第15話 15、恵の誘拐事件
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恵と千は無事に規定年限内で博士号を取ることができた。
博士課程に進んだ化学科の6名の同級生では結局3名が学位を取得できた。
3年の規定内で学位を取れたのは恵と千だけでもう一人の同級生は学位を取るのにさらに2年のオーバードクターを経験しなければならなかった。
残りの三名の同級生は学位取得をあきらめたのか博士課程単位取得後退学という形で大学を去った。
学生時期の成績は良い者達ではあったが、講義の成績と論文を書ける能力は違うらしい。
恵は重力遮断物質の磁場に対する一連の応答を幾つかの論文に重力遮断機構の仮説を含めて発表していたのでそれらをまとめて学位論文とした。
実際に重力が遮断され、横方向の力も生ずることがフライヤーのデモンストレーションで明らかになっていたのでほとんどの論文は修正無しで受理されていた。
千の学位論文は創傷の治癒過程を動的平衡と捉えることで治癒期間を短縮させるというものであった。
学位論文に先立って発表されていた幾つかの論文では創傷治癒に実験動物を使っていたが、それらの結果が人間にも適用できることは明らかであった。
実験動物では創傷治癒の期間が対照の4半分以下にも短縮された。
千はそれらの論文をまとめて学位論文とした。
一部の専門家は千の研究を医学の革命と高く評価した。
恵は固体構造講座を出て周先生の生物平衡物性講座に講師として採用された。
帝都大学では学生から講師への採用は異例の採用であったが、恵が発見した重力遮断物質の重要性は大きく、審査では異議は出て来なかった。
恵がその後の論文に示した重力遮断機構の仮説が化学領域だけに限らず色々な学域でも大きな反響を起していたことも一因にあったのかもしれなかった。
千は生物平衡物性講座を出て帝都大学重力遮断実験工場の管理官に採用された。
管理官とはいっても実験工場の従業員は一人もいなかったし、千が工場に行くことはあまりなかった。
千は管理官になってから恵に浮遊車椅子をプレゼントした。
浮遊車椅子にはフライヤーと同じ制御機構が付いていたし、恵も自在に操縦できたからだ。
恵に渡した浮遊車椅子には一つだけ新しい部品が付けられていた。
恵だけが操縦できるような認識部品が付けられていたし、その認識部品は位置情報も発信できるようになっていた。
周先生と恵の結婚式はまだだった。
「恵、学位を取ったら結婚するって言っていなかった。」
恵は千の居た室に入っており、千は恵がいつも掛けていた背の低い緑のソファに腰掛けて言った。
「うん、その予定だったんだけどね、ほら、私ここに採用されたばっかりでしょ。すぐに結婚したら変な目で見られるかと心配したので結婚は少しだけ延期することにしたの。」
「まあ、わからんでもないわね。周先生は相変わらず優しい。」
「優しいというより、どう私に対応していいのか混乱している様子。呼び方は相変わらず『恵さん』よ。」
「恵は周先生を何て呼んでいるの。」
「相変わらず『周先生』よ。」
「それじゃあ両方とも相変わらずじゃないの。」
「そうね。でも急に『あなた』なんて呼べないわ。」
「まあ、それもわからんでもないわね。」
「千は万様を『万様』って呼ぶようになったのはいつから。」
「私は最初から万様って呼んでいたわ。」
「そうか、結婚式が終わったら、はっきりと言うことにするわ。」
「強い奥様になるみたいね。」
「それはそうと、千。浮遊車椅子のプレゼントありがとう。」
「どういたしまして。」
「でもね、車椅子をどこに保管していいのか悩んでいるの。貴重な椅子でしょ。」
「そう言えばそうね。フライヤーなら雲の上の高空に浮かばせておけるけど車椅子では無理ね。そうねえ。向いの実験室にはESR(電子スピン共鳴)が置いてあってその床には厚い鉄板が敷いてあったわね。その鉄板に車椅子を固定しておいたらいいわ。磁石ロックは恵でしか回せないし、鉄板やESRが付いたまま浮かすことはできるけど入口や窓を通ることはできないわ。」
「それいいわね。可愛い椅子カバーを作って被せておくことにするわ。」
そんな会話から一週間ほど経った朝、千は周先生からの電話を受けた。
「おはようございます、周先生。どうかなされましたか。」
「千君、恵さんが誘拐されたらしい。警察に知らせる前に千君に電話しました。何か変ったことはありませんでしたか。」
「恵とはこの一週間会っておりませんでしたし、連絡もありませんでした。どうして誘拐されたと思われたのでしょうか。」
「恵さんはいつも私が大学に行く一時間前に出勤してクルコルを用意してくれておりました。さっき、研究室に入るとだれもいないし、実験室のドアが開いていたし、浮遊車椅子のカバーも取り去られておりました。恵さんの携帯にも電話したのですが通じませんでした。」
「確かに誘拐されたようですね。それも少し前に研究室で実行されたようです。私は少し調べて15分後に研究室に参ります。周先生は一つだけ、理学部の守衛さんに今朝ロッカーとか机のような物を運び出した業者がいたかどうかを聞いておいていただけないでしょうか。」
「なるほど、千君の推測は分りました。守衛さんに聞いてから研究室で待っております。警察には知らせた方が良いでしょうか。」
「十分に準備した大胆な犯行のようですから警察の手を経ると時間がかかるかも知れません。私が着くまで連絡は少し待っていただけますか。」
「そうします。研究室で千君を待っております。」
「了解。」
千は15分後に生物平衡物性講座の研究室に来た。
自動車ではなくフライヤーで来て、フライヤーは駐車場の上空十mに止めておいた。
「周先生、恵は誘拐されたようです。少し経過を調べてみました。恵は段ボールの中に入っておりますが無事です。今はおそらく此処から15㎞離れた国道を南に向かって進んでいる黒のワンボックス商用車の中にいるようです。調べたのが5分前でしたから今は少し違っているかもしれませんが、あの辺りは一本道ですからまだ走っていると思います。」
「もう恵さんの位置が判ったのですか。電話してから15分しか経っていないですよ。」
「恵と私は友達ですから友人の位置を知るのは容易です。後はその辺りの怪しそうな車を調べればいい訳ですからそれも容易です。」
「段ボールの中に入っていることまで分るのですか。」
「今朝、理学部から出て来て件の黒のワンボックス商用車に乗せたのは大きな段ボールであったことは防犯カメラに映っておりました。画像はまだハードディスクに残っておりました。ともかく早急に恵を救い出そうと思います。私一人でも十分ですが周先生も行かれますか。」
「行かせて下さい。婚約者ですから。」
「了解。」
千は周先生をフライヤーに乗せ南に進んだ。
フライヤーには一Gの加速をかけ、数分で国道を走る黒色のワンボックスの上空に達した。
「サーモレーダーによれば賊は5人ですね。前席に二人、後席に三人です。荷室にもう一人居りますがしゃがんでおります。それが段ボール箱に入れられている恵でしょう。さて、相手に気付かれないように車を止めなければならないですね。樹木を倒して道路封鎖にするか、後輪パンクにするか。道路封鎖はパトカーが来るのでパンクにしますか。久々に活躍することにします。周先生はフライヤーに居て下さい。フライヤーは安全ですから。」
「了解。千君は楽しんでいますね。」
「分りましたか。」
千は床の芝生を剥がして中から銃を2丁取り出して一つは座席の側面の小物入れに差し込み一つはスカートの隠しに入れた。
座席に差し込まれた銃は見たことがないような先の尖った形をしており、スカートの隠しに入れた銃は周も知っていたグロッグであった。
千は座席の留め具を外し、ドームを開いてフライヤーの外に移動した。
「周先生、この後は自動でドームが閉じます。フライヤーはあの車の上空に居させます。先生はガラステーブルのディスプレイで下の様子を見ていて下さい。ディスプレイに触れてはいけません。よろしいですか。」
「了解。気をつけて下さい。」
千はワンボックスの上空50mに移動し、少し右側に移動してから座席の銃を取り出し無造作に引き金を引いてから上空に移動した。
自動車は数百m走ってから路肩にゆっくり停車した。
自動車からは暫くはだれも出て来なかった。
「誘拐犯はプロね。」
千は呟(つぶや)いた。
5分も経ってから車の助手席から野球帽を被った一人が降り、周囲を観察してから窓を叩いて仲間に合図した。
中扉が開き同じような野球帽を被った三人の男が出て来てタイヤの交換を始めた。
最初に出て来た男は車の周辺りをゆっくりと歩いて周囲を見回していた。
運転手は運転席に前を向いて座っていた。
千は見張りの男が車の道路側に移動したとき上空から降下し、道路側の木立の中に隠れてからゆっくりと車に近づいた。
見張りの男が道路側に廻って来たとき千は開かれた中扉の横から男の首の下に向かって発砲し続いて運転席の首の後ろに向かって発砲した。
二人は崩れ落ち動きを止めた。
発射音はサイレンサーが付いていたのか小さな音だったがタイヤを交換していた男達は異常に気付き立ち上がった。
千は銃を構えたまま車の後ろ数mから現れ、男達に車の中に入るように無言で銃を動かした。
男達に近づくことはしなかった。
二人目が車に入った時、千はその二人の首下に向かって無言で発砲した。
二人の男は座席に仰向けに反り返って動きを止めた。
「死んではいないわ。動けないだけ。電気銃の改良版よ。2発射たれると死ぬわ。路肩の仲間を車に入れて。私には重いの。」
男は千を睨んだが黙って路肩の草むらの仲間を車内に運び込んだ。
「少し狭いけど車に乗って。」
男が後部席に仲間をずらして座ると千は発砲して男の動きを止めた。
そして車の中扉を静かに閉じた。
千は車の後ろに廻りバックドアを跳ね上げて荷台に載っていた大きな段ボールに向かって呼びかけた。
「恵、いる。千よ。いま開けるわ。動かないでね。」
千が段ボールの上を開くと猿ぐつわを噛まされ、両手を後ろで結索バンドで縛られた恵が現れた。
千は最初に男達の一人がぶら下げていたナイフを借りて恵の縛めを切った。
恵は自分で猿轡(さるぐつわ)を外し汚らしい物であるように箱の外に捨てた。
「恵、おはよう。大変だったわね。周先生も上空のフライヤーの中で待っているわ。一人で出て来れる。段ボールを倒そうか。」
「ありがとう、千。助けてくれて。段ボールを倒してくれない。出るには縁が高すぎるわ。」
恵は倒された段ボールから這い出して車外に立ち腰を伸ばした。
「恵、大変だったわね。現状を説明するわ。現在パンクで修理中の誘拐犯の車の近くに二人の若い女性が立っているの。これからの予定を言うわ。最初は車椅子とフライヤーをここに呼んで恵と私と周先生がフライヤーに乗るの。大急ぎで理学部に戻って恵と周先生を降ろしてから私はここに戻って誘拐犯を誘拐するの。警察では誘拐犯に命じた真犯人はなかなか分らないから私が調べるわ。恵は周先生と研究室で休んでいて。誘拐された時の様子は後で聞くわ。真犯人は誘拐犯からの報告を待っているはずよ。急がないとね。それでいい。」
「了解。ありがとう、千。」
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