喫茶店と漫画家先生
静かさ、それが喫茶店の醍醐味として十分言えるだろう。
誰も彼もが静かに、まるで家でのんびりとくつろぐかのような時間を過ごせる。
家とは少し違って、それでいて近いもの、旅行先のホテルでくつろぐようなものだ。
だからこそうちの喫茶店カラーでは音楽をあまり流していない、正直なところ若者や社会人の方々がどういうものが好きなのかがわからないので無視をしている。
最近はパプリカとか、何か野菜の曲が流行っているようなのだが、若者というのはよくわからない。
なぜに野菜に走るのだろうか、なんせパプリカ、あまり好きじゃない。
次はコーンとかでも流行るのだろうか、まあ興味がない上にあまり若者の趣味にはついていけないのでどうでもいいのだが。
話はそれたがこの店では静けさというのを大事にしている、なので今客が一人として入っていなくて静かなのもこの店の美徳なのだ。
決して悲しくなどない、ああ、悲しさなどかけらもないのだ。
悲しい心を癒すために冷蔵庫の中に鎮座するケーキの姿を見る。この店の商品として書かれちゃいるが頼む人もいなければ、作る気もない一品だった。その名もチーズケーキ、割と喫茶店ではメジャーなメニューなのだがうちの店は飲み物系しか頼む人がいないので作っていなかった。
けれどここ最近毎日のようにとある少女が店に来る。大島さんというのだけれど、数日前初めて会った時にチーズケーキはないのかと聞かれたことを思い出したのだ。甘い香りが冷蔵庫の中から溢れ出してくるのを感じて、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。我ながらいい出来だ。
チーズケーキを確認しても暇は暇だった、こういう時にするべきことはなんだろうか、と考えれば最初に出てくるのはグラス拭きだ。
戸棚から取り出したグラスを一列に並べ、一つ一つしっかりと磨いていく。
透き通った美しい形のグラスがさらに輝きを増すのは見ていて楽しいし、何より心から落ち着ける。
特に口をつけるところは念入りに磨き上げて、茶渋や何かしらの埃が残っていないかなどを確認。
チクタクと店の壁に設置されたオンボロ時計が動く音がやけにうるさく響く。
たったったと誰かがかける足音が聞こえて深くため息を吐く。
商店街、そりゃあ走る人もいるだろう、野良猫を追いかける主婦だっているぐらいだ、誰かが走っていても不思議ではない。
けれどうちの店の近く、あまり繁盛していない区域では珍しいものだ。
珍しいのだが私からすればこれはうるさくなる、そのたった一つの事実を示すだけのものだった。
「鏡花ちゃん......!!悪者に追われてるから匿って」
ばたーんと勢いよくドアが叩き開かれてちゃらんちゃらんとドアベルが乱暴な音をあげる。壊れるのでやめて欲しい。
初夏の暖かい空気とともに店に入ってきたのはベレー帽を被った女性だった。朱色のベレー帽、見慣れない緋色の丸眼鏡から覗くのはこれまた真っ赤な双眼。病的なまでに真っ白な肌はどこからどう見ても引きこもりのそれ。身体中は痩せ細っていてスレンダーというよりかはガリガリというべきか、少々健康面に気を使うべきではないだろうかと思う。身長は低く、男としては女子顔負けの僕の身長以下だ。
服装は赤のワンピースに赤のスカート、ちなみに靴は運動靴でこれまた真っ赤だ。
全体が赤、赤赤赤と真っ赤っかに染まり尽くされた彼女ははぁ......はぁ.......と死にそうな声をあげながら店に入った。
「また締めきり危ないんですか」
小動物じみた動きで店の中を見回し安堵のため息を一つ。彼女は萎縮し身を小さくしながらカウンターの中に入って来る。
もうすでに慣れたことなので何も言わないが、彼女は太々しい行動とは裏腹に、内弁慶な人で、人前の可能性があるとこういう行動をするのだ。
やっとこさカウンターの中で壁を背にして座り込むとふぅ、と息を吐いて。
「あえていうが、私は悪くない.......新しく出たゲームがね、悪魔的面白さでね、気がついたら締め切り一日前だったんだ、全くこれは酷い罠だ」
「それは自業自得では......?」
「武士の誉れを捨てるの楽しかったのさ、奇襲に暗殺.......鏡花ちゃんはそういうのやらないの?面白いよ?ゴーストオブサツマ」
「なんですかそれ」
誉を捨てるとはなんだそれは。武士に誉れを捨てさせるとか、ある意味SMプレイなのだろうか。
彼女は思い出し笑いをひひひと浮かべてガッツポーズをひとつ。
「間違いなく神ゲー......制作会社がサンマリノ人っていうのがまた何故?って感じで良い。ゲームもリアル志向で素晴らしいんだ」
へーと、それっぽく相槌を打ってからグラス磨きに戻る。
カウンター内には一角だけ大きめのクッションがおいてある場所がある、
彼女もいつも通り気怠げにクッションを引き摺り動かして、陽の当たるところに置くと猫のように寝転がり丸くなる。
数秒もすれば私の足の裾を握りしめて寝息を立て始めていた。
彼女の名前はアールグレイ・リッタさん......ペンネームなのだが、本名は知らない。
月刊雑誌で連載をしていてかなりのヒット作を描いているそうだ。
店から出ることはないので、実際に本屋とかでどのように売られてるかとか、同級生が噂してるとか、ネットで話題になってるとか、そういうのを全く把握できていない。
スマホは持っていたけれど、執拗な虐めで嫌気がさしてゴミの日に捨てた。
この店に本を持ってくるのも彼女で、先日読んだ名探偵ゴルゴール14は彼女の好きな本だそうだ。
とまあ、色々本を持ってきてくれたり、彼女の連載が載る月刊誌をくれたりするので特別スペースを設けていたりいなかったり。
別に空いている店なので一角を一人のために使うことで困りはしない。
だからこうして彼女が締め切りに追われて瀕死の状態になると、こうやって匿ったりするわけだ。
うちの店に来る漫画家らしい人はこの人を含めて二人いるのだが、もう片方の人は本格派推理小説を持ってきてくれたりする。まあそんな賄賂なんかに屈したりはしていないが、大型の、斜めに角度調整できるテーブルを倉庫から引っ張り出してきた。
叔父さんが昔趣味で買ったものらしく、出してもいいかと聞いたらどうでもいいと返事が返ってきた、なので出した。気に入ってくれてるようで、週二ぐらいのペースで来てのんびりと何かを描いている。
こうして違いを見ると、漫画家といっても色々な人がいるんだなぁと思う。
「っと、グラスしまうんでズボンの裾離してください」
「スカート履いてくれなかやぁだぁ......赤のチェックのスカート買ってきてあげようか?ミニの」
「どういう類いの要求ですかそれは。うちの店ではそんなサービス取り扱ってませんよ」
「よし今度買ってこよう」
「話を聞いてほしいなぁ.......」
スカート、スカートねぇ........。
一度履いたことがあるのだが妙にスースーして落ち着かなかった、少女らしい格好をして誰にもバレないようにしようと思っていたのだが、流石にスカートはきつい。
「ちなみにスースーするのが気になるならタイツも持ってくるよ」
「人の思考覗き見でもしているんですかねあなたは」
「......zzz」
寝たふりをするのが早いものだ、これは恐らく次来る時に持って来られるパターンだ、私は詳しいんだ。
ちなみに今着ているシャツとエプロンは彼女が持ってきて、ぜひ着てくれ、着てくれたら締め切り頑張れると土下座してきたものだ。
印刷所に謝りに行かなきゃいけないと言う編集さんが可哀想になってシャツとエプロンぐらいならと着たのが仇だった......。
多分その時から遠慮がなくなった、礼儀はあるけれど。
グラスを置き終えて、戸棚を閉じると同時に、ドアベルがお客さんが入ってきたのを知らせる。
編集さんかなぁと思ってみればここ最近店に通う銀髪の少女の姿があった。
今日の服装は白色のシャツにジーンズ、黄土色の可愛らしい肩掛け鞄を掛けている。
磨いたばかりのグラスに冷えた氷と水を入れて彼女がいつも座る席へと置く。
彼女は扉を開くと、最初の時と違って怯えることなくカウンターの席へと座ってお冷を飲んだ。
「おはよう、今日も早いね」
「お店に早く来たかったので」
「お世辞でも嬉しいよ、今日もいつもと同じ紅茶?」
「お世辞じゃないです......」
どこか機嫌が悪げに彼女は小さく呟くと、メニューを開いて飲み物の欄へ。
数ある紅茶の中からピッと前もって決めていたのかアールグレイを指さした。
「今日は趣向を変えてアールグレイをお願いします」
「......」
チラリと、カウンターの中、絨毯の上で丸くなる漫画家さんの姿を見れば、好奇の視線を向けてきた。なるほどどうして、こう野次馬根性丸出しなのだろうか。
「?どうかしました?もしかして茶葉を切らしてるとか.......」
「あっいや、ちょっとぼーっとしてただけだから大丈夫。茶葉もあるから安心して」
「それなら良かったです!昨日からお店に来るのを楽しみにしていたんですよ」
やはり人を煽てるのが上手だなぁと思う、こうやって言われれば気合を入れて淹れなくてはいけなくなるだろう。
いつも通り注文を終えると、彼女は鞄の中から参考書らしきものを取り出してノートを開いた。
あの日体調を崩してしまってからなんとか教科書を見るぐらい克服しようと頑張ったおかげで、これぐらいなら冷や汗で震えるぐらいで動じなくなった。
ここ最近いつもこうして勉強をしているのだ、きっと高校も大丈夫だろう。
と、考えているとズボンの裾が引かれる。
「これまた美少女......鏡花ちゃんも隅におけないね.......」
気怠げそうな声で、けれど心底楽しそうに覗き見たリッタさんは笑った。
「あまりお客さんの迷惑になることしないでくださいね」
「それぐらいの分別はあるよ、ただただ食べちゃいたいぐらいの美少女だなぁって」
「犯罪の匂いしかしない」
この人はやはりロクでもない、というかひとでなしなまである。
カウンターの端からチラリチラリと覗いて満足したのか、ふふふと笑いながら絨毯の上に戻ってきた。
「そういえば店員さん......そのっ一つ質問があるんですけどいいですか?」
やけに緊張した様子で、お客さんーー大島翔子さんは問いかけて来た。
お客さんお客さんと呼んでいたのだけれど、蜜柑さんの事を蜜柑さんと呼んでると言ってからは翔子さんと呼んでくれと言われている。
あまりよく知らない人の下の名前を図太く言える性格ではないので、大島さんと呼ぶことにしている。
蜜柑さんは別だ、距離感が近すぎてバグる。
先日のことを思い出して暑くなる頬を押さえる。
「別にいいですけど、なんですか?」
「その、もし良ければ......」
ニヤリと、隠れながら笑う先生の姿が見えた。
「そのぉ........」
どうやって切り出そうか、とても悩んだ様子で彼女は頭を抱えてカウンターに突っ伏してしまった。
どうしたものかと考えていると、ちょいちょいと先生に手招きされる。
「鏡花ちゃん、これはきっと告白に違いない。百合展開だよ喜びなさい」
随分と小さな声で彼女は言って、ニヒルと笑った。
それはあり得ないだろう、なんせ私は男だし、彼女は彼女で意中の相手の一人ぐらいいることだろう、美人だし。
「一体どういう立場のセリフなんですかねそれは」
「人生の先輩からの忌憚のない意見だよ......」
珍しい、リッタさんが大人っぽいことを言っている、ひとでなしではなかったのか。
「ちなみにソースは二次元なので一切保証はしないけれどね」
「ここまで信頼性のない言い方初めて聞きました」
ソースは二次元つまりはフィクションだ、なんだかんだ言って最も参考にならないといっているようなものだ。
三次元は二次元に比べて鬱展開が大きし、何よりコンテ不可のクソゲーだ。
二次元を参考にしたところでどうにもならないことの方が多い、特にこの静寂をどうやってどうにかするとか。
「うぅ......勇気を出せ私........」
突っ伏して、やはり悩みに苛まれているようで、彼女は頭をガシガシとかいている。
その様子を音で把握しながらやはり先生は楽しそうに笑っている。
年上の女性で、それまた美人だというのになんというか悪戯をする子供のようだ。
「基本的になんでも答えますよ、なんですか?」
「その〜......お名前を聞いても?」
ジロっと下を見れば口笛を吹きながら顔を逸らす先生の姿が見えた。
やはり参考にならない、それにしても名前か。
「名乗ってなかったっけ?」
「はい、私の方はこう呼んでくれといったんですけど、店員さんの名前を聞いていなかったので」
「あーそういうことか、私の名前は青山鏡花、青い山に鏡に花って書いて
「はい!」
満開に咲いたひまわりのような素晴らしい笑顔で彼女は笑った。
何がそんなに良かったのだろうかと考えてみる、思い当たる節はない、名前を聞いたのは社交辞令的なものだろうし。
ポンっと手を叩く。
そういえば、と思い出して湯を沸かし始める。
ここは喫茶店で注文が入ったのならそれを給仕しなければいけない、お喋りをしすぎて忘れてしまっていてはいけない。
小鍋を火にかけてティーポットなどを取り出して置いておく。
ふと振り返ればカウンター席でニコニコと笑いながら、こちらを見ている大島さんの姿があった。
やはり話のわかる人だ、紅茶を入れるというのは見ているだけでもものすごく楽しいものなのだから、ああやって笑顔で見てしまうのも無理はないだろう。
紅茶というのは人類の叡智の結晶だ、人を最も笑顔にする物だろう。
「あー......鏡花ちゃん暇だから構ってぇ〜」
それに比べてやはりものすごく暇そうに締め切り間際の漫画家先生がクッションに顔を埋めて何か言っていた。
チラリと大島さんの姿を見ればやはりにこにこと笑っている、そうそれこそお客さんから求めるものだ、楽しそうにしてくれていれば喫茶店として良いことなのだから。
けれどリッタ先生がいかにだらけていようと特に何か言おうと思わないのはなんでだろうか。
まあここは喫茶店だし、お客さんが安らげていればいいかと勝手に納得して紅茶を淹れる。
そういえば、とつい先日の件を思い出して沸々と疑問が湧いてくる。
なぜ大島さんは名前で呼ばれることに拘ったのだろうか。
蜜柑さんは蜜柑さん、大島さんは大島さん、蜜柑さんを蜜柑さんと呼ぶのは彼女の距離感が近くて、なんだかゴリ押しされると弱いのだ。
大島さんは新しい常連さんだ、毎日来て勉強してふらっと家に帰って行く。
普段は朝暇なので、こうやってお客さんが来てくれるのは楽しくて心地よいものだ。
シャッと水が物に当たって吹き散る音が聞こえた、そして次に自身の左手がものすごく熱くなっていることに気づいた。
「熱っ......!」
考え事をしていたせいで沸騰したお湯を左手にかけてしまっていた、なんとも馬鹿らしいミスだ、穴があったら入りたい。
ティーポットに淹れる予定だったお湯がこぼれてしまった、どうしようか。
「火傷してるじゃないか早く水で冷やして」
はたまた考え事をしていたら左腕が握られて流しに引っ張られた、リッタさんだ。蛇口を捻って冷水を出すと、赤くなった左手に鈍い冷たさが伝わってくる。
「すみません、ありがとうございます」
「何か考え事してたでしょ、そういう時にこういう作業しちゃダメだよ。ソースは私、徹夜で描いてたら淹れたばっかりのコーヒーを流しに捨てて二杯目を淹れてた」
「すみません......」
段々と手が冷えてくる、骨の髄まで冷たさが沁みるようだった。
左腕を握られて、全く関係ないのだけれど気が付いたことがある。
リッタさんの手はものすごくすべすべなのだけれど、どこかゴツゴツとしている。
豆が潰れた後なのか、表皮がゴワゴワしている部分がある。
「あと大丈夫です、ありがとうございます」
「本当?無理しちゃダメだぞ?体調悪いなら休みを取ればいいんだから」
「リッタさんがいうと説得力ありますね」
「なんだそれは。まあこと休むということにおいて私の右に出る人間はいないがな」
自信満々にリッタさんは薄い胸を張って言った。私は蛇口を捻り水を止めてタオルで拭く、するとリッタさんは茶目っ気たっぷりに笑うと人差し指を火傷した手に向けて。
「痛いの痛いの飛んでけー.......どうだ?萌えたか?」
「キツイなぁと......歳考えたらどうですかね」
「その言いようはないだろう、こいつめ!」
細い腕にヘッドロックされてわしゃわしゃと頭が撫でられる。小柄な体にヘッドロックされて後頭部に何やら柔らかい感触がありそうでないというか、平原にできた小さな山というかなんというか。けれどおかんっぽい行動になんとも感じないし思わない、嘘、少しは思った。
若干懐かしさを感じた、子供のころ父さんが笑って頭を撫でてくれた時もに多様な感じだった。じんわりと胸の底が暖かくなって思わず涙が出そうになる。
笑いながら頭を撫でていたリッタさんの手が突然止まって、やりすぎですよと、言おうと顔を上げた。上げただけだった。
背筋が凍りついて、喉仏を握り締められそうな殺気を感じて止まる。
一連のことを見ていた大島さんはあんぐりと開いた口を一度閉じて、ゆっくりと開きなおした。
ゆっくりと、そう、ひどくゆっくりと彼女は笑みを浮かべた。とても屈託のない笑みで、可愛らしく、それでいて上品さがある物だった。美人ということもあって、そんな表情をされて仕舞えば男ならば何か思うに違いないだろう、もし気配が暖ければの話なのだが。
ただ座っているだけなのに恐ろしい、そんなこと実際にあり得るんだなぁと思うと同時に冷や汗が止まらなかった。
「どなたでしょうか......?随分と親しいようですが。どういったご関係で?」
私もリッタさんも咄嗟に言葉が出なかった、これぞ殺気というふうに何故かリッタさんは口角を上げている。私は震えた。
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