第11話 小夜子と晴明と葛の葉とギャル谷と

 小夜子と晴明が睨み合ったその時、ギャル谷は不意の呼び声を聞いた。

 魂魄のみの状態というのは、夢見心地にも似ている。特に、肉体が生きて魂魄だけが抜け出しているという状態では尚更だ。


 その呼び声は、果たして本当に自らを呼んだものであるか。


「――――――――――――」


 魅宝が何かを言っていた。

 ギャル谷には理解できないが、きっと言葉なのだと思った。よく聞き取れず、外国語のようにも聞こえて、何を言いたいかは分からない。


「え、なに?」


 少し離れた場所では、小夜子と晴明が秘術をぶつけあっている。その音に掻き消されたものかと思ったギャル谷は、魅宝の口元に耳を近づけてみた。


「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太しのだの森のうらみ葛の葉」


 魅宝より放たれた言霊ことだまは、葛の葉が今生こんじょうの別れを告げる際にんだとされる歌であった。

 浄瑠璃じょうるりや歌舞伎の演目にもなり、有名な一節である。


「ギャル谷ッ、それから離れよッッ」


 術合戦の最中だというのに、小夜子は術を中断してまで声を荒げた。


「えっ、なに」


 晴明もそれに気づく。

 魅宝の内側から、何かが這い出ようとしていた。

 白目を剥いて口を大きく開けた魅宝は、愛らしい子狐娘の面影を残していない。


『母よ、何ゆえに』


 晴明もまた、そのような言葉を吐いた。


 生きた肉体を持ちながら【あちら側】との境である黄泉平坂にまで来れる者。本来であれば、魂無き者と、異界の大いなる肉体を持つ小夜子のみ。

 安倍晴明あべのせいめい、歴史上類を見ない最高の陰陽師ですら、魂魄となり魂無き者の肉体に隠れ潜まねばここに来られなかった。そして、今の今まで


「道理で根の国の御霊みたまがおらんはずよ。そこに、出口があればそうもなろう」


蠅声さばへなすしき神の娘よ、それは如何いかなることか』


「このに及んで気づかぬとは、耄碌もうろくしたものよ。あのクソ男、伊邪那岐いざなぎですら、黄泉平坂より追われたことを忘れたか」


 神ですら、死なばここに来る。そして、生きてここに来た伊邪那岐大神は、黄泉の軍勢に追われて生者の世界へ追い返された。


『……魅宝は、母の依り代よりしろとなるはず。魂なき式でしかない』


 そうではない。式であろうと人造人間であろうと、。それは、人と性質が違うというだけの差異でしかない。


「晴明殿ともあろう者が気づいておらぬとは。いや、魂魄のままでいたのなら知らぬも道理か。時間と空間は立場により変わり、質量はエネルギーと等価、アインシュタインがそれを解き明かしたのじゃ」


 神ですら、過去の時間に死した。そして、【あちら側】へ逝く。


『……、よもや死者の国とは』


「戻って来たのではない。あの子狐を門として、となった。わらわは伊邪那美いざなみ様におすがりする。晴明殿は好きにいたせ」


 小夜子は完全に晴明への攻撃の手を止めた。そして、喉から声を出す。人類には不可能な、彼方に届く宇宙からの音を発して、死そのものである伊邪那美大神を呼ぶのであった。


『なぜだ……、稲荷大明神は神の遣いとして母を寄越よこしたはず。この晴明を産み落とさんがために』


 神も、いつか死ぬ。

 晴明の母、葛の葉は死の間際に【恋しくば尋ね来て見よ】と言った。

 今、千年の時を経てその通りになっている。


 小夜子の行動もまた、運命の一つである。

 火車調伏の折、大阪は岸和田市と和泉市の境目でたこ焼きを食し、水なすを買った。かつて、信太の森と呼ばれていた土地を通って、その土地のものを食している。




恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉




 今この時こそが、うらみ葛の葉に当たる。

 うらみ、この言葉をどう解釈するか。憎い、悲しい、という意味合いでの解釈が一般的である。しかし、もう一つ【裏見】という見方ができる。

 森の奥に帰ったというが、葛の葉は神の遣いであり、実際には殺害されている。

 では、【裏から見る】と解釈すれば、その裏とはどこか。死は事象でしかなく、その裏となれば、片道でしか行き来できないはずの【あちら側】だ。


 恋しければ【あちら側】へ尋ねて来いと、千年前に葛の葉は予言のような歌を遺した。


 この歌は創作であるとも言われているが、晴明ですら立ち会っておらず現代では真偽が知れない。

 だとしても、千年を経て言霊ことだまとして語り継がれて残ってしまった。もはや、その真偽がどうあれ意味をなさぬことだろう。


『母よ、私は、ただ一度でよいから、……あなたの言葉が欲しかった』


 もはや、言葉は得られまい。【あちら側】より帰るとはそういうことだ。


 小夜子が喉を振り絞り発している声ならぬ音は、母の発していた神の言葉に似ている。

 人間には、不吉な音としか受け取れない言葉を、幼少の晴明は理解していた。そして、その言葉から天地の理を学んだ。


 俗世で生き、権力闘争を勝ち抜いて老境へと至り、魂魄を封じた安倍晴明。神の言葉を理解する権能けんのうなど、とうの昔に失われていた。


 小夜子は目を見開いて音を発する。

 まさかホームとも呼べる黄泉平坂で、このような【敵】と相まみえるなど予想外。


 死から生まれ出るモノは、もはや神でも人でもない。


 八十禍津日やそまがつひですら、死の穢れから発生したにすぎず、死そのものからは生じていない。


「伊邪那美様、なぜ答えてくれぬ。わらわという悪がおれば、このようなモノいらぬではないかっ」


 死より生じたモノは、生と死の境界をたやすく破壊するだろう。

 これが現世うつしよに出たらどうなるか。闇の者ですら、それをいとう結果しかあるまい。

 

 こんな時、小夜子の【敵】たちはどうしていた。


 何かに助けられることもあれば、隠し持っていた技であっさりと倒すこともあった。だが、今の小夜子にはどれも無い。


「もう良い。神などに頼るのがはなはだの間違いよ。なれば、わらわが止めればよい。死から生まれ出でるなら、我が妹であろう。姉妹で存分に喰らい合おうぞ」


 花子さんの時と同じだ。ルーツの一部を同じくする者とは喰らい合う宿命さだめにある。


『昨日と今日に、何をしたかだけ。この堕落した世にも、賢人はいたのだな』


 晴明は碧の肉体から出て、そのように言葉を発した。

 昨日をかえりみるための今日を続けすぎたのかもしれない。

 そうであるのなら、この魂魄を母に捧げるしかないと、そのように思った。

 晴明が望んだのは、寂しさを埋めること。目論見通りに運んだとしても、それを埋めることなどできようもなかっただろう。


 魅宝の前にいたギャル谷の魂魄が、そっと声ならぬ叫びを続ける子狐の頬に手を当てた。

 この異常なる産声うぶごえを前に、何をするというのか。


「だめだよ、もう死んだんだから。死んだらそれで終わりだよ」


 ギャル谷が発した言葉だけが、彼方に届いた。


 黄泉平坂よもつひらさかにはそれを言う者がいる。

 伊邪那岐いざなぎ大神は、黄泉平坂から逃げ帰る際にそれを聞いた。

 黄泉平坂で掬い救いの言葉を伝えられた。

 この冥界にも、生死のことわりえにしを司る唯一の存在がある。

 御名みな菊理媛尊くくりひめのみこと

 かの女神は、言葉こそ違えどギャル谷が言わんとするのと同じことを伊邪那岐大神に伝えて、その御心みこころに救いをもたらした。


 魅宝の肉体から生まれ出ようとしていたモノは、その言葉で消えてしまう。まるで、元から何事もなかったように、消え失せた。

 納得して、こちら側からは知り得ることすらできない、元いた場所に帰っていったのだ。


 小夜子は目を見開いたまま言葉も出せない。晴明も同じだ。


「ギャル谷、そなたが……。おのれ、わらわの立つ瀬が無いではないか」


 小夜子もまた茫然自失ぼうぜんじしつ

 ただの女が、再演される冥界の神話を終わらせてしまった。


『あの小娘だけが、賢き者か。この晴明、不覚であった』


 晴明もまた同じだ。

 陰陽の神秘を誰より分かれど、只人のことなど何も分かっていなかった。人として、これだけの年月を存在して、ただの小娘にも劣る。それを、晴明は千年を経て魂魄だけの身になって、ようやく理解した。


「わらわは、もうよい。碧との契約を果せれば、それだけでよい。晴明殿はいかがされる?」


 戦意は失せた。いかな魔人とて、このような結末では血などたぎりようもない。


『ふふ、はははは、碧か。産褥さんじょくより守護する碧石が小僧の名であったか。愚か者は己であったな』


かれるか? わらわとしては、晴明殿には現世で敵となってもらってもよいのじゃが」


『そなたの相手は御免被る。だが今は、母に会わす顔も無い』


 晴明は魂魄が形作っている狩衣かりぎぬの袖をひるがえした。袖が何倍もの大きさにも広がり、やがては晴明自身をのみこんでその姿が消え失せる。


袖裏乾坤しゅりけんこんの術までやりよるか。仙術まで修めておるとは、流石としか言いようがないの」


 小夜子は苦笑いと共に言って、ギャル谷の魂魄に向き直った。


「ようやったな。お前は凄い女じゃ」


 幾分いくぶんか自嘲的に、小夜子は言った。


「番長のこと、今度からサヨちゃんって呼んでいい?」


「番長よりは随分と良うなった」


 小夜子はギャル谷の手を取って、魂魄を飛ばして地上に戻す。これで、彼女は肉体に戻れたはずだ。


「碧よ、生きておるか?」


 小夜子は、倒れたままの魂無き者、碧に声をかけた。


「ああ、空気を読んで待ってたよ」


 むくりと立ち上がった碧。死んだフリでもしていたようだ。


「調子の良いことを。晴明殿が抜けてから、隙を見て逃げようとしていたであろう」


「式は邪魔なんだろ?」


「ほほほ、達者な口じゃな。男らしくせんと、モテんぞ。これで契約は成ったのう、戻ったら存分に術を調べさせてもらう」


「好きにしてくれ。殺されないなら、それでいい」


 碧は、倒れたままの魅宝を抱きかかえた。彼は何も活躍していないが、こうして見れば碧が魅宝を助けたように見える。


「では、地上に戻ろうぞ」


 そういうことになり、小夜子と碧は坂を上る。

 歩き出してしばし、背後の音に気づいた。遠くから、何やら賑やかな声が響いてくる。


「間宮さん、あの声は」


黄泉醜女よもつしこめ黄泉軍よもついくさじゃ。わらわの呼びかけに応えたとみえる」


「……大丈夫なのか?」


「よくは、ないじゃろうな。アレの気配にあてられてか、熱狂にあるようじゃ。碧よ、逃げるぞ」


「マジかよ。魅宝は意外と重いんだ。そっちに渡していいか?」


「……これも契約の内であれば、仕方あるまい」


 小夜子と式たちは、逃げ帰ることとなった。


 普段の小夜子であれば、伊邪那美様への恨み言も兼ねて大立ち回りを演じていただろうが、今に限ればそんな気分ではなかった。


 死んだらそれで終わり。


 小夜子だけが、そうではなかった。【あちら側】より、少しだけ異なる別の世界へと来た。

 この世界のどこにも、はじめから帰る場所など無い。

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