第11話 担当教授の失踪
分子生物学の教授から出された課題の提出期限は、まだまだ先だった。でも『脅威となるウイルスについてグループワークで調べ発表しなさい』という少し漠然とした内容から逸脱し始めているような気がして、私達は教授に質問に行くことに決めた。
その…。グループワークの課題として、調べるだけなら簡単すぎるって思ったんだ。
『脅威となるウイルス』ってさ、調べるだけで済むじゃない?
別にグループワークじゃなくてもできるし、ぶっちゃけ調べものだけなら、高校生にだってできる課題だし…
でもって、その先を求められているのなら、もうちょっとヒントが欲しいんだよね。
こんな風に考えるようになったのは、これ以外の講義課題の難易度が高いせいかもしれない…。
他の教授の課題は、探しもの課題だと3週間くらいの期間なのに、レポート用紙50枚以上とか、試験問題をクリアするためには本1冊丸ごと覚えて来ないと解けないとか…。
この大学の試験クリアレベルが高すぎじゃないかって学生間では、ちょっと文句も出始めている。
ま、卒業後は一流企業への就職が出来るってことも、この大学の売りだから学生の内に知識を詰め込ませておきたいのだろうけどね。
今回の課題の内容が簡単すぎるって心配しているのは、特に井上瑛太君だ。
瑛太君の家は、兄弟が多く本人曰く『大学への進学は諦めていた』らしい。
この大学は入学試験の成績から各学部の上位5名に特待(特別待遇)を与え、学費のみならず寮費を含めた生活費への援助も行っている。
もちろん、入学後の成績が落ちれば即刻特待生の特権はなくなるというシビアな条件付きだけど…。
この特待生で見事合格できた瑛太君は、入学後の成績を何とか維持しないと大学に通うことさえ出来なくなるらしい。
今どき、高卒での就職に夢はない。それに、研究職を希望する瑛太君には、この大学を良い成績で卒業して、給与が高い外資系か医療研究職に就くことは家計を支えることにも繋がるっていう一石二鳥とも言えるし、後に引けないとも言える事情がある。
だから、教授の考えを少しでもいいから聞き出して、よい成績を出したいんだと思うんだ。
教授の部屋の扉の前には何度か足を運んだ。
いつ訪問しても、外出中という札が掛けてあった。
業を煮やした私達は、大学事務の窓口に行き、教授との面談希望をお願いすることとした。
◇◇◇
この大学の事務室は、比較的広い。
大きな窓が特徴で、PCの扱いに困らない位の光を全体に取り込み、明るい空間を確保している。
職員数は多く、各デスクの間には薄いベージュのパーティションが設置してあるが、デスク自体がかなりの大きさなのか窮屈な雰囲気はない。
至る所に人工物ではない本物の観葉植物が置かれ、どの植物も栄養状態もよく美しい色で光り輝いている。
きっと誰かが定期的に葉を磨いているのだろう。
植物が多いせいか、空気も清浄な香りを保ち、働く人達がリラックスしているのが分かる。
いい職場だな…。
呼び鈴を押すと、笑顔が人好きのする若い女性が応対に来てくれた。
「どういったご用件でしょうか?」
「あの、分子生物学の教授の山代先生との面談を予約したいのですが…。私達、山代教授の講義を取っているんですが、課題について質問をさせて頂きたくて…。
教授のお部屋にも直接伺ったのですが、いつも不在のようで…。
出来れば、事務を通して面談の希望をお願いしたいのですが…。」
「分子生物学の山代教授との面会希望ですね。
少々お待ちください」
笑顔で応対してくれた若い女性事務員は、そう告げると事務所の奥に行ってしまった。
あー。少々ってどれくらいなんだろう。
こんな文句が出るくらいの時間、そう30分は悠に待たされて帰って来た回答はこれだ。
回答してくれたのは、笑顔が怖い中年の女性だった。
目が笑ってないんだよ。美人だったけどね。
「実は、山代教授は体調を崩され、現在休職中となっております。
学生の皆様へのご連絡が遅くなり、大変申し訳ございません。
現在講義を選択されている学生への対応は、後日直接ご本人へ通知を行いますので少々お待ちください。
講義に関する単位取得に関する説明も、後日ご連絡する書簡の中に組み入れる予定です。
本日は、長いお時間を頂き、大変申し訳ございませんでした。」
なんと、文句を口に出せない完璧な言い回し…。
やはり、事務職のプロだなって感じがした。
「山代教授、体調不良って大丈夫かな…。
講義は面白かったし、グループでの話し合いも結構面白かったから、ちょっと残念だな。
せっかくグループワークの課題でいい点を取ろうと頑張ってたのにさ…。」
私達は、愚痴めいたことを言い合いながら事務室に背を向けて歩き出した。
すれ違うようにして入って来た中年の女性…。
気になったのは、学生ではない人が早足でわき目もふらず、事務室のカウンターで名ざしで事務員を呼び出していたからだ。
「副事務長の西条さんをお願いします。私、ここで働く山代の家内です…。」
若い女性事務員のすぐあとに、先程の中年の女性が対応していた。
あの人、副事務長だったんだ…。
「まあ…。山代教授の奥様…。こちらへ。」
少し強引に今にも泣きだしそうに話す女性の腕を取り、奥へと歩き出した。
私は心の中で、その近くにいた植物に声を掛けた。
『お願い!二人の会話を聞かせて!』
事務室のある棟から少しずつ歩きながら離れていく中で、意識を植物から送られる会話に集中させた。グループの会話には適当に相槌を打ちながら…。
「奥様、落ち着いてください。」
「でも…。山代と全く連絡が取れないんです。
彼がこんな風に連絡もせず、帰宅しないなんて…。
出掛けるときも何も言わなくて…。今までなかったんです。
もう3週間です。
最後の言葉は、俺が戻らなかったら、事務室の西条さんを頼れ…と。
何があったんですか?
彼は…、山代は無事なんですか?」
「奥様…。急なことで大変ご心配でしょう?
まずはお飲み物でも…。」
「ありがとうございます。ゴクゴクゴク…。
西条さんは、何か心当たりがございま・・・……。」
ゴトン…。床に何かが落ちる音がした。
「即効性のある薬とは聞いていたけど…。
よく眠っているわ。後で運び込んでおいてね。
山代教授は愛妻家だから、きっと奥様もすぐに来ると思っていたわ…。」
えー?山代教授は、体調不良で休んでいるんじゃないの?
何がどうなってんだ…。
私は今聞いた会話を誰に話すべきか、いや話さない方がいいのか考えようとした。
全身が震えてくる…。考えがまとまらない。
これは山代教授の失踪事件だからだ。
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