第15話 小夜子? と朱音ママと蝶子姐さん

 天野あまの冴子さえこは娘からの連絡に、ほんの少しだけ頬をほころばせた。

 仕事を終えて帰宅途中に連絡があった。

 少女時代を思い出すこの道のりも、随分と様変わりしたものだ。あの時あった商店は全てなくなって、当時を知る住人も随分と減った。


 覚悟していた隣近所からの白い眼というものも、予想の半分にも満たない。逆に、東京に住んでいたというだけで、なぜか喜ばれるほどだった。


 普段、娘の朱音は素っ気ない業務連絡のような連絡しかよこさない。それが、今日に限って友達とのものなのだろうか、画像付きでメッセージが届いた。

 三人で写真をとったもので、派手すぎる和装の美しい少女と塩顔の少年、それに朱音の三人で撮った画像だ。


「友達、いい子だといいんだけど」


 故郷であるこの片田舎。

 冴子には良い思い出の無い土地だ。


 幼い時から、両親は冴子に余所余所よそよそしく、普通の子になれということばかり言いきかせられてきた。あたたかい思い出は全く無い。

 母ときたら、まるで冴子を憎んでいるような節まであった。

 肉体的な虐待はなかったけれど、普通の親子と言えるようなものでは、決してない。


 冴子もまた、故郷を出るために普通ではない男を選んでしまった。

 彼と夜を共にしたことはない。

 18歳のころ、高校卒業を控えた冬のことだ。一日だけ記憶を失って行方不明になったことがある。

 駅前に立ち尽くしているのを警察に保護された。なぜか、その時のことだけはよく覚えている。

 冴子の衣服に乱れはなかったが、妊娠していた。

 その時はすでに処女ではなかったが、その相手とも別れた後だ。妊娠するような相手などいない。だから、誰かにレイプされたものだろうと、冴子自身もそう思った。なのに、不思議とこの妊娠はなるべくしてなったというような、平静な気持ちで受け入れ納得していた。


「あなた、どこにいるの……」


 堕胎を考えていた折に、高校の同級生で話したこともない男子生徒に求婚された。

 冴子は特に惹かれた訳でもないのに、天野の姓になることと、お腹の朱音を産むことを決めていた。


 夫は、奇妙な男だった。


 外見は悪そうな、今で言うオラオラ系。そして、性格は今で言うツンデレのようなタイプで、妙に捻くれた理屈をこねる。だけど、言葉とは裏腹に、いつもよくしてくれた。

 面倒な男なのに、彼との生活はそんなに悪いものでもないと感じていた。

 娘の朱音に対して他人行儀に接するところはあったけれど、彼は自分のツンデレを隠すためにそのようにしているのだと、それが冴子には分かった。


 本当のことを言えない性格で、朱音を傷つけたくなかったのだと思う。


 冴子はスマートフォンを起動させて、夫の番号に電話をかける。

 番号を変えてから何度か試しているけど、繋がったことは一度も無い。


 離婚届と大金を置いて、彼は消えた。


 東京での生活もできそうだったが、将来的な蓄えを考慮して故郷に戻った。けれど、彼はもしかしたら東京にいてほしかったのではないか。そう思うこともある。


 夫に守られてきた冴子に、東京で一人娘を育てるということができなかった。

 故郷に戻ったのも、学生時代の友人が仕事を世話してくれたからだ。

 両親の家もあり、家賃からも解放される。そうして戻ってきたのに、寂しさは増すばかり。

 一度も寝たことが無い夫のことばかり思い出す。


 ずっと、彼はゲイなのだと思っていた。


 偽装結婚のようなものだというのに、彼はとても優しかった。たまに、自分よりもずっと年上にすら思えることもあった。だけど、その行動はどこか子供らしさがあり、それに怒ったこともあれば、癒されることもあった。


 結婚して17年が経過したのに、彼の職業を知らない。知ろうとも思わなかった。


 スーツなど一度も着ることがなくて、いつも派手な服を着て外に行く。酒はほとんど飲まず、数日空けて戻ってくると大金を手にしている。

 競馬のプロだとか、麻雀だとか、パチンコだとか、彼の言葉は全て嘘だと感じていた。

 ヤクザ者かとも思ったが、彼からそういった凄惨な暴力の気配はなかった。だから、そのことについて言及したことはない。


 離婚届けに判を押して役所に提出した時、魔法が解けたように感じた。

 娘と共に書類を提出しにいって、帰りの駐車場で座り込んで泣いてしまった。あれから、朱音との距離が縮まったように思う。


 これも、彼が予期していたことだろうか。

 だとしたら、ひどいひと


 冴子はそう思って、口元に寂しげな笑みを浮かべた。今になって、彼を愛おしく感じる。


 生家の前まで帰りついて、未だに慣れない実家というものに気持ちが沈む。ここが家だったことなど、一度も無いのかもしれない。


 冴子が鍵を開けようとした時、なぜか家の中に気配を感じた。


 気のせいだ。

 引っ越した初日、朱音はお化けがどうと言ってたけど、それだって気のせいだ。朱音は「お化けはいたけど、もういない」などと妙なことを言っていたが。

 冴子も初日は両親の気配が残っているようで暗い気持ちになったが、翌日には冴子と朱音の家になっていた。気の持ちようというものだ。


 ペポン、とスマートフォンから間抜けな音がする。

 液晶を見てみると、朱音から通話が入っていた。


「もしもし、どうしたの?」


『家に入ってはいかん』


 知らない女の声だ。


「あなた、誰? 朱音の電話で何を言ってるの」


 冴子が言うと同時に、閉ざされたドアの向こうから足音が聞こえた。

 朱音が先に帰っていた? それは無い。現に話している相手は違うが、通話がきている。それに、遅くなると連絡があったばかりだ。


「お母さん? 帰ってきたの?」


 ドアの向こうからは、朱音の声。


『あれは、そなたの娘ではないぞ』


 冴子はあまりに異様なことに声も出せないでいた。


「お母さん。ご飯の支度をしているのよ。お母さん、入って手伝って欲しいな。お母さん」


『まだ返事をしてはならん。次にヤツが声を出してきたら声がしている内に、ドアから下がるのじゃ』


「お母さん。まだなの? お鍋の支度をしているの。早く入ってきて手伝ってほしいの。美味しいお鍋にしたいから」


 冴子は一歩だけ後ずさる。そして、二歩目からは自然と後ろに向かっていた。

 あれは、朱音ではない。どうしてドアを開けないのか。


『そのまま、もう少し下がれ。ほほほ、待ち構えていても、誘い込まねば成立せんか。面倒なものよ』


「お母さんまぁだァ。早くしないとお鍋が煮えちゃうの。お母さん、お母さん、お母さん」


 冴子はスマートフォンを握りしめて、口を開く。


「あれは、なに?」


『アマンジャクの類いが声真似をしておるのよ。そこの電柱まで隠れたら、後はわらわが開けて目晦めくらましをかけて進ぜる。よいな』


「おおぉぉぉかかかぁぁぁさぁぁんんんんん」


 地の底から響くような、娘を真似た声。


 スマートフォンからの声に従って、電柱の陰に隠れた。

 ドアを見ると、ひとりでに開くところだ。


「ああいぃぃたぁぁ。お母さああん、美味しいィお鍋になってぇぇぇ」


 声と共に、頭ばかり大きな子供のようなものが玄関先から飛び出してきた。

 茶色い毛が全身に生えた、動物じみた姿をした口ばかり大きな怪物である。人のような形をしているのに、長毛種の猫のような質感の薄汚れた体毛を全身に生やしていた。そして、背中にはカラスのような羽がある。


『ほう、これまた汚い天狗じゃな。それ、自転車でも食うておれ』


 かつては冴子の母が使っていた錆びだらけの自転車に、怪物は「いただきまぁす」と叫んで飛び掛かった。そして、赤錆びだらけの前カゴに食らいつく。


「かたあぃ。お母さん、かたあぃ」


 もはや、声も朱音のものではない。幼児のような甲高い声で、必死に前カゴに牙を突き立てている。前カゴを食いちぎる音が響いた。


「お口がぁぁぁあ。痛いよぅぅぅ」


『さ、これで時間は稼いだ。表通りに出たら、タクシーに乗るのじゃ』


「あ、あなたは」


『わらわは、……名前を名乗るのはよくないのう。そうじゃな、朱音とは知り合いのえにしでな。手を貸しておる』


「どういうこと。朱音は無事なの!?」


『大丈夫じゃ。わらわに任せておれ』


 その言葉を最後に、通話は切れた。


 冴子が走って表通りに出ると、すぐに停車しているタクシーが見つかった。

 この辺りでタクシーなど停まらないものだが、たまたま誰かを乗せた帰りであろうか。


「お待ちしてました。天野さんですか?」


 タクシードライバーは30歳くらいの婀娜あだな女だ。言葉は関西訛りで、ナンバープレートには岸和田という冴子には馴染の薄い地名が刻印されている。


「えっ、あの、そう、ですけど」


「代金は前払いで頂いてます。お迎えにあがりました」


 狐につままれるとはこれだろうか。

 冴子は言われるがままに後部座席に乗り込み、大きく息を吐いた。


「それじゃあ、行きますよ。知らない道なんで、ナビ案内で行きますわ」


 タクシーが走り出す。

 冴子はシートにもたれかかって、今度こそ安堵の吐息を漏らした。

 理屈ではないが、これで助かったという感覚がある。


 冴子は何か言おうとしたが、何を言っていいか分からない。

 ただ、これもあの電話の女の子がしてくれたことだろうと考えた。しかし、あれは一体なんだったのか。怪物、お化け、そういうものとしか思えない。

 それに、天狗だとかアマンジャクだとか。


 ナビの音声案内が車中に響く。


「あら、大きい道に出るはずやのに、変やねえ。天野さん、駅に向かう道ってこれで正しいですか?」


 女性ドライバーに言われて、車窓から景色を見る。

 見知らぬ景色だ。

 古めかしいバスの廃車が野ざらしになっている空地や、取り壊し途中で放置された建物などが見受けられた。

 寂しく荒れた雰囲気の、片側二車線の道路を走っている。


「んん、なんやろ」


 タクシードライバーの独り言で、後続車に気づく。

 いやに近くまで車を近づけてきている。古めかしいセダン、30年以上は前のマークⅡだ。


「なんかヘンなんがケツにつけてきよるんで、どこかで先に進ませます。すいませんね」


 苦笑いを浮かべて言うドライバーは、煽り運転の後続車など恐れてもいないようだ。

 すると、背後からハイビームを焚かれた。明らかな嫌がらせのパッシングだ。


「なんや、ケンカ売りよるんかいや」


 そう言ってバス停らしき場所へ滑り込もうとした時、ルームミラーに目線を移したドライバーが、小さく舌打ちを打った。


「天野さん、シートベルトお願いします。なんやアカン感じのヤツみたいなんで、ちょっとやったりますわ」


「えっと、なんですか」


 冴子がルームミラーを覗こうとすると、ドライバーはくるりとミラーを裏返してしまった。


「あきません。見たら目ェ潰れますわ。さ、シートベルトお願いします」


 冴子は言われるがままにシートベルトを装着する。


「お化けみたいなモンが調子のりくさって。環状ぶっ飛ばしの蝶子ちょうこ姐さんの走り、見せたるでぇ」


 ドライバーは、手動操作でウインカーを高速で左右に点滅させる。古い走り屋がやる勝負の合図だ。

 パッシングが止む。それは、受けたという合図。

 瞬間、タクシーのアクセルが強く踏み込まれた。


「ひぃっ」


「口閉じてといてくだいね。舌かみますんで」


 さて、背後についたマークⅡだが、それは驚いた。

 道を惑わし、威圧をかけて恐怖に陥れるのが存在意義ともいえる怪物であったが、被捕食者が真っ向勝負をしかけてくるとは予想外。

 マークⅡの運転席にいるのは、死人しびとの執着が形を為したという類いの怪物である。勝負の合図は、彼に束の間の、元になった人間であったころの気持ちを蘇えらせた。


 そうだ。これをやられたら、受けないといけない。逃げるヤツは臆病者チキンだ。走り屋に臆病者チキンはいない。


 この異界を造りだした者にとっても、それは想定外。現実から外れた狭間の世界で、このようなことが起こりうるなど想像もしていなかっただろう。

 退魔師でなくとも、妖物を打ち倒す者がいる。

 彼らはいつも、その精神性が妖物の想像を上回るのだ。


 ここに、異界の公道レースが幕を開けた。

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