第二十二話:ヤスヒロさんと会う。

 わたしは家についた筈のその足で、ある家を目指すことにした。


 一人でわたしを行かせた当の椿は、やる事があると言って別行動になってしまった。

 その理由はよく分からないが、裏で男の叫び声が小さくしている事から、わたし達を監視している存在を闇討ちしているのだろうと、少し想像がつく。


 わたしは、宝珠さんが手渡した紙切れに視線を落とす。

 そこには"ヤスヒロ"なる人物の住所が書かれていた。


 ――とはいえ、こんな夜分に家を訪れて誰も居なかったらどうしようか。

 大体、こんな時間に尋ねるのは無礼じゃないのか?

 まずい、菓子折りの一つや二つ用意した方がいいだろうか。


 そう思っていると、空から包装紙に包まれた箱が落ちてきた。

 どこかのお店のお菓子だ。

 椿、やはりわたしを裏から見ているのか。

 ひとまずこれは持参させてもらおう。


◆◆◆◆◆


 そのアパートは、至って普通の住宅街の中にあった。

 大学生が住んでいそうな、簡素な作りのアパート。それがわたしの第一印象だった。

 住所の記載に従い、わたしは所々錆びた階段を登っていく。

 203号室。ここがヤスヒロの家だ。


 しかし……改めて部屋の前にたどり着くと、ピンポンを押す勇気が無くなる。

 ここには転移者が居るんだ。そう思うと、生きた心地が突然失せてしまう。

 宝珠さんが戦ったノブコ、今まで何度か襲ってきた獣達。

 あれと同レベル、いやもっと高いレベルの敵がここに居るのだとすれば、わたし如きが敵うはずもない。


 手すり越しに後ろを振り向いた。

 夜の住宅街。人通りもほぼなく、至って静かだ。


 確かに目には何も見えない。

 だけれど、わたしはその風景のどこかに、椿を見た気がした。

 わたしは、誰も居ない空に向かって微笑む。

 今更、何を不安がる必要があるだろうか。

 わたしは椿を信用している。何があっても、きっと椿が助けてくれるはずだ。


 もう一度わたしはドアの方を向いて、意を決してピンポンを押した。

 静寂。


「やっぱり、いないかな」


 はぁ、とため息をついた。居ないことにガッカリしたからではなく、何も事が起こらなかった事に安堵したからだ。

 いくら椿が後ろに居るとはいえ、このアパートの一室は言ってしまえば伏魔殿ふくまでん

 あそこのドアが開いてしまった時、わたしは何か恐ろしい力を持つ者の巣を目撃してしまうのだろうから。


「……いや、いずれまた来なきゃ行けないんだろうけど」


 そう、今日会えなかったからといって、もう二度と来なくて良い訳ではない。

 いずれにしても"ヤスヒロ"に会いに来る必要はある。

 つまり、問題が先送りになるだけだ。


 とはいえ、しばらく待ってもドアは開かない。

 もう、帰るしかないんだ。

 わたしは意気消沈の表情で、とぼとぼと階段へと向かった。


「待って!」

「……はい?」


 その時だった。

 わたしを呼び止める一人の男性が現れたのは。

 栗色の髪をした、顔立ちの整った男性。

 垂れ目がちで、人を殺そうなどと思わなそうな優しそうな見た目をした青年。


「ごめんなさい、着替えてたら出るのが遅れてしまって。それで、君は……」

「ええっと、わたし、桐本って言いまして、あのその」

「……君が桐本有里さんか。僕の家、分かっちゃったか」


 わたしの名前を言い当てた。やはり、この男がヤスヒロなのか。


「ヤスヒロさん……ですよね?」

「そうだよ、僕が庵原靖弘いはらやすひろ。ご覧の通りのだよ」


 彼は「よろしくね」と笑った。


◆◆◆◆◆


 部屋に入ると、獣臭がする以外は、至って普通な男性の一人住まい……多分、その中でもだいぶ片付いている方の部屋だった。

 伏魔殿と称するにはあまりにも凡庸な佇まいな気がする。

 ……待てよ。よく考えたらわたし、男の人の部屋にあがるの初めてだ。

 しまった、緊張の種がまた増えてしまったぞ。


 わたしはテーブルの前に腰掛ける。

 そこで菓子折りを渡すと、ヤスヒロさんは「一人暮らしでそんなに消化できないよ」と笑った後、

 その饅頭とお茶をわたしに出してくれた。

 よく考えたらもらったお菓子を出すのはおかしいかも知れないが、先程の言通り彼はあまり健啖けんたんな人間ではないのだろう。

 事実彼の手足は、スラリと細長かった。


「頂きます」

「あっ、待って」


 呑気に饅頭を食べようとしたわたしを、ヤスヒロさんが止める。


「それ、自分で買ってきたもの?」

「あ、いえ、違いますけど」

「毒、入ってるかも知れないよ」


 わたしは食べようとした茶色い饅頭を見た。

 まさか――と思ったが、彼の言う通り、ないとは言い切れない。


「僕が食べる」


 そう言いながら、ヤスヒロさんは別の包みを開けると、食べてみせた。


「えっ、良いんですか!?」

「……うん。遅効性の毒かもしれないけど、ご覧の通り」


 ヤスヒロさんは両手を横に広げ、自分が健在であることを誇示する。

 なんて度胸だ。毒入りの可能性を指摘しながら、自分で食べてみせた。

 この人は、尋常じゃない。


「ど、どうして食べちゃったんですか。毒入りかも知れないのに」

「毒入りだと君が知っていたら、そもそもそれを無邪気に食べたりしないだろう? 少なくても食べることには何かしらの動揺を見せるはずだ。どう見ても君は緊張しやすい性格だろうしね。逆に君が知らないとしたら、僕がこうして君に食べさせる可能性だって想定している筈だろう。作戦を考えた人間がよほどの馬鹿か冷血でない限りはね」


 言われてハッとした。一連のヤスヒロさんの行動は全てわたしを値踏みするための作戦だったという事か。


「もちろん桐本有里ほど僕を殺そうとしていた可能性もある。だけどそれはゼロに近いんだ。――貴方の周りにいる全員が、貴方を殺してはまずい事になると知っているから」


 まただ。

 また、わたしが特別な存在だと示唆してきている。

 一体、みんなわたしの何を知っていると言うんだ。


「それじゃ、本題に入ろうか、桐本さん。どうして僕に会いに来たの?」


 ヤスヒロさんは穏やかな笑みを浮かべながら、そう尋ねた。

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