第5話
世に存在するナルシストたちにとって幸福な瞬間というのは、間違いなく自分に酔っているときだと思う。きっと彼らにとって一番初めの至福の時は朝の顔を洗う時だ。
鏡に映った自分の顔を見てにんまりと笑顔を浮かべるに違いない。
それでもって彼らは自分自身に酔っている姿を幸福のおすそ分けとばかりに他人へ見せたがる。ただまあ、その気持ちは分からないでもない。自分に酔うことが出来る人間はそれ相応の努力を積んできたはずで、それを認めて欲しいと願うことは当然なのだ。
幸せとは自分に酔うことなのかもしれない。
ちなみに、そういう迷論が誕生したのは今に始まったことではない。
火曜日の二時間目の授業になるといつもそう思う。
「ハローエブリワン!」
英語の教師が意味も無くハイテンションで言った。
どこからどう見ても生粋の日本人である彼女は多分、自分が努力して覚えた英語を皆に見せびらかしたいのだろう。だって絶対に挨拶まで英語にする必要はない。
なのに難しい英語を話す英語教師を俺は嫌っていたので、これから名前なんか二度と呼んでやらないと決めている。
「ハウアーユー?」
はいはい、英語できて偉いね。そう言われたいのだろう。
ならばきっと、世の中の英語教師は皆ナルシストだ。
「四ノ宮くん? 安田先生の顔を真剣に見つめてどうしたの? まさか恋?」
後半部分を敢えてひっそりと言った彼女は、それなりに茶化す意図があったのだろうけれど、無表情でネタをかましても寒いだけだった。
「はあ、いいか磯ヶ谷。幸せとは自分に酔うことだ」
「どういうこと?」
「あの英語教師の顔を見ろ、母国語以外の言葉を呪詛のように話しながら笑ってやがる。きっと、俺たちに見せびらかしたいんだ」
「呪詛は分からないけど、前回の復習だから英語が苦手なら聞いておいて損はないと思うよ? もしかして四ノ宮くんが言いたいことはそういうことじゃなかった?」
違う、そうじゃない。いや、英語が苦手なのはそうだけど。
全然違うんだよ、もう嫌になっちゃう。
「俺が言っているのは英語教師が楽しそうに笑っている理由だよ」
「うん? あ、安田先生が楽しそうなのはね、最近結婚したからなんじゃないかな?」
「ともこ先生……英語教師が結婚したのか?」
「二週間くらい前だったかなあ、だから幸せとは結婚することに変更しなきゃだね。それにしても四ノ宮くんが先生のことを名前で呼んでいたのは意外だったよ」
「聞き逃せよ、ヒロインなら」
「え? 私は小説の主人公だったんだ」
現実の人間は小説のように難聴じゃなかったらしいけれど、聞き手の磯ヶ谷が何を思ったのかは分からなかった。彼女は無我の境地みたいな顔をしていたから。
まあ、元から普通に美人で負の感情漂う顔なのだ。
それにしても今日だけで二つの幸せを見つけてしまった俺は運が良いのかもしれない。雨が降っているのに悲しいことが起こらないのは不思議な気分だ。
幸せとは結婚すること。一応、メモ書きを取っておいた。書き終えて顔を上げると俺の心臓は一瞬止まったのではないかと思った。
それは先生の――教室中の視線が一斉に俺と磯ヶ谷の方に集まっていたからだ。皆一様にこちらを見て沈黙している。何を考えているのだろうか、あるいは何も考えずに見ているのかもしれない。
分からないから沈黙は怖い。黙ったまま他人を見ているときの目が恐ろしい。胃がきりきりと痛む。
そのまま吐き気がして唾を無理矢理呑み込んで俯き、磯ヶ谷を横目で見た。
「四ノ宮くんと磯ヶ谷さん、仲が良いのは分かるけど授業中は静かに」
――磯ヶ谷は笑っていた、きっと怖くないんだと思った。
そして自分が勘違いしていたことに気付く。彼女は……普通の人なのだ。
細い糸のような雨を俺は睨んだ。
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