喫茶店と、漫画家先生②

 

 状況を客観的に見て、少なくとも客と店員の関係に見えないということに気づいた。そして言い訳を考えたけれど、うまく言葉が出てこなかった。二人してできることといえば冷や汗を垂らしてキュッと縮まる心臓の鼓動を聞くだけだった。もうどうにもならないと脳が理解して、考えるのをやめた。


 返事を待つ気があるのかないのか、彼女はただひたすら美しい笑顔を浮かべている。怒気を孕んでいる、そういうわけではないのだけれど。ただただ笑顔を向けられるというのはこれほどの圧力になるのだと初めて知った。


「先程からこそこそと話し声が聞こえて、なんだったんだろうと思ってましたけど、カウンターの中で二人してこそこそと」


 透き通った声が、いつも通り客がいなくて静かな店に響く。


「家族というのならわかりますけど、そういうわけでもなさそうですし」


 蛇に睨まれた蛙、そう呼称するのにふさわしい状況だと思う。


 けれどよくよく思えばこうして私が浮気現場を見つかって、昼ドラのように修羅場に陥る理由などないのではないだろうか。正直に言おう、そう思った。きっとそれは美徳なのだから、正直に伝えればきっと彼女もわかってくれるはずだと。


「この人はその、たまにふらっときて人にコスプレさせて、寝る関係なんだよ」


「寝る。関係」


 そう、そうだ、寝る関係......若干ニュアンスがおかしくないか?いやまあ寝る場所を提供しているのは私だし、間違ってはいないと思う。何より毎回ギリギリ着てもいいかなと思えるコスプレ衣装を選んで持ってくる労力を別に生かしてほしい。何故かリッタさんの口角がさらに上がった。


「今日だって息荒くしたこの人が店に突然押しかけてきたんだよ。サービスなんてしてないっていうのに今度ミニスカートとタイツ持ってくるから着てとか言ってきて」


「そうそう、私も鏡花ちゃんの可愛い体で遊びに来てるだけなんだよ!」


 やっと弁明を始めるリッタさん、何故か口角が上がるに上がって笑みを浮かべている。

 人を着せ替え人形にして遊ぶのはやめてほしい、スカートとかタイツとか着たことないからわからないし、料理とかもするから、動いやすい服装がいいのだ。


 怒りを抑えようとしているのか大島さんは震え始める、一体どうしたというのだろうか。するとここは任せておいてくれとリッタさんが耳打ちしてきて。彼女はカウンターをそっと出て言葉が出ないのか、なんというか、そもそもなんで怒っているのだろうか大島さんは。

 店員と客の異常な距離感に違和感を感じ、怒っているのなら今どういう関係かは説明したのだけれど。


 ドヤ顔を浮かべたリッタさんはそっと大島さんの耳に顔を近づけて。


「知ってた?鏡花ちゃんってね、太ももに黒子があるんだよ」


 バンっとカウンターが勢いよく叩かれた。大島さんだ。彼女はあわあわと言葉が出てこないというふうに口を震わせて、それでこっちを指さしてきて。


「はっ」


「は?」


「はっ破廉恥です!!これお代です、失礼します!!」


 ダンっと勢いよく財布から取り出した硬貨を叩き付けて参考書と教科書を握りしめ、彼女は店を飛び出した、飛び出そうとした。この店のドアは内開きである、何が言いたいかといえば勢いよく扉を押し開いて踏み出せば必然とドアに激突するのである。


 もう一度言うが、何が言いたいかといえば、教科書と参考書が床に落ちて、コロコロと消しゴムが転がった。勢いよくぶつけたのか、鼻から鼻血を出しながら大島さんは尻餅をついたのだった。


 慌ててカウンター席から布巾を引っこ抜いて鼻を押さえる彼女の元に駆け寄る。


「だっ大丈夫!?ほらこれ布巾、そんなに慌ててどうしたの!?」


「うぅ.......」


 涙目、この二文字が的確だ。

 涙をこぼしそうでこぼさない、そんな様子で布巾を受け取り鼻を押さえた。何故か、あちゃーっと言ってため息を吐いて、リッタさんは床に座り込んでしまった大島さんと視線を合わせた。


「実はさっき言ったこと全部本当だが、あれはほとんど私のセクハラだ。君が想像するような関係ではないよ」


「?」


 いきなり何を言い出すのだろう、さっきからあらぬ誤解を解くために、そういう説明を......いや待てよ。


「本当ですか......?」


「ああ、服装に無頓着な彼女を着せ替え人形にしてるだけさ、無論太ももに黒子があるっていうのも雑談してる時に聞いただけで見たわけじゃないよ。ちなみに私には左胸の上に黒子がある」


「うぅ......よかった、最後の情報はいらなかったけどよかった......」


 心底安堵した表情で大島さんは笑顔を浮かべてポロッと、涙をこぼした。


「もしかしてリッタ先生さっきわざと誤解されるようにいました?いや言いましたよね?」


「はて、なんのことかな?」


 白々しいにも程がある。飄々とした態度で彼女は大島さんに手を差し出して立たせた。それからさてと、と呟いて荷物を乱暴にポケットに入れると彼女は諭吉を置いて。


「可愛い女子成分を摂取できたし私はもう帰るよ、お釣りはいらないからそれで彼女に適当なものを作ってあげてほしい。じゃあね」


 そういうと、いつの間にか店の前に怒髪衝天、そんな形相で仁王立ちする編集さんの元へと行ってしまった。やはり締め切りが迫っているらしいのか、彼女はバイクの後ろに乗せられて一瞬でどこかへと消えてしまった。



 嵐がさった後のように、店内は静かになった。ひとまず彼女が落としてしまった文房具や教科書を拾い上げて、彼女が座っていた場所へと置いた。鼻血を抑えながら顔を赤くした彼女はただひたすら沈黙を守る。どうしようこの空気。どちらもなんともいえずに黙りこくって時間だけが過ぎていく。


 何か解決策はないか、ほらこういう時になんとかできる画期的なアイテムで、問題を一瞬でさよならバイバイしてくれそうなものは......あ。


「......そっそういえばチーズケーキあるんだけど食べる!?」


 無駄に声が上擦った、思春期の男子か私は、いや思春期の男子だった、どうしよう。彼女は小さくため息を吐いてから、何故か笑い始めて。


「じゃっじゃあそれでお願いします、今日はあるんですね。ふふ......いえすみません、ビクビクしてる店員さんが珍しくて」


「あまり揶揄わないで欲しいんだけど......今日はいつもくるし、たまには焼いておこうと思ってね」


「楽しみです、それと紅茶は......」


「あっ」


 沸騰した水が、小鍋から溢れ出してジュワジュワと火に当たり音を奏でていた。



 ーー




 次の週のことだった、朝一番で来たリッタさんは笑って待ち構えていた。そして何故かサイズぴったりの、新品の藍色の膝ぐらいまでの長さのスカートとタイツを持ってきた、六時だ、店を開けている途中だった。

 パチリと、目を開いて、閉じて、ゆっくりと意識が覚醒していく。朝は眠いのだ、慣れたとしてもやはり眠い、眠いのだから眠い。あくびをこぼしながらもなんとか脳みその片隅に置かれた質問を引っ張り出して、口から落とす。


「......なんですかねこれは?」


「服だよ当たり前じゃないか、前回持ってきたシャツとエプロン、それと似合うやつをわざわざ選んだんだ、褒めてくれてもいい。もちろん金を取る気はない、着てくれるだけでいいんだ」


「いや流石にスカートとかは......」


 男なのだから、あまりスカートは......若干ハードルが高いというかなんというか。いやドイツにいる爺さんがスカートを履いてるのをみたことがあるので、そこまでどうとは思わないんだが。

 今の私の、髪の毛を伸ばしたりとか、女性もののシャツとズボンを着ているのは元から男のものでサイズがみつからないから着ているだけだし。


 リッタ先生は何故かとても誇らしげに笑って、ぽん、と肩に手を置いてくる。


「大丈夫だ、絶対似合う、なんせ君はエロいから」


「最低な発言ありがとうございます」


 朝から何言ってるんだこのろくでなし。呆れた視線に気づいたというか、いつも通りと思ったのかにこりと笑って。


「冗談だ、たまには直球で女の子っぽい格好もしてみたらいいだろう。とりあえずこの二つはあげるから一度でいいから着てみて欲しい」


 タイツが入った箱が二つ、そして何故か無駄に豪奢なブランド名が描かれたタグがついたスカート。値段など想像したくもない、この人は何故か着るかもわからないのにものすごく本当に服の値段?と聞きたくなるようなものを買ってくるのだ。私は私で、これだけ高いものならばと今までにシャツとか、ワンピース、エプロンからジーンズ、それに髪留めのリボンとか......いや待て今クローゼットにあるの全部この人が持ってきた服じゃないか?


 今更気がついて、冷や汗がそっと頬を撫でて落ちるのを感じた。この人の買ってくるものは全部高く質がいいもので、着やすい、結果的に今まで使い古していたシャツとかは服系のものは割と捨ててしまっている。最終的に残るのは質の良いこの人が持ってきたものなわけで......。


「スカートと、タイツ、前回のシャツとエプロン。楽しみにしてるからね、それと今度は高校の制服を持ってこようと思うんだがどう思う?漫画の資料にここの近くの高校の制服があるんだ、女物のやつ。編集さんの娘が是非にって譲ってくれた、私のファンらしくてね」


「......」


 思考が止まって、自分の制服のことをふと思い出した、捨てたんだっけかあれ、破かれたり絵の具かけられたりして汚れて、見るたびに嫌のこと思い出したから。いやまあ特に悩むことでもない、いつものように軽口でも返そうと口を開くが言葉が出てこない。思春期というのは難しいものだ。


 けれど眠たげに閉じられた目がいつも向けられるジト目と勘違いしたのか彼女は笑って続ける。これはきっと次来た時に持ってくるパターンだな、詳しいんだ。


「後これ新刊、それと今年のマンガ日本大賞受賞した作品読み終わったやつあげる。それと私は駅前に行くから、編集さんがきたら大通りに行ったと伝えて欲しい」


 漫画が詰まった紙袋にスカートとタイツ。朝一番で店の営業の看板を裏返そうと出たらこれだ。どうしたものかと考えているうちに、前もって呼んでいたのか、タクシーに乗って嵐のように彼女は去っていってしまった。


 ここからだと距離があるだろうに、実際問題三十分以上かかるのではないだろうか。そんなこんな考えているうちにバイクの音が聞こえて、編集さんがこちらにくるのが見えた。長い黒髪が綺麗な女性で、バイクヘルメットに肌にピッタリとあうスーツがスパイのようで格好良かった。


 彼女はバイクを目の前で止めるとヘルメットのウインドガードを外して想定していた質問をくれる。


「いつもすみません、リッタ先生が来ませんでしたか?」


「駅前に行くから大通りに行くと伝えて欲しいって言ってましたよ。多分駅前にいますよ、今女子高生の通学時間ですし。あの学校スカート短いから」


「ありがとうございます、ではまた」


「今度は店にいらしてくださいねー」


 万年赤字を解決するため適当に誘ってみたのだが、彼女は手で丸を作って颯爽と駅前へと行ってしまった。


「よし、働くかぁ......」


 大量の漫画が入った紙袋と、やけに質感の良いスカートとタイツを持って店のドアを開いて、店の看板をopenに裏返した。

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