第8話

七月に入って空は晴れていることが多くなったけれど、その分暑くなってしまった。これがまだ南国のように乾燥した暑さなら良かったものの日本の夏はどうしてだか蒸し暑い。

 頼むからもっとカラッとしてくれジャパンサマーよ。

 もしかしたら、いつか何処かの偉い人が言っていたように、真面目だが陰湿な国民性が影響しているというのだろうか。誰が言っていたのか、本当に偉い人だったのかさえ憶えていないけど。

 まあ、そんな国民性など信じなければいいと言いたいものの、俺の性格とこれまた正確に一致しているのだ。だから否定するのは難しいね、少なくとも俺には。

 学校に登校すると教壇付近に扇風機が一台置かれていて思わず舌打ちをした。

 この高校は金がないのかエアコンという文明の力を備えていないのだった。これこそがこの愛すべき学校の真実であり、真っ裸の太陽の光を受けながら自転車を漕いできた俺への待遇だ。

 七月の暑さを舐めていた高校生たちは教室で狼狽している。教室の窓際前列で友達に囲まれている康平も「あっちぃな」と何度か弱音を吐いていた。

 何故、直射日光を受ける窓際に集まりその上大勢で戯れているんだ。暑いに決まっていると思いながら黙って見ているに留めておいた。

 隣の席に座る磯ヶ谷は、登校してきたばかりとあってうなじの辺りに汗をかいていた。

 そんな彼女は早速俺の小説を読んでくれていた。

「ねえ、四ノ宮くん。ここのシーンなんだけどね」

「そっか」

「そっか? 私まだ何も言ってないよ?」

 俺は溜息をついて答えた。

「そっか」

「うーん…………四ノ宮くん自身のことも聞きたいけどそれは後にするね。第五章のこのシーンに、えっと、どうして友達の茜ちゃんを交通事故で失う展開に?」

 気の使えない磯ヶ谷は過去の悲劇を思い出させるようなことを聞いてきたけれど、どんな過去があったのか知らない彼女は別に悪くなかった。

 彼女の濡れ衣を晴らしてあげたところで俺は理由を話してやった。

「磯ヶ谷、幸せとは失ったら帰って来ないものなんだ。それが俺の答えだから作品にしただけだよ」

 彼女は退屈そうに眉をひそめて俺を見ていたけれど、それはいつものことだ。

 いつも通りで平常時の表情だ。

 別に気にはならなかった。

「悲しい答えなんだ、それでね四ノ宮くん」

「感想はそれだけかよ」

「それでね四ノ宮くん」

「う、うん……」

 ちょっとくらい感想言ってくれても良いじゃん。泣いたわ。難しい顔をした磯ヶ谷は一瞬言葉の続きを迷ったのか、数秒の間を置いてから話し始めた。

「最近、何かあった?」

「別に何もないよ」

 俺が机に突っ伏しながら答えてやると次に溜息をついたのは彼女の方だった。

「じゃあ質問の仕方を変えるね。最近、規則正しい生活してる? 目の下にくまが出来てるけど」

「規則正しい生活なら毎日嫌という程してるぜ……ハハッ」

「じゃあ昨日はどんな一日を過ごした?」

「午前四時に就寝して、朝の五時に起きて執筆。それから学校に来て六時間睡眠、家に帰ってからコーヒー二、三杯飲んでぼーっとしてたな」

「規則正しい生活してないんだね、自白してくれてありがと」

「たとえそうだったとしても俺は健康的で元気な状態を保ってるぞ」

「ずっとその本の一ページ目を読み続けてるのは頭に入ってこないから? そんな状態でよく健康について語れたよね、四ノ宮くん」

 しかも「人間失格」読んでるし、と磯ヶ谷はわざわざ説明描写を付け加えてくれた。

「何か思い悩むことがあるんだよね?」

 穂乃果が現れなくなって暫く経つけれど、特に理由やきっかけは思い当たらなかった。

 もし、あの日ずっと見張っていれば彼女はいなくならなかったのだろうか。

 だとしたら俺のせいだ、自分を救ってくれた穂乃果を救えなかった。

 いつかまた三人で出掛けたいという願いを叶えてあげられなかったんだ。

――毎日、毎晩、穂乃果は幻だったんじゃないかと思い込もうとしていたけれど、俺は自責の念に憑りつかれている。

 本を読んでいても、小説を書いていても憂鬱だ。

 穂乃果のいない日常は平穏で平凡で退屈で時間だけが過ぎていく。

 そんな日常を壊したかった。

 けれど、そんな勇気なんてあるはずもない俺は小説の世界を壊すというささやかな蛮行に出たわけだ。

「心配しないでいいよ、磯ヶ谷には関係の無いことだし」

 関係のない彼女に心配されたいと思う程俺は落ちぶれていない。そう思っていても明るく振舞えないのは精神的な余裕がないせいだ。

 何度目かわからない溜息をついた。

 磯ヶ谷は相変わらず表情こそ平然としていたけれど――

「ああもう、どうしてそういうことしか言えないのかなあ?」

「そ、そういうことって……」

「心配するなとか、関係ないとか、そんなこと言われるの好きじゃないよ私。友達なんだから、頼ってくれていいからね?」

 え、えっと磯ヶ谷さん?

「もしかして怒ってる?」

「は? 怒ってないけど……あれ?」

 磯ヶ谷は言いながら自分の顔を触り、ぽかんと口を開けて固まった。

 彼女は唇を尖らせて話していたということを今自覚したらしい。

――ふうむ、磯ヶ谷も不機嫌になったりするんだな。

 他人のために怒るというところが穂乃果に似ていると思った。

「……四ノ宮くん、とりあえず力にならせてよ」

「多分磯ヶ谷でも力にはなれない」

 この心の黒い部分は康平でも、穂乃果でも、自分自身だろうと解決出来ない。解決だなんて表現すると、まるで事件みたいだった。

「だ、だからさあ」

「また怒ってるぞ?」

「全然怒ってないから。今は私の顔を見るよりも四ノ宮くんにはすることがあるから」

「俺には授業をサボって寝るくらいしかすることないだろ?」

「どうしてこんなに卑屈なのかな……相談しようよ、四ノ宮くん!」

 ちょっぴり怒り顔の磯ヶ谷はいつになく言い迫ってきたのだけれど、相談するにしたって何を話せばいいのか分からないというのが正直なところだ。

 死んだ友人が幽霊になって出て来た話をしたって信じないだろうし、俺なら正気じゃないと思ってしまう。

 適当に納得のいく理由を考えて話すことにした。

「まあ何というか、もうすぐ事故で亡くなった友達の命日でさ。色々と思い出してセンチメンタルな気持ちになっていたってわけだ」

「だから五章で茜ちゃんが事故に? そんなことがあったなんて知らなかった私」

 そりゃそうだ、今話したんだし。

 磯ヶ谷はきっとそんなに悲しい気分ではないのかもしれないけれど、悲壮感に満ちた表情をしていた。だからまたしても、こちらが悪い事をしている気分になった。

「何か、悪い事したな」

「えー謝ることしてないよ四ノ宮くん。そういう下向きなところをネガティブって言われてるんじゃないかなあ?」

「ネガティブって言われてんの俺?」

「うん、友達が四ノ宮くんと話してると口癖がごめんと吾輩になるよって」

「ごめんに関しては百歩譲るとして後半はもう偏見だろ」

 俺は夏目漱石の猫じゃない。というか「吾輩は猫である」を読んだことさえない。

 そしてそれを俺に話す磯ヶ谷の表情は真顔で、客観的に見ればクラスメイトに悪口を言われていると捉えても差し支えない。

 だがこいつは無表情と負の表情という迷彩で感情を隠している。悲しい顔をしていても悲しいとは限らないし、真顔でも何も思っていないわけじゃない。

 今は真顔だけど俺のことを悪く言われて嫌だったんだよな?

 あまりに自然だったけど、さっき俺の事友達って言ってたもんな?

「四ノ宮くんがどう思われても、私まで同じように見られるのは何だかなって感じ」

 やっぱ悪口だった。

「私がどう思っているかは置いておくとして、四ノ宮くんが全体的に卑屈で歪んでいるっていうのは本当だよね」

「卑屈で歪んでるのか俺……」

「うん、このままじゃ幸せの定義を見つけるなんて無理だと思う」

「幸せの定義ならもう見つけたって言っただろ」

「あんなの幸せの定義とは呼べないよ、一度失ったらずっと不幸せなんて悲しすぎるしさ、四ノ宮くんには素敵な小説を書く才能があるんだから素敵な答えを見つけなきゃだね」

「素敵な答え?」

「うん、でも今の状態じゃ無理」

 言って彼女は夏の日差しより眩しくない夜空みたいに冷ややかな表情で、俺が握っていた本を奪い取って来た。

「一旦休憩が必要なんじゃないかな、四ノ宮くんには。リフレッシュだよ」

「リフレッシュ?」

「明日は休日だけど朝から暇だよね?」

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