第3話

――死んでしまった人間に会うことができるとしたら、きっと相手は幽霊だ。

 けれど、そんな奇怪なことが起こるはずもない。

 幽霊に会えるなんて思わなかったし、実際に会っていたとしてどうやって見分けるのだろう。半透明だったり、髪が地面に垂れるほど長かったりするのだろうか。

第一に幽霊だと分かったところで俺はどう反応するのが正解なんだ。

 驚いて喚き散らすのか。

 冷静に対応し、撃退するのか。

 いずれにせよ敵対者という思考に走ってしまう。

 だから幽霊には会いたくないなと本能的に判断して、実際に遭ってしまったときのことなど考えていなかった。

 ましてや、死んだ人間から電話が掛かってくることなど、もっと想像していなかった。

 幸せとはという一年振りの議題が、突如クラスメイトによって息を吹き返した日の夜、午後九時。久しぶりに空が晴れ渡っていたので部屋の窓を開けて夜風を取り込みながら本を読んでいた。

 枕元に置いていたスマホが振動し、どうせ康平が電話でも掛けてきたのだろうと画面も見ずに応答したのだった。

――きっと、この不注意が全ての始まりだった。

「やほ、四ノ宮」

 応答する前に着信相手を確認しておけば、まだ丑三つ時じゃねえだろとかそんな軽口の一つでも叩けたのだろうけれど、そうしなかった俺は言葉を失った。

 喚き散らしもしなかったし、冷静でもいられない。

 人は本当に驚いたとき言葉を失うのだと身をもって知った。それから暫くの間、深く息を吸って吐いてを繰り返し、ようやく声を絞り出した。

「な、にしてんの?」

「幽霊みたいなカスカスの声出すなっ……私も分かんない、目が覚めたら通学路の堤防を歩いてたっていうか、立ってて」

 う、嘘だろ。

 はきはきと話すその声は紛れもなく死んだ彼女のものだった。

 それが驚きのあまり、俺は半分彼女の話を聞いてなかった。だから同じことを聞いてしまったようだ。

「今どこにいるんだよ?」

「だから堤防って言ってんじゃん。何でそんなに焦ってるの?」

「今すぐ行くからそこで待ってろ!」

「はあ、分かった。出来るだけはやくして、何か怖いから」

 俺は読んでいた本に栞を挟むことなく家を出た。

 意外だったことは両親にちゃんとコンビニへ行くと嘘をつけたことだ。冷静じゃないように見えて案外、思考能力は低下していなかったのかもしれない。

 それから夜道を走っている途中、どうして彼女が生き返ったのか考えてみた。実は生きていたというエスエフ小説チックなことも考察として上がったけれど、それは刹那の間に自分自身の記憶が否定した。

――彼女は一年前、俺と康平の目の前でトラックに轢かれて死んだから。

 その瞬間と頭から止めどなく流れていた血液が強烈な思い出として今もある。

 その日は大雨で、彼女は即死だった。

 結局出した仮説はいつかテレビドラマで見たことがある、ありふれた仮説だった。

 死んだことに気が付いていない。

 というより、何かしらの理屈や理由を当て嵌めなければ俺は自分自身を保てなかったのだと思う。だから生きていること以外なら、仮説などこの際何でも良かったのかもしれない。

 お陰で彼女がこの世界にいるという事実を受け入れられた。

 暗い景色の中にいても分かる血色の良い肌と明るい茶髪のセミロング、口元に佇む笑み。

 彼女は親友の穂乃果ほのかで間違いなかった。

 堤防の上に立っていて、足元は指先まで透けてなんかいなかったし、何より生前の制服姿だ。去年まで通っていた中学校の制服だったけれど。

「遅いおそーい! 最後まで走れぇー!」

「おえー! 死ぬう!」

 そんな間抜けな言葉を吐き散らして俺は、彼女の前で両膝をついた。這いつくばりながら彼女の両足を掴む。

 残念ながら悲鳴を上げた彼女に蹴られてしまったけれど、ちゃんと触ることが出来た。

 その白い肢体には体温があった。

 感触が、ぬくもりがある。懐かしい気持ちやら、安心したのやら、思考が追いつかなかったけれど、俺は立ち上がって彼女を抱きしめていた。

 彼女の髪は柔らかく、そして優しい匂いがして、心の中に過去を蘇らせる。

 大丈夫、今でも忘れていない。共に過ごした青い日々を憶えている。

温かくて、優しくて、希望に満ちていて、ふとした瞬間に揺らいで消えてしまう春。

その春の名は青春だ。

 俺と、康平と、一緒に青春を過ごしていた彼女がここにいた。

「ああ、ああ、生きてた」

「四ノ宮? 一体どうしたっての?」

「どうもしてない、どうもしてないんだ……ただ、嬉しくて」

「はあ? 何が?」

「穂乃果の制服姿をもう一度見れたことが」

「あー、死んだ方が良いんじゃない? この変態!」

 そして俺たちは感動の再会もそこそこに堤防の原っぱへ腰を下ろし、最初にあの事故から一年が経っていることや、康平と自分が同じ高校に通っていることを話した。

 しかし、彼女はあの事故のことを何も憶えていなかったのである。

 これにはさすがの俺も唖然とした。その後も、憶えていない話を説明したのだけれど彼女がその間ずっと不思議な顔をしていた。

 理解できない話がどうでも良くなったのか、彼女は別の話題を切り出してきた。

「新しい小説書いてる?」

 書いていないと言おうとしたけれど、言葉を反芻してから俺は口をつぐんだ。

 それは奇妙なことが起きたからであり、しかし、別段彼女の頭部から血が噴き出てドロドロに溶けたとかそういう猟奇的なことではない。

 本当に小さな奇妙。

「俺、穂乃果に話したっけ?」

「ここに来て記憶喪失だったのは四ノ宮ね、私は確かに記憶してるから」

――新作は幸せをテーマにするって話してくれたよ。

「早く続き読ませてよね、四ノ宮の小説は意外にも私を楽しませているって知ってた?」

 嘘をついている様子はない。彼女が嘘をつくときは、眉毛がぴくぴく動くのだ。

 多分、嘘つくのを直前で迷って表情が歪むのだろう。

 だから人狼ゲームだと最弱なんだよな、こいつ。

「意外は余計だ……まあ、続きはそのうち書いてやるよ」

 言って、満更でもない俺がいた。

 幸せのテーマについても、彼女が憶えているというのだから話したのかもしれない。

「やった!」

 屈託のない笑みを彼女は浮かべた。こんな笑顔を一年前も見ていたな、と思い出す。そして俺は康平にもこの笑顔を見せてやろうと決めた。

「康平にはいつ会いに行くんだ?」

「んー、今日はもう遅いし明日になるわね」

 まるで考える人のように顎に手を当てて彼女は言った。考える人が実は見下す人なのだと言うことを知らない彼女はそれを格好が良いと思っているのだ。

 けれど、思いの外様になっていたので教えないでおいた。それにしても彼女は一体何について考えていて、そんな難しい顔をしているのだろう。

「そうだ、四ノ宮! 明日康平に会いに行くから、放課後私の家まで迎えに来て」

「分かった、穂乃果の家に行く。というか、もうこんな時間だし帰るか」

「それもそうね、今日は帰ろっか。ねえ、四ノ宮?」

「なんだ?」

「絶対小説書いてきて、楽しみにしてる」

 俺は小さく頷いてそれから彼女に聞いた。

「穂乃果の幸せとは?」

「うーん、まだ分からないけど康平や四ノ宮といるときは少なくとも幸せ」

 その会話を最後に、彼女はくるりと背を向けて歩いていった。

 確実に彼女が遠く離れていくのを見守って、そのとき俺は奇妙なことに気がついた。

 この奇妙なことというのは先ほどよりもずっと、大きな奇妙だ。

 思えば初めからその奇妙なことは起きていて、他のことに気を取られていて気づかなかったのだ。彼女の肢体、その片足だけが白い肌を指先まで露わにしている。

――彼女は片足だけ靴を履いていなかった。

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