第4話

翌朝。

 普段よりも早いアラームの音で目が覚めて、手探りでスマホを見つけ騒々しい音を止めた。今回は完全に停止をタップした。

 スマホのアラーム機能には幸か不幸か、停止以外の選択肢が用意されている。スヌーズという悪魔的な魅力を放つ選択肢がある。

 きっとその機能を作り出した人間は、睡眠欲の恐ろしさを知らないに違いない。幸せとは惰眠を謳歌することだ、とさえ一瞬思いそうになる。

けれど、その十五分の延長に惑わされず停止を選ぶことが出来たのは予定があったからだ。予定なんてものは実行されなければ未定と大差ない、そんな考え方をいつかどこかの本で読んだことがある。

だから俺は偉いんだという自己肯定感を胸にペンと小説ノートを手に取って机に向かった。椅子に座って深呼吸。

カーテンの隙間から漏れる弱い光、ぱちぱちと微かに聞こえる雨の音。

寝て起きてそのままのベッドと毛布。

暫く使っていないエアコン、真っ白な壁紙。

埃を被っていない掃除したばかりの本棚、一つ一つが異なる本の背表紙。

薄暗い部屋の中は落ち着きある静寂を保っていて、そういう部屋で小説を書いていると、この黒鉛が少しずつ削られていく感覚が生きている証なのだと思う。

昔から自分が生きているか死んでいるか分からなくなったときは小説を書いていた。

二年前の話、中学校でいじめに遭っていた頃はよくそうしていた。いじめに遭うのは自分が人として出来損ないだから、そんなセンチメンタルな気持ちも小説を書いていると和らいだ。どれだけ自分が周囲と違っていても、それは皆より賢いからだと思えたのだ。もっと賢くなるためにたくさん本を読んで、小説を書いた。

それでも黒く染まった紙の束が厚さを増していくほど、俺は孤独になっていく。辛い思いをして、一人の世界に閉じこもって、辛い思いをして、一人の世界に閉じこもって。

生きていても幸せなのか、そう思っていたとき穂乃果が俺を救ってくれた。

彼女は俺の小説を面白いと、俺の世界を素敵だと言ってくれたんだ。

――温かい気持ちになって、微笑む。それからノートに句点を打った。

時間が経って小説を教科書と一緒にリュックの中にしまい、そこら辺に脱ぎすててあった学ランを着た。それから新聞を読む父親と洗い物をする母親に挨拶をして朝ご飯を食べた後、洗面所で冴えない自分の顔を洗って家を出た。

「行ってきます」

 こんな風にして過ぎ去っていくのが俺の朝。

 教室の誰とも違わない朝だけれど、今日は少しだけ家をはやく出た。理由は単純明快で寄り道するところがあったからだ。

 雨の中、青いカッパを着て自転車で家を離れた俺は穂乃果の家の前に止まった。

 昨日彼女の後姿を見て、その奇妙な光景に疑いを持ってしまった。だから、確かめなければならないと思った。インターホンを押す手前、小説ノートを握り締める。

 握りしめて祈った――どうか疑いを否定してくれますように。

俺は穂乃果の両親に頭を下げて学校へ向かった。

結論から言おう。

穂乃果は死んでいた。いや、寧ろ死んだままだったというべきである。昨日、生きていたという解釈をしていた俺と違い、世界はそのままだった。

自転車の錆び付いたチェーンが不快な音を鳴らしながら後輪を回し、俺を学校へと運ぶ。疑問の色は消えるどころか色を濃くして残ってしまった。

自転車を駐車して、それから灰色の空を睨んだ。

雨は嫌いだ……悲しいことが起こるから。

だからきっと、彼女がこの世界にいないことを俺は悲しんでいい。そう思っても涙が出てこないのは一年という時間が経ってしまったからかあるいは、心が空っぽなせい。

感情が沸き上がって来ない。

いじめられていた頃は毎日泣いていたのに。今はどうして涙があふれてこない。

昨日確かに言葉を交わした彼女が消えたのに。

俺は普段と何も変わらず学校へ来て、ぼんやりと一日を過ごすのか。

下駄箱に靴をしまいながら考えた。俺は感情を失ったんじゃないか、と。玄関を抜けて階段を上るまでの間に多くの人間とすれ違った。

湿った靴の足音、知らない誰かの会話、雨に濡れた廊下、階段の下から上までの距離。

俺は俯いて歩く。

周囲の時間だけが進んでいるようなそんな感覚を毎朝体験している。

この時間が苦手だ。いや、苦手とかそういうものじゃない。

何となく慣れたくない感覚なのだ。彼女が死んでからこの感覚に毎日遭うようになった。

決まって階段を上りきると思ってしまう。

それがこの感覚に慣れたくない理由でもあった。

――やっぱり、小説なんか書いたって無駄だ。

――幸せなんか考えたって分かりはしない。

 窓の外が視界に入って、それから視線がゆっくりと足元の先へと戻る。雨の日は特に床が濡れている可能性が高いし、何よりこの動作が教室へ入るルーティーンなのだ。

 ひっそりと教室に入り自分の席に着いた俺は、本の続きを読むことにした。

 数分が経ち若干濡れたカバンを引っ提げた磯ヶ谷が隣の席に座った。

「四ノ宮くん、結構雨降って来たよー」

 人が本を読んでいるというのに、磯ヶ谷は空気の読めない奴だな。

「そうだな……」

「最悪だよね、私雨嫌い。四ノ宮くんも雨嫌いなんだっけ?」

 彼女の物言いに俺は凝視で返した。彼女もきっと反応の意図を察したのだろう。

「雨が降ると悲しいことが起こるから……だったよね? あ、えっと……」

 そして目を丸くすることとなった。

「実はあのノート。四ノ宮くん、見られたくなかったみたいだから昨日は黙ってたけど」

 黙り込んで彼女の言葉の続きを想像する。

 その間に身構えようとしていたが、先に彼女が言ってしまった。

「全部読んじゃってました」

 少しだけ体温が上がって、言葉を反芻してまた鼓動が速まって、彼女の表情を見て心の中で感情が沸き上がって来る。

 この感情の名は。

「だから本当は許してもらう必要あったんだけど、何か四ノ宮くんの反応が面白くて」

やめろ。

「あ、でも雨が嫌いな理由は特に印象深くてね。普通はじめじめしてるからとか、洗濯物が乾かないって理由が多いと思うんだけど」

 やめてくれ、磯ヶ谷。

「小説作家は素敵なこと考えて生きてるんだね、すごいね」

「そんな死んだ魚の目で褒められても困るんだが」

「え、あ、うん? そんな顔してたかな、私」

 この感情の名は、多分ない。あってたまるか。

 自分の顔を両手の平でぺたぺたと触りながら首を傾げる磯ヶ谷に、溜息してみせた。

「私、かなり興奮気味に話してたんだけどなあ」

「知るか。まあ、悪気がないなら許してやるよ」

「寧ろ女の子に死んだ魚の目って言えた四ノ宮くんの方が謝って欲しいけど、うん、許してくれてありがとう」

「その割には申し訳なさそうな顔するな」

「してないよ?」

「そんなに言うならほれっ、見てみろよ」

 負の感情で満ち溢れた表情の彼女に電源を落としたスマホを手渡してやった。

「そうかなー、いつも通りだけど。あ、ちょっと寝癖残ってたかも」

 機能してやれよ、表情筋。

 そう神にお祈りしてスマホを受け取った。

 彼女は暫く俺との会話を中断し、リュックの中から教科書などを取り出していた。すると突然「あーそういえば」とやる気のない声を上げてこちらを見た。

「小説の続き読ませて欲しいんだけど、もう書けた?」

 言動と表情の一致しない彼女は、もうそういう顔なのだと思うことにした。まだだ、と嘘を言ってやった。

「えー幸せとは何か考えて来たのに」

「……言ってみて」

「明日の楽しみがあること、だから続き書けたら読ませてね」

 彼女はとても単純な答えを言ったが、存外そうなのかもしれないとも思う。

 一年前は毎日がそうだったから。

 幸せとは、明日の楽しみがあること。忘れないうちにメモを取って、俺は遅れてその言葉の意味を理解した。

「俺の小説が楽しみだったってこと?」

「そうだけど……そんな驚くことだった?」

 なんだよ、それ。

「いや、なんつーか」

 どうしてこんなに心が温かくなるのだろう。俺はこの気持ちを奥歯と一緒に噛みしめた。

「その、さっきのは嘘なんだ」

「さっきの?」

 けれど、温かい気持ちの裏で囁くのは過去のトラウマ。

 周囲とは違う考えや価値観を持っていたとして、彼女は俺のことを嫌ったりしないだろうか。自分の本心を打ち明けても受け入れてくれるのだろうか。

 不安だ、心をゆっくりと黒い感情が覆っていくのを感じる。

――その感情は言葉を明かそうとするのを邪魔した、だけど。

 昨夜、穂乃果が現れた理由を何となく考える。都合が良いかもしれないけれど、今日のためだったのだとしたら。

 だとしたら穂乃果、少しだけ勇気を分けてくれ。

 一言発するだけ、目を見て話すだけ。

 独りぼっちだった俺を穂乃果や康平が助けてくれたみたいに、勇気を出して心の輪の中に入れてあげるだけ。

 息を吸って……吐いた。

「小説、書いてないってやつ」

 俺は磯ヶ谷に読んで欲しいと思った。彼女がいいなら明日も、明後日も。

「私、酷い事言われた上に嘘つかれてたんだ……」

 彼女は相変わらず虚ろな目をしていたけれど、その後許してくれた。

 まだ確信をもっては言えない、だけど。

 幸せとは、明日の楽しみがあることなのかもしれない。

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