第三十五話:防犯ブザー。

 わたしは出会った。

 自分にとっての、もう一人の家族。

 今まずっと忘れていた、もう一人の姉妹。


 それが今、殺されようとしている。

 しかも、"もう一人の別の家族"の手によって。


 ――何故だろう。

 彼女は死を負うべき存在なのか。

 断罪すべきはわたし達なのか。


 それを判断するだけの情報と時間は、わたしにはない。

 だからこそ。

 それを満たすだけの時間を与えて欲しい。

 わたしが彼女を許せなくなるまで、全てを教えて欲しい。


 そうでなければ、わたしは蓮里を殺す事を許さない。

 

 椿がナイフを蓮里の首筋を横切ろうとしたその瞬間。

 わたしは押した。

 細貝さんから渡された、ブザーを。

 無力なわたしを救ってくれるための力を、与えて欲しかった。

 このブザーにどれほどの力があるのか、わたしには分からなかったが。

 

 次の一瞬、わたしは瞠目していた。

 ナイフを動かそうとした一瞬にその影は現れ……そして、ナイフをその手で掴んでいた。


 その影はわたしの方に視線を送る。


「その呼出ブザー、そういう使い方じゃないんだけど!」


 目の前にいる、この人は。

 キャミソールにスパッツの、ラフな服装の――この女の子は。

 

「ちほ!? なんで!!」


 ちほは、手刀を椿の手に当て、ナイフを奪い取る。


「へへへ……黙っててごめんね、有里。私、政府から派遣されたエージェントだったんだ。桐本有里護衛のためにね」


 ちほは遠くの家の窓を見た。二階の窓から、わたしたちの住宅街を見下ろす男――細貝さんが居た。


「だけど私は有里を守るためにいるんだよ! 蓮里を守るためじゃないって! こんな事で呼び出すために細貝っちはブザーを渡したわけじゃないんだけど」

「じゃあ、ボクと戦わなくてもいいよね?」


 椿はちほに殴りかかった。ちほは咄嗟に防御姿勢を取るが、数十メートルほど吹き飛ばされてしまう。

 ちほは姿勢を立て直し、スタンディング・スタートの姿勢を取った。ちほは、それでも尚椿に立ち向かうつもりだ。


「いや、戦うね! この戦いは友情のため、有里の願いを叶えるため! 私もエージェントである以前に、有里の友達として、ここは惹かない!」


 ちほは走り出した。

 ――はずだ。


 ちほの速度は誰にも知覚できなかった。

 敵である、椿にすら。


 ちほが走り始めたと思った瞬間、ちほの拳は椿の顎を殴り付けていた。

 椿は吹き飛ばされ、何百メートルも先の路地奥まで吹き飛ばされる。


「椿くんだって、有里の家族なんでしょ!? どうして彼女の気持ちに答えてあげないの! それが正しくても正しくなくても、一番良くないのって、有里が傷つくことじゃん!」

「……」


 椿は無言で、血を拭った。


「正直さ。わざと私達の攻撃を喰らうぐらい迷ってるなら、素直に手を引けばいいと思うけど」

「わざと……?」


 わたしはちほの言葉を繰り返した。


「戦いを見てたけど、ずっと手を抜いてるよ椿くん。本気で戦えば互角に戦える人間なんていないし。私なんかがまともに戦って勝てる相手じゃない」


 ちほは挑発目的でそう言ったのかも知れないが、椿はその言葉に応じなかった。


「なのに今のパンチはもらった。戦いたくなんてないんでしょ? だったら――」


 ちほは五感を奪われ、だらりと座る蓮里を指差す。

 

「桐本蓮里を逃がすべきだよ。じゃないと、誰も幸せになれない」


 わたしは、椿に駆け寄り、抱きかかえる。

 

「ねえ、椿」

「……うん」

「蓮里は、死ななきゃいけないの?」


 椿は胡乱な眼差しを浮かべた。


「桐本蓮里はキミを捨てたんだ。捨てて、転移者を率いた。それが、ボクには許せなかった。ずっと、有里が苦しむきっかけになったから」

「そうなんだ。でも、今までがどうあっても、蓮里はわたしの家族なんだよ。確かに、この10年ぐらい、わたしはずっと辛かった。でも、それと蓮里を今元の世界に送り返すのとは、別の問題な気がする」

「……そう、なのかな」

「あと、椿はわたし達のお父さんを殺したの?」

「――あの日、桐本蓮里がボクの家族を皆殺しにしたのは、それが理由だよ。血迫党は確かに、桐本佳彦を殺した」

「椿じゃなくて?」

「変わらないよ。仮にボクがやってなくても、ボクが殺したようなものだ。ボクは組織あり、組織はボクだったのだから。だから、蓮里がボクを恨み、殺そうとすることは、何も不思議じゃない……」


 椿は笑った。


「ボクは有里に、ちゃんとそういうべきだったね。キミがこうなってしまった端緒は、ボク達にあるって――だから、今、恨まれても仕方ないよ」

「それじゃ、あれは嘘なの?」

「"あれ"って?」


「偶然、わたしに一目惚れしたって言ってたでしょ? あれ、嘘なの?」

「……ほんとだよ」

「椿がわたしの家族になったのって、わたしと二人で、これ以上悲しい思いをしないようにだったんじゃないの?」


 ハッとした表情が、椿の顔に浮かぶ。


「だったら、わたしももう誰かを恨んだりとか、家族を死なせたりとかなんて、したくないよ。それで結果的に苦しい思いをしてしまっても。――わたしには、椿が居るんだから」

「有里……」

「好きだよ、椿。男としてか、女としてか、恋愛の対象としてか、家族としてか、そんな事は分からないけど。二人だったら、一生苦しまずに済むって思うから」


 椿は、眼から一滴を零した。


 意外だった。

 この子は、泣かないと思っていたから。


「ボク、また間違えたのかな」

「ううん、まだ間違えてないよ」


 ヤスヒロさんが、蓮里を背負ってきた。


「蓮里への術を解き、彼女を自由にするんだろう?」

「そうだね。この空間一帯の術法を解くよ」


 椿はわたしの腕の中で印を切る。

 すると蓮里は我を取り戻し、ヤスヒロさんの背中から降りた。


「助けたの?」


 蓮里は椿を睨みながら言った。


「そう有理が願ったからね」


 蓮里はわたしを見た。

 感謝とも怒りとも取れる、不思議な眼差し。

 わたしはその視線に答えを与えずに、ただ微笑み返した。

 

「今日の所は、終わりね。こちらも手を引く。だけど椿――あなたがわたしの敵であることは変わらない。父の仇はいずれ取らせてもらう」

「うん、でもボクが死んだら有里が悲しむと思うよ」


 蓮里はわたし達に背を向けた。


「だったら有里の気持ちごとわたしは奪う。どれだけ時間が掛かっても、必ず」


「桐本蓮里!」


 ちほは叫ぶ。


「10秒の猶予を与える。有里との友人として、それまでは見逃す。だけどそこから先はエージェントとして命の保証はできない」

「ふふ、10秒も要らないよ。すぐ消えるから」

「だったら、早く行け! じゃないと、どうなっても知らないぞっ!」


 蓮里はそのまま、ゆっくりと右手を顔の横で何往復かさせた。

 きっと、別れの合図だったのだろう。


 次の瞬間、蓮里は消えた。

 わたしの胸には数多くの魂が流れ込んでくる。


「これ――」

「この戦いで死んだ数多くの転移者だ。彼らにとって本意ではないかも知れないが、元の世界に還れるのであれば、完全な死よりもまだ救いはあるんじゃないかな」


 そう言いながら、ヤスヒロさんは胸で十字を切った。キリスト教徒が行うものだろう。


「魂の回帰の果てに、幸福がある事を祈っているよ。僕の、同胞達――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る