喫茶店とOLさん

 


 夏の足音がすぐそこに聞こえる七月の上旬、燦々と降り注ぐ日光は等しく物を熱して人々は涼しさを求めてレストランやカフェなどに入っていく。

 さてそんな中で唯一伽藍堂な店はどこでしょうか、正解はうちの喫茶店カラーです、笑えませんね。


 今年の七月は特に暑く、湿気と日光のダブルコンボで人々は死にかけている。

 だと言うのに昼の時間、店に入っている客は三人だけ。


 窓際で海外の新聞を広げてノートパソコンと睨めっこしているビジネスマンらしい男の人。四人組の席に一人で座り、机一杯に原稿用紙を広げ漫画らしきものを描いている女性。


 そしてもう一人、カウンター席、常連さんであるOLの蜜柑さん。

 灰色のスーツにスカートを着こなしてまさに働く女性と言う表現が似合う人だ。

 艶やかな、若干茶色がかった長い黒髪に、病的なまでに白い肌、女優のように整った容姿は美しいと言って差し支えないだろう。

 出るとこは出て締まるところは締まっている、そんなモデル然とした彼女はこう言った。


「会社なんか粉々に砕けちゃえば良いのに」


 呪詛のような声で、重々しく、そう言った。


 自分が形容した彼女の姿に何一つの間違いはない、ととのった容姿にグラマスクな体型は道ゆく人々を振り返らせるには十分だろう。

 けれどそんな彼女はカウンターに突っ伏して白目を剥いていた、死にかけである。


 いつも昼休憩の時間に来ている人で、もっぱら甘くしたダージリンのアイスティーばかりを頼む。


 今日も変わらず同じものを注文し、今にも死にそうな様子で会社に対する恨みを吐き出している。


「どうしたんですか?いつにも増して目が死んでいますけど」


「店員ちゃんいつにも増して毒舌......目が死んでるって大袈裟じゃぁ......ないかぁ.......ははは」


「だめだ壊れてる」


 乾いた笑いと自虐で笑い始めたら人は流石にまずいだろう、何よりこの重苦しい空気に耐えられそうにない、なんとか会話を別の方向へ持っていけないかと考えていると、彼女のスマホが鳴る。


 ぐったりとした重々しい動きで、彼女は懐のスマホを取り出す。

 どうやら会社用のようで、一世代前の有名メーカーのスマホだ、画面には課長と書かれていた。

 汗で濡れた細い指を動かして、彼女は迷わずスマホの電源を落とした。


「さーて!店員ちゃん、いつものメレンゲも頼めるかなぁ!」


「明るい声で言ってもだめですよ、今の会社からじゃないんですか!?」


「昼休憩わね、そう、救われてなきゃいけないんだよ。休み時間に会社のことなんかやってたらもたないからね」


 ドヤァと無駄に元気な顔で髪をさぁっと手であおぐ。

 整った容姿と、女性らしい所作におぅ、と声を漏らしそうになるが目の前の人はろくでなしだ。

 けれどやっぱり美人は美人だ、綺麗だ、語彙力皆無の自分では表現しきれない魅力がある。


 彼女はストローに口をつけてずーっとアイスティーを啜る。


 かちゃかちゃとノートパソコンのキーボードを叩く音が聞こえる。


 カリカリと小さな音で筆ペンを走らせる音が聞こえる。


 かちゃりとアイスティーの氷が動く音がやけに鮮明に響いた。


「店員ちゃん今日も可愛いね」


 静謐を破るようにキメ顔で彼女はそういった。


「突然どうしたんですか当たり前のこと言って?」


「やだこの子メンタルが強すぎるし顔がいいから言い返せない!」


「そりゃあそうでしょう、世界一の美人の子供なんですから顔がいいに決まってるじゃないですか」


 母さんは世界一の美人だったのだから息子の私が可愛くないわけがないだろう。

 ぶっちゃえここで謙遜してそんなことないとか言うのは、母さんに対する冒涜だし、そんなことをしてはいけない。

 当たり前のことを言ったつもりが何故か蜜柑さんは机にのの字を描きながらため息を吐いていた。


「それにしても暑いですね、今年は。最高気温更新って言ってましたよね」


「毎日更新してる気がしてならないよ私は。ただでさえクソみたいな会社に行かなくちゃならないのに暑いとか拷問としか思えないよ」


「まっまぁ、室内で働いてるなら冷房が効いててまだマシそうじゃないですか」


 チラリと商店街の床のタイルと剥がして張り替える、そんな工事をしている死にそうな工事員を見てそう言った。

 けれど逆効果だったらしく彼女はふふふと恐ろしい笑い声を出し始めて。


「うちの会社ね、エコ週間とか言ってね、二十八度固定なんだ、馬鹿じゃないのかって思わない?」


「えぇ......」


 それは暑いのではないのだろうか、と思う。

 店は常に二十二度設定だ、それぐらいが涼しいし快適だ。

 常連さん達も仕事柄少し厚着をしている人が多いし、これぐらいの気温が最適だと思う。


「この店はいいよねぇ......静かで、店員さんも可愛いし、お茶も美味しいし、あっおかわりお願いします」


「はーい、おべっか言ってもメレンゲぐらいしか出ませんよ」


 自分が淹れた、自分の好きな茶葉から出した紅茶が褒められると言うのは嬉しいものだ。

 冷蔵庫からメレンゲの詰まった瓶を取り出すと、彼女は一瞬目を輝かせて、すぐに陰鬱な顔に戻った。


「私ね。太ったんだ、店員ちゃんもわかるでしょ体重計の怖さが!あの悪魔壊れちゃったのか数キロ増えてるって言うのよ!」


 全くもってどう言う気分かはわからないが、時には同意を示すことで会話が快適に進むこともある。

 自分は体重計が悪魔に見えたこともなければ、太りにくく筋肉もつきにくい、まさに貧弱になるべくして生まれてきたような人間なので、あまり気持ちがわからない。

 けれどここは神妙な顔で頷いておく。


「やばいんだよ、本当に。スカートが若干キツくなってくるの、このままいくと入らなくなっちゃうかもしれない......」


「じゃあメレンゲはーー」


「あっ、それはもらいますありがとうございます」


「食べるんですか」


 痩せるのではないのだろうか、今スカートが入らなくなると絶望的な顔を浮かべたのはなんだったのだろうか。


「明日からダイエット頑張るからいいんです、やっぱり無理はいけませんからね!」


 小皿に乗せたメレンゲを出すとパクッと一つ食べて美味しいぃっと彼女は言った。

 それ絶対にダイエット頑張らないやつですよねと内心で突っ込んでおく。


 それはそうとて紅茶を入れる準備を始める。

 いつも通りに小鍋に水を入れて火にかけ、沸騰するまで少々待つ。

 その間にティーポットとと茶葉を戸棚から取り出しておいておく。


 そういえば、と思い出して。


「それでさっきの話の続きですけど、今日は本当にどうしたんですか?いつもは課長禿げろとかしか言わないのに、会社なんか粉々に砕けちゃえばいいのにって......」


「大人には戦わなければいけない時があるんだよ。それが今日なのさ」


 深刻な顔でため息と共に言葉を吐き出す。その姿はまさに死地に向かう老練した兵士か何かのようだった。

 思わずごくり、と息のを呑む、一体どのような事情があるのだろうかと身構える。

 ゆっくりと彼女の口が開いて、出てきた言葉は。


「実はね、お偉いさん達の前でプレゼンしなきゃいけないんだよぉ!」


「......プレゼン?」


「うん、プレゼン。会社のことだから細かいことは言わないけど、結構重要なやつ。もしそれでやらかしたら課長にどやされて最悪首かも.......」


 ああ、だからさっき課長さんとやらから電話がかかってきていたのか。

 お偉いさんというのも一人じゃないのだろう、達ってついてるし。たくさんの人の前で話すというのは緊張するものだ、幼稚園生の頃の発表会はひどく緊張した、きっと同じだろう。

 それに首がかかっているとなればノイローゼになっても仕方がない、そういう事情があったのかとしみじみと頷く。


「だからまあこれが最後の晩餐ってわけよ!無職になったらスーツなんて着ないからメレンゲも食べられるって寸法なのよ!」


「あー今茶葉切らしてるんで、別のやつでもいいですか?緊張してる時におすすめのやつがあるんですよ」


「大丈夫よ!ドーンっと来いってもんよ!」


「ありがとうございます」


 サムズアップにホワイトニングされた白い歯を見せた素晴らしい笑顔、目が死んでいるけれど。

 シューっと水が沸騰する音がして慌ててそちらに目を向ける。

 すっかり暖まりすぎたお湯を使うわけにもいかないので、火力を下げて五円玉の泡が出るぐらいに調節する。


 少量計量カップで掬い、ティーポットを温めるために投入、これをやっておくだけで百一のクオリティが百二ぐらいにはなる。

 温まるまでにかかる時間なんて数十秒ほど、それまでの間に茶葉を保管する上の戸棚を開いて、普段はいれないハーブの缶を探す。

 いつもの茶葉は本当はある、正直にいえば先日買い足したばかりでなんなら数百杯分はある。


 けれど今必要なのはリラックス効果、紅茶ではカフェインで下手にテンションを上げかねない。

 精神を刺激するものではなく、優しく解きほぐすようなもの、そうそれはハーブティー。


 あまり好みではないのだけれど、淹れ方も配分も叔父さんから教わり心得ている。


 自分が病んで部屋に引きこもっていた時に毎日何も言わずに部屋の前に置いてくれたのだ。

 気が逆立って何もかもが嫌でしょうがない時に、心なしか落ち着いた覚えがある。


 そんな落ち着く一品の配分は一番最初におじさんに教わったものだ、何もやりたくない時に、何かしなくちゃいけない、そう思った私におじさんがハーブティーを入れて見ないかと言ってくれた。


 緊張でテンションがおかしくなってるOLの蜜柑さんにも効くことを祈って、三つの瓶を取り出した。


 初めはリーズヒップ、元は赤いトマトのような果実で、深みのある赤色のお茶を出す果実だ。瓶を開けばところ狭しと封じ込まれた独特な酸味を含んだ香りが鼻腔をくすぐる。

 腸内の環境を整えたり美肌効果などがある女性には嬉しい一品だ。腸内環境は体調にも影響してくるし、肌の調子が良ければ自然と気分も良くなってくる。


 そして二つ目はリコリスーー甘い香りが特徴的で、国によっては砂糖の代用品としても使われるものだ。リコリスという名の植物の根を乾燥させたものは古くから薬用植物として親しまれており、炎症を起こした喉などによく効く。


 最後に最も重要な茶葉であるカモミールが詰まった蓋を開ける。

 紅茶の中でも独特の風味がリラックス効果を醸し出し寝る前や、ストレスを感じた時に飲むと落ち着けて、重用されている。それをふたカップほど取りティーポットの中へ。


 二種類のハーブに一種類の茶葉、三種類の素材が入ったティーポットからはハーブティー独特の紅茶とはまた違ったそれが香る。


 用意しておいた沸騰する熱湯を慎重にティーポットへ入れて素早くその蓋を閉じる。


 こうして蒸すことでその芳醇な香りがしっかりと残り素晴らしい風味を生み出すのだ。

 ぐでーっと死んだように突っ伏していた蜜柑さんはカウンターに身を乗り出して、ハーブニ種類を訝しげに観察する。


「見たこともない茶葉ですね」


「ハーブですよ、ほら、色がいつもと違うでしょう」


 段々と普段と違った赤が強いお茶が出来上がっていくのを見て、彼女は首を傾げる。


「てっきり紅茶を淹れるものかと思ったんですけれど」


「おすすめなんです」


「なら大丈夫そうですね、いい香りですし」


 甘い、そう甘い香りだ、コクのある香りは据え膳もの、さすがは砂糖の代替品として使われていただけある。

 二、三分ほどが経ったタイミングで蓋を外してもう一つのティーポット、その上に茶越しをおいて緋色の液体をゆっくりと移していく。


 そこで未だに熱が逃げぬうちに蜂蜜をティースプーンで取り出したっぷりとティーポットへ。

 黄金色の蜂蜜が高熱にさらされて緋色のティーと混ざり合って行く。


 冷凍庫から取り出した氷を数個グラスに放り込んで、しっかりと右手でティーポットを持つ。

 さっと、氷目掛けて、ハーブティーを投入、カランカランと暴れ回る氷にみしみしとかすかに広がる音。

 グラスの中に残ったのは小さな氷に緋色のハーブティー、ストローを刺して御所望のメレンゲを五つ皿に乗せて彼女の前に置いた。


「リラックス効果のあるハーブティーです、甘くて本当に美味しいですよ」


 恐る恐る、彼女はゆっくりと前髪を耳の後ろへと退けてストローを咥える。

 大人の色香というか、年上の、それも綺麗な女性の所作はいちいち毒すぎる。

 ここは目を逸らして洗い物をすべきだろう、そう洗い物は心を落ち着けてくれるのだ。


 蛇口を捻ろうと手を伸ばして、握ったタイミングだった。

 背後、彼女の口がゆっくりと動いて、驚き混じりの声が漏れた。


「美味しい......独特の味ですけど蜂蜜の甘みとハーブの甘さでしょうか、それに酸味が混じって.......すみません飯レポっぽいことしようとしたんですけどダメですね、美味しいです」


「それはよかった、おじさんがよく炒れてくれたんですよ。本当に落ち着けるから、きっと蜜柑さんのプレゼンとやらもうまくいきますよ!」


 大変なことなのだろうけれど、うまくいってほしいなと思う。

 彼女は両眼を涙で潤ませて、ハーブティーをカウンターに置くと身を乗り出して私の頭を抱きしめた。

 柔らかい二つの山に顔が埋もれて、汗とボディーソープ、女性特有の甘い香りが暴力のように押し寄せてくる。

 薔薇の香りはボディーソープだろうか、汗で肌の上のそれが溶けたのか色濃く香りが突き刺さってくる。

 体臭と言っていいのかわからないけれど、紅茶では味わえないような甘い香りが脳天に到達する。


 一瞬で思考は崩壊し、今現在自分を襲う異性という要素が前頭葉を叩き壊した。


「あーもう可愛いなぁ......!!うちの嫁に来ない?歓迎するよ?」


「うぅ.......」


 プルプルと、顔の近くで何かが震え始める。

 なんだ大人の女性の胸はバイブレーション機能でもついてるのかすごいな、バイブレーション。ミサイルにでもなるのだろうか、やはりミサイルになるのだろうか。

 パッと、頭が解放されて、どこか寂しげな、もうちょっとあの天国のような空間にいたかったなとか、取り留めのない感情が溢れてくる。


 ここは一店員として深呼吸、どうやら震えていたのは彼女の私用のスマホらしい、胸ポケットから取り出してタイマーを切ったのかバイブレーションが止まる。

 手早く彼女は残りのハーブティーを飲み終えて、メレンゲを口の中に放り込むと、やはり美味しいぃと幸せそうな声を漏らして。


「もう行く時間ね、店員ちゃん今日はありがとうね。これお代、お釣りはいらないわ」


 颯爽と懐から取り出した諭吉一人を置いて、足早に彼女は駆けていく。

 社会人というのは忙しいものだなぁと思いながら、未だに鼻に残る芳しい香りに脳が燃えそうなほど熱くなった。


 はちきれんばかりに血を送り出して早まる心臓を落ち着けるために深呼吸を一つ、なんとか忘れようと別のことを考えることとした。


 カランっと、ハーブティーが入っていたグラスの中で、氷が静かに音を鳴らした。





 朝の匂いというのを感じたことはあるだろうか。

 朝、少々湿り気のある空気が風に運ばれて様々な香りを届けてくれる。商店街の朝は早くて、さまざまな店が準備を始めているのだ。例えば今の香ばしい肉と小麦粉が焼ける匂いは肉屋さんが作っているコロッケだ。味噌汁の香りが鼻腔をくすぐる、どうやら近所の定食屋さんが仕込みを始めたようだ。


 様々な香りが店の前を通り抜けて、どこかへと消えていく、お腹すいたなぁと思いながら今日も看板を裏返した。


 朝やることは決まって同じで、特に変わることはない、まずは喫茶店の掃除をしてから適当に常連さんが頼むであろう料理に使う野菜を丁寧に切り分けて冷蔵庫に。


 うちの店には業務用冷凍庫と、小型の物の二つがあって、一つは叔父さんが趣味で買い集めた食べ物が入った業務用冷凍庫、もう一つは喫茶店で使う小型のが一つ。

 夏だけれど業務用冷凍庫は凍えるほど寒くて、テキパキと運び出した氷を小型冷凍庫の中へと放り込んでおく。

 最近は夏の到来を感じさせる暑さというのもあって、アイスティーの出がいい、やはり誰もが暑さには弱いのだ、クーラー万歳。


 文明の力を崇めながら、一通りの仕事を終えていつも通り本を開く。

 店に来る漫画家さんが持って来てくれたもので、布教用と言って数冊置いていった。捨てるわけにも行かないし、とりあえず置いておくかと思っていたが案外面白く、気がついた頃には自分もハマっていた。


 今日も今日とて続きを読もうと本を開いて、栞のところに移動すると同時に店のドアが開く。

 からんからんとドアベルの音が響いて、誰だろうと思い顔を上げれば先日の銀髪少女がいた。随分と特徴的な容姿だったので、よく覚えている。彼女はやはり少し怯えたように店にはいるとキョロキョロと辺りを見回してから、カウンター席につく。


「また来ちゃいました」


「いらっしゃい。それにしても今日もまた早いね」


 まだ店を開けてそこまで経っていない、随分と朝が早いのだなぁと純粋に思って言ったのだけれど、彼女は何故か気まずそうに頬をかいて顔を逸らした。


「ええ、家の用事とかがあるので朝早くに出歩けなくて」


「そりゃあまた忙しそうだ、仕事とか?」


「いえ、学生です。最近退院しましてここのところ学校への編入手続きとかで忙しくて」


「なるほど、忙しそうだ」


 学校、高校だろうか。

 退院ということは何かの病気をしていたのだろう、編入ということはかなり長い間病院にいたことになる。

 聞こうかとも思ったけれど、そこは口を閉じる。あくまでここは喫茶店で、自分と彼女は店員と客だ、あまり深く追及するような真似はその本分を逸脱していると思う。


 彼女は少し躊躇ったからおずおずとその口を開いた。


「その、この喫茶店で勉強をしたりとかは......?」


「全く問題ないよ。まあいつも混んでるからちょっと難しいかもしれないけど」


 戯けて両手を広げて言ってみれば彼女はクスリと笑った。どこか緊張が解けたようで先ほどと違って随分と落ち着いていた。


 喫茶店というのは寛ぐ場所だと思っているので、こうやってのんびりとできた方がいい。

 鞄から筆箱、教科書と参考書、ノートを出して、彼女は露骨に面倒くさげな顔を浮かべた。


「それにしても高校の数学とか英語とかややこしいですよね、店員さんもそう思いませんか?」


「ああ、そうだね」


 どきり、と胸が軋む思いが走った、教科書が見慣れたもので、無意識に脳が拒絶して冷や汗が止まらない。

 彼女が鞄から取り出した教科書は私が通っていた高校で使われていたものとやはり一緒だった。高校別でそこまで変わらないのかもしれないけれど、詳しくないからよくわからない。


 ただただ高校であった出来事が脳裏から自然と湧き上がってきて足に力が入らなくなる。

 吐き気が押し寄せてきて、口を押さえゆっくりと目を閉じて深呼吸を一つ。


「どうしたんですか!?大丈夫ですか?」


「だっ......大丈夫、ちょっと立ちくらみしただけ。いやほら、参考書とかややこしかったなと思ったら、ちょっとね」


「大丈夫ならいいんですけど、顔真っ青ですよ?」


「平気平気、そういえばお冷でいい?」


「いえ店に来たからには頼みますよ、本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫だって、ほらずっと座り込んでたからいきなり立ったら立ちくらみしちゃって」


「それならいいんですけど........」


 ゆっくりと深呼吸を一つ、彼女が取り出した教科書をもう一度見て関係ない物だと脳に言い聞かせる。

 いまだに震えは止まらないけれど、急に座り込むようなことはないと思う。

 いつもお客さんにするように、メニューが置いてある場所から、一つとって彼女の前に出した。


 彼女が注文した紅茶を淹れながら、ふとなんとか遅れを取り返そうと勉学に励む彼女を見る。


 病院にいて、学校にも通えず、誰一人として知らないような所に行くというのに強い子だと思う。しっかりとやるべきことを見つけて彼女はどうにかして歩き出そうとしている、病という大きな困難があったというのにこれまた学校という難関へと挑んでいる。


 こうしていると自分がダメだなぁと実感する。

 虐められ引きこもり、結局どうにかして解決しようと足掻き続けることもせずに押し潰されて、今こうして喫茶店に逃げている。いつかきっと店を出なければいけない時が来るかもしれない、ずっとこうしているわけにも行かない。


 考えるだけでも漠然とした不安が押し寄せてくる、未だに店の外に出て商店街の外に出られていない。店の前に出るだけで精一杯で、歩き出そうとしても足がすくんでしまう。


 ぶくぶくと沸騰し生み出された泡が溢れかえる音がした。


「.......おっと、まずいまずい忘れてた」


 紅茶を淹れるのだった、火加減を弱めて温度を下げるために少し水を足す。

 茶葉を取り出そうと戸棚を開けば普段使わないハーブティーの素材が入った瓶が手前にあった。


「これ昨日の......」


 赤い果実を乾燥させて細かく砕いた物、どう見ても紅茶には見えない、参考書から顔をあげて、視界に映ったのだろうか。

 彼女は首を傾げて。


「それも紅茶なんですか?」


「いや、これはハーブティーに使うんだ。あんまり飲まないし、メニューにも載ってないから出してなかったんだけど、昨日蜜柑さんに淹れたんだ」


「蜜柑さん?」


「あぁ、ごめん。蜜柑さんっていうのは常連さんで、お昼休みによくくる人なんだ。昨日プレゼンがあるとかなんとかで緊張してたから、落ち着くやつを淹れたんだ」


 昨日のドタバタ騒ぎを思い出してつい頬が赤くなるのを感じた。あれは思春期の元男子高校生には少々刺激が強い物だった、未だに匂いが頭を離れない。


「名前で」


「え?」


「名前で呼んでいるんですか?」


 何故か不機嫌そうに彼女は首を傾げて聞いてきた。

 何かやってしまったのだろうかと考えるが、思い当たる節はない。仕方がないので、正直に答えることとした。


「常連さんだし、何より蜜柑さんって呼んでって言われたからね。お客さん呼びが慣れないらしいんだ」


「私もお客さん呼びが慣れないので翔子って呼んでください」


「え?」


「いえ、だから私もお客さん呼びが慣れないので、翔子って呼んでください」


 少し、怖いなと思った。正直にいえば迫力がすごかった、鬼気迫るとはまさにこのことかと理解した。笑っているのだけど笑っていない、そんな恐ろしさ。有無を言わせない、言ったら言ったでどうなるかなんて想像もしたくない、これが恐ろしさというものか。


「えっと、苗字はなんて言うんですか」


「翔子さんと呼んでください」


「苗字は」


「.......大島です」


「じゃあ大島さんで」


「むぅ......」


「っと、紅茶を淹れてる途中だった」


 紅茶を淹れに戻ると背中の方から刺すような視線を感じた、何が不服なのだろうか、蜜柑さんはただ単に距離感が近くてそう呼ぶのにあまり抵抗がなかったというだけだ。彼女と話していると胸の底がどこか燻るような気がしてとても名前で呼ぶなどできない。悪い意味じゃないが。


 彼女とはあまり話したことがないし、どうして怒っているのとかはわからない、もしかしたら名前で呼ばれる習慣でもあるのだろうか。


 とりあえず今は考えないでおこうと思ってティーカップにお湯を注いだ。

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