第2話

――磯ヶ谷夏空海いそがやからみ。

 ショートボブの黒い髪に整った目鼻立ちと白い肌、そんな隣の席の女子生徒。

名前を聞く限りでは夏をこよなく愛していて、磯の香りがしそうな活発な人柄を想像してしまうのは僕だけなのだろうか。彼女が小説の登場人物であったのなら、きっと僕の何の根拠もない想像は的中していただろう。だが全然そんなことはないし、寧ろ彼女は家に篭って本を読むことに貴重な休日を割くインドアな人物だったらしい。

「四ノ宮くんはたくさん本を読むんだね、実は私もそう」

 高校一年生の六月中旬、隣の席の彼女が退屈そうな顔で突然話しかけてきた。

 突然というより突如と言うべきだろうか。なぜなら入学以来一度も話しかけてくることなどなかった彼女が、まるで友達のような話題を振ってきたからである。

 ふうむ、どうしたものか。

 ここから会話を発展させられる人物は「どんな本を読むの?」と実に自然な感じでフレンドリーなことを言ってのけるかもしれない。けれど、俺が思うところそれほどの対人スキルがある人間は教室の隅で本を読んだりしないだろう。

 俺は読んでいた本をぱたりと閉じて、今日初めて教室で声を発した。

「そっか、磯ヶ谷も本読むんだな」

「うん」

 ああ、会話が終わってしまった。悟ってから熱くなった耳たぶに軽く手を触れさせ、内心で別のことを考える。

 磯ヶ谷はどうして俺に話しかけようなんて思ったんだ?

 会話のキャッチボールを諦めて考えたが、何一つ思い当たる理由は浮かばなかった。

 体温が上がっていくふわふわとした感覚を伴いつつ、俺は彼女の顔をじっと見つめる。すると見られるのが嫌だったのか、俺の名推理を聞く前に彼女の方から用件を話してくれた。

「あのね、これ拾ったんだけど四ノ宮くんのだよね?」

 言って彼女が差し出したのは一冊のノートだった。

そして、そのノートは確かに俺の物だ。

誰にも知られたくない秘密を握られた気分になり、自分の表情が変に歪んでいくのが分かった。

それは普段肌身離さず持ち歩いていた小説ノート。

「あ、ありがとな」

しかし、その表情をすぐに消して慣れない笑顔を作ったのは彼女が親切心で届けてくれたからだ。そもそも悪いのは、小説を書きもしないのに普段どこにでも持ち歩いている俺の方だろう。

だが、彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。

申し訳なさそうな顔をしていたと思いたいだけで単にこちらの反応が気に食わなかったのかもしれない。

そりゃそうだ、親切に拾ってやったのに訝しむような表情をされたんだから。

「ごめん、中身少しだけ見ちゃった」

――え?

「み、見たってどこを!?」

「四ノ宮くん!?」

「磯ヶ谷、返答次第ではお前を許さないっ!」

「えぇ!? え、えーっと幸せとはかな」

 しまった、絶賛コミュ障を炸裂させてしまった。

 彼女が困惑しているのは表情を見て明らかだった。

 そりゃそうだ、善良な行いをしてなぜか陰キャ男子にキレられたんだから。

 内心で彼女を哀れみ、原因の大元が自分だったのを思い出して咳払いをした。世の中には酷い奴もいるもんだな、そういう同情も込めた上での行動である。

 落ち着きを取り戻してから言った。

「許す、続けてくれ」

「え、あ、うん。あーでも、許すっていうのは違うかな?」

「なんでだよ、人の物勝手に見ちゃいけないだろ」

「それはそうだけど、ノートに名前書いてなくてね。名前が書いてあるかもしれないと思って中を見た。すぐに見つかったから良かったけど、わざわざ探したんだけどなあ」

「…………」

 俺はこれ以上追求せず、静かにノートをリュックの中にしまった。黙ったまま俯いたのは決して話を続けるよう促したからじゃない。

 反省していたからであって、決して、決してそんなことはない。

 だからそんな顔をしないでくれ。

 磯ヶ谷は眉をひそませて首を傾げていた。その表情が俺の罪悪感を刺激していたことは秘密にしておく。彼女はまあいいや、という風に話を始めた。

「ところで四ノ宮くん」

「何だ? 磯ヶ谷」

「幸せとは?」

 少しだけ考えて何かそれっぽいことを言おうとしたけれど、彼女は聞いておきながら興味のなさそうな顔をしていたのでやめた。

「ごめん、俺には分からない」

 一瞬考えたからか、心の中に少しもやもやとしたものが生まれてしまった。けれど、今更答えを探すつもりも小説の続きを書くつもりもなかった。

 幸せとは何か、そんな漠然としたものを探究していた自分が不思議にさえ思えた。

 黙り込んでしまった俺と、この世の終わりみたいな虚ろな瞳で瞬きをしていた磯ヶ谷。

 まあ、この世の終わりは過剰表現だけど。

 俺は彼女に言った。

――もう、本を読むことにする。

 彼女が名残惜しそうな顔をしたのは意外だったけれど、これ以上は心に良くないものが溜まってしまうような気がした。

 申し訳ないけれど、お別れだ。

「うん、分かったら教えて」

「ああ」

 そんな日は来ないことを彼女は知ってか知らず、体の向きを正面に戻した。俺もそれに倣って視線を本の小さな文字に向ける。不幸なことにその文章には「幸せとは自分で選ぶものだ」とそれらしくも、冷静に考えると曖昧な答えが記されていたのだった。

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