第7話
雨が止んで雨雲も一緒に何処かへ消え去ったようだ。
街灯の無い堤防の上を月明かりが照らし、それでも対岸の街の方が大分明るかった代わりにこちらは夜空が綺麗に見えた。
流れ星などが見えればより素敵な脳内描写が出来たかもしれないけれど、そんなこと考えている余裕はなかった。俺は小説ノート握り、息を切らしながら走っていたのだ。
「もっと気合い入れて走りなさいよ、だからいじめられんの」
「う、うっせえ! 寝起きなんだよ!」
こんな時間に電話を掛けて来るなんてどうせ康平だろうと、俺は画面も見ずに応答した。スマホの向こうから穂乃果の声が聞こえてきて一瞬固まったのだけれど、成仏していなかったと思うことで存在を受け入れることにした。
まだ彼女が幽霊と決まった訳じゃないけど。
説明のいかない異常事態にこそ楽観的にいこう。いつの日か穂乃果が言っていた二度と役に立たないと思われた言葉が助けてくれた。
皮肉なことに原因の中心に彼女がいたけれど、特に問題はないだろう。
辛さや苦しさを思い出すことがあっても、温かさや優しさを思い出すことがあっても、それが上書きされたことは一度もない。
良い意味でも悪い意味でも、感情が麻痺している俺は丈夫だった。
――穂乃果は昨日と同様の格好だ、片足だけ靴を履いていないのも同じ。
その姿で堤防の上をぶらぶらと歩いていた。まだ乾き切っていないアスファルトの上を歩き、虫の鳴き声なんかに耳を貸していた。
暇そうだった。
「で、家には帰れたのか?」
「確かに帰ったはずなんだけど、またここにいたの。電話も四ノ宮にしか繋がらないし」
何が起きているのだろう、とは流石に思う。
疑問があると落ち着かない性格の俺は仮説を立てるために質問をした。
「穂乃果、あの日のこと本当に憶えてないのか?」
何度も似たようなことを聞いたが、結局彼女はあの大雨の日の事故を憶えていなかった。
きっと、彼女は死んでいるんだ。靴を履いていないことに気付いていないようだし、直感でそう思ったが間違いないだろう。
自分が死んだことに気付いてない、大抵こういうときは死を自覚した瞬間消えてしまうお約束展開がある。
「あ、そうだ四ノ宮」
何だかミステリー小説みたいだなあと考えていると彼女が言った。
「もしかして私たちは小説の世界に閉じ込められたのかも!」
「何の小説?」
「四ノ宮が前に書いてたやつ、鏡の世界に閉じ込められる少年の」
この世界の特異点たる彼女が言うのだからそうなのかもしれないと思って辺りを見渡したが、違った。
止まれの標識は左右反転していなかった。
「じゃあ、現実とは似て非なる世界ということにします! さて四ノ宮、やることは分かるわね?」
「え、何やるの?」
「探検するに決まってんでしょ! 付いてきて、四ノ宮」
言って、彼女は弾むような足取りで堤防を真っ直ぐに進んでいく。
足音は俺のものだけで彼女は基本的に無音。
水溜りを踏んでも波紋が出来ない。
鏡にも映らない。
けれど温かい体温と心を持っている。
死んでいても生きているみたいだった。
前を歩いていく彼女はとても頼もしかった。
「この世界、現実世界とあんまり変わんないわね。飽きた、あのベンチで休む」
現実世界じゃなかったら良かったのにな。
そんな風に思うとフラグが立つから本当に世界線を移動したりするかもしれない。
「だけどここは異世界で間違いない」
だけど、フラグは容赦なく上書きされてしまった。
俺と彼女はベンチに座った。
腰を降ろすと濡れていて冷たかったけど我慢しよう。言ってしまって、彼女が自分の死を自覚したら本当に消えてしまいそうだから。
そうなったら多分、悲しい。
「四ノ宮、ここが一年後の世界だって前に言ってたけど、本当なら面白い思い出話をしてみてよ」
「思い出話か、最近教室で小説を読んでくれる女子がいるんだけど、今日は幸せの意味について一緒に考えたんだ」
俺は今日あった出来事を話した。
磯ヶ谷の表情が退屈そうで、死んだ魚のようで、この世の終わりみたいに虚ろで、それから無我の境地だったこと。
康平が最近は恋人を一か月周期で乗り換えていること。
幸せとは明日の楽しみがあること。
幸せとは結婚することだと思ったがやっぱり取り消したこと。
そんな取り留めのない話を一通りして、彼女は笑ったりもしたけれど飽きたのか小説を読ませてと言ったので小説ノートを渡した。
はらり、はらりとページをめくっていく彼女の様子を眺める。
艶やかな髪に触れようと思ったけれど、康平が悲しみそうなのでやめた。
康平は、穂乃果を失った寂しさを他の誰かで埋めようとしているのだろう。だけどその寂しさが埋まることなんて有り得ない。
誰かが教えてくれた優しさや温かさを他の誰かが埋められないように、寂しさや悲しみを埋められるはずなかったから。
磯ヶ谷と話していると穂乃果といるみたいな感情になるけれど、やはりそれは別物だ。
俺も康平もきっと、過去に縛られている。
忘れられない思い出を自分の中でずっと繰り返して、それが帰って来ないのを苦しみ続けている。そんな気がした。
――冴え渡る銀色の月を見て、少しだけ瞳が潤んだ。
「幸せとは?」
「え?」
気が付けば読み終わっていた彼女が俺に聞いてきた。
隣を見れば彼女がこちらを見上げているだろうけれど、俺は視線を月に向けたまま動かさなかった。今の表情を見られたくなかったんだ。
幸せとは、聞かれてから色々考えた。
「穂乃果、ついてきて」
俺は強引に彼女の手を握って歩きはじめる。どこに行くのかなんて歩きながら考えれば良い。そうだなあ、何処に行こう。
三人で歩いた通学路を歩こう。
三人で食べたパン屋の前も歩こう。
三人で遊んだ公園の遊具もいい。
三人で過ごした学校へ忍び込んでやろう。
遅れてしまったけれど、中学の卒業式だって三人でさ。
三人で、三人で、三人で――。
「い、痛いよ……四ノ宮」
「ごめん」
「いいけど、四ノ宮大丈夫?」
「俺が悪い。次は気を付ける」
心がズキズキと痛み、胃がきりきりと騒ぎ出したけれど彼女はそんなこと知らない。
彼女にとって思い出は死んでいないから。
彼女は今を生きているつもりだから。
彼女の思い出は今を生きているから。
だから、俺の気持ちは分からない。
分からなくてもいい、俺は歩き続けた。
「穂乃果、小説どうだった?」
「面白かったというより、何か深い小説よね。幸せの意味について考えるなんて」
「『主人公くん』のモデルは俺で、友人の『親友くん』と『茜』は康平と穂乃果なんだけど分かった?」
「さすがに分かる。だって最初に歩いた河原沿いの堤防はここだし、パン屋だってそう。公園の滑り台が全然滑らないなんて知ってる限りあの場所しか思い浮かばないわ」
ああ、そうだ。
通学中なんか大変だったな。
「四ノ宮が俯いて歩くからその先頭を私が、後ろを康平が歩いてね」
学校帰りは恐ろしい罰ゲームをした。
「じゃんけんで負けたら皆にパンを奢るの。メロンクリームたっぷりの」
「メロンパンだよな、二百五十円の」
憶えてるんだ。何もかもを鮮明に。
「全然滑らない滑り台を無理矢理康平に滑らせたら制服に穴が開いたのよね」
世界は残酷だ。
「いつかまた三人で馬鹿なことしましょ。そのためにこの世界から抜け出すの」
ずきずきとひびが入って心なんか壊れてしまえばいいのに。
幸せの意味なんか知らなければよかった。
失ったら帰って来ない、そんなこと知らなければよかった。
「穂乃果、そのいつかは」
来ないんだ、絶対に。
期待するだけ無駄なんだ。
だってお前はもう――――
「早いうちに来るさ」
「約束ね、あと明日も小説を読ませて」
「うん、明日も明後日も」
「康平も納得する様な作品にするのよ!」
彼女の声がワントーン上がったように感じられたけれど、それは嘘だと思いたかった。
その日は色々な場所を巡ろうと思ったが、怖くなってやめた。事故に遭った交差点を通ったとき彼女がいなくなったらどうしようと不安になった。
今日は彼女を俺の部屋で泊めた。彼女がベッドで眠って、俺は壁にもたれかかって見張っていた。
けれど翌朝、うっかり眠ってしまった俺は慌ててベッドを見てみたが彼女の姿は無かった。毛布の重みに潰されてしまったのかのように、毛布はマットにぴったりと隙間なく、くっついていたのだった。
それから一週間、二週間と時間が経ち、彼女は現れてくれないまま夏を迎えた。
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