染まっていた。

 数分して、目の赤い彼女は泣き止んだ。

 またいつもの退屈そうな顔に戻ってしまったことは名残惜しいけれど、元気になったのならそれはそれでいい。

 というか、そうじゃなきゃ駄目だ。

 涙で濡れていた俺の右手も夜風で乾いたことだし、そろそろ帰ることにした。

 けれど、そのとき水滴がぽつりと鼻に当たった。

「雨、降ってきたね四ノ宮くん」

「傘ないから早く帰らなきゃ」

「もしよかったら私の家で晩御飯食べてってよ。あ、傘も貸すよ」

 お父さん仕事でお母さんしかいないし、と付け加えた彼女の表情は今まで以上に寂しげだった。

「悪いな、なあ磯ヶ谷」

「ん? なに?」

「そのときにさ、泣いた理由を聞いていい?」

 聞かなければならない、そんな気がした。

 彼女は少し迷ったようだったけれど、一度自分に頷いてから「いいよ」と言ってくれた。

 そうして俺たちは傘もないままに、強く降り出した雨の中を急ぎ足で歩いた。

 今日のこと、雨のことを少しだけ好きになれたかもしれない。

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