第三十七話:渚にて。


 さざなみが聞こえる。

 静かに寄せては返すその波の音は、なんと表現すればいいのだろう。

 "ざあざあ"と言い現わすには、ずいぶんとゆったりとした音色だ。数秒かけて"ざあ"と鳴り、また数秒かけて"ざあ"と静まる。


 わたしは無限にも思える程鈍く進む時間を、浮き輪の上で過ごしていた。

 ――もちろん実際に時の流れが遅くなったわけではない。物の喩えだ。

 しかしそう注釈をつけなければならないほど、わたしの周りの人々は実に多種多様な能力を兼ね備えていた。

 空間を操り、言葉を操り、物質を操る。

 彼らであれば、きっと時間を操る事もできるだろう。


 ……などと妄想に耽るわたしもまた、"能力者"なのだが。

 わたしの能力は「魂の移送」だし、自分で操れる能力でもない。

 だから、あまり自分に能力があると、実感した事はほぼない。


 ばかりか、わたしは自分に魂が流れ込んでくると、決まって切なくなっていた。

 彼らが元の世界に戻るのだとしても、その代償としてこの世界での「死」が付きまとう。


 ――「死」は、彼らにとって、本当に救済なのか。

 この世界での生は、捨ててしまえるほどに軽いものなのか。


 わたしは、魂が自分の中に入ってくることを、良しともせず、悪いとも言えず、ただ受け入れ続けることしかできなかった。


 夏休みが始まってから数週間、わたしと椿は旅をしていた。

 ノートパソコンで補習を受けながら、世界にいる転移者を、倒して回っている。


 あの時とは違う。

 椿は転移者を討つ前、必ず問うようになった。


 「元の世界に戻りたいか」……と。


 首を縦に振ったものは斬り、そうでないものの、この世界に害をなさない限り、捨て置いた。

 ただ、わたし達が出会った限り、自分の能力を用い、己の欲望を満たす者は居なかった。

 そういう人間は、すべて蓮里が先に御していた。

 この世界に悪の転移者は、ひょっとしたらもう、居ないのかも知れない。


 わたしは青く透き通った海の上、ぼんやりと空を見上げていた。

 日の光を直視しないよう、目にはサングラスをかけて。


 ぼんやりと死と生の物語に思考を巡らせていると、波の音に伴って、意識がだんだんと遠ざかっていく。

 海の上だけに、舟を漕ぐ――我ながらうまいギャグじゃないだろうか。こういうのをおやじギャグって言うのかな。

 このままひと眠りしよう。私が乗っかっていてても心配ないくらい、浮き輪も大きい事だし。

 移動が多いこの夏だからこそ、わたしは海でゆっくりと惰眠を貪りたかった。


「ゆうりーっ」

 そんなわたしの思いを無視するように、大きな叫び声が響いた。


「だっ」


 ついでにボールもわたしの顔めがけて飛んできた。


「こんなところで寝たら風邪ひくよー」

「こんな暑いのに大丈夫だって……よっ」


 わたしはズレたサングラスを元に戻すと、よこされたボールを彼――椿に投げた。

 椿は上半身裸でトランクス型の水着だけ履いていたが、なんだか女の子が裸で海にいるようにも見えて、なぜかわたしの方が緊張してしまった。

 あのぷにぷにとした肉付きであれほどの腕力があるのだから、人間はよく分からない。


 わたし達はビーチでのんびりと遊ぶと、夜の街へ出かけた。

 街では、筋肉隆々の男の人に絡まれたりもしたが、椿は笑顔で彼らの腕を捻り、いとも容易く撃退してしまう。

 流石だな、と思った。


 このあたりの街は見晴らしの良い景色が多く、わたしと椿は二人、夜景を見下ろしていた。

 わたし達の町と比べてもずっとのどかで、歴史を感じさせる街並み。わたし達はそんな風景を、新鮮な気持ちで見つめていた。

 

「ねえ、これってデートなのかな?」

「そう思うならきっとそうだよ」


 わたしは慌ててしまった。

 そんな返しが来ると思っておらず、きっと「ボクたちは家族だからデートじゃないよ」みたいな答えが返ってくるだろうと思っていたのだ。

 言っている当の椿自身はあっけらかんとしているから、尚の事悪質だ。


 でも、こんな風に椿の前で動揺することも、ずいぶんと減った。

 良くも悪くも、慣れてしまったのだろう。

 目の前にいる、男でも女でもない"この子"に。


 今思うと、やはりわたしは、椿を"異物"として恐れ、怯えていたんだろう。

 本質と関係ないところで、私は椿を忌避してしまった。

 それがこうして、自然と横にいられる関係にまでなれた。


 わたしは嬉しかった。

 誰かと一緒にこんな遠くまでこれたこと、そして信頼できる相手を手に入れられたこと。

 あの日椿を疑ったりしなくて本当に良かったと、今更ながらに思う。

 

「なに考えてるの?」

「椿のこと」

「ボクと一緒だね」

「……あはは」


 椿の歯の浮くような言葉も、自然と受け入れられるようになっていた。

 別に、嘘だと思っているからじゃない。

 わたしは、愛される事に自信を持てるようになったんだ。

 椿は本当にわたしが好きで、だからこうしてアプローチをしてくる。

 そこに何の嘘偽りもない。

 わたしは、少し前まで、椿の言葉をいたずらかリップサービスだと思い、少なくても本気の言葉じゃないと信じていた。

 ――いまは、何寸も疑う余地はない。


 椿は、わたしの手を引っ張った。


「そろそろ部屋に戻ろう。明日も朝早いんだし」

「あ、うん、いいよ」

「そういや有里、予約の紙見た? 今日の部屋のベッド、シングルなんだってー」

「えー……その、寝相が悪かったらごめんね」

「うん、平気。変な姿勢で寝るの、慣れてるからー」


 とても自然に、わたしは椿の手を掴む。

 そしてそのまま、ホテルへ向かった。


 ここはイタリアのシチリア島。暖かな日が続く、8月中旬の事である。

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