第8話 8、察相の術
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恵と千は大学院の博士課程に進学できた。
帝都大学の理学部の化学科は望めば誰でも博士課程に進めるというものではなかった。
博士課程への進学は進学試験ではなく講座の教授が受入れるか否かだけに依(よ)っている。
講座の教授は博士号を取れそうな者だけを講座に受け入れる。
博士課程に進学させ学位を与えることができなかった院生がいることは教授と講座の恥であるらしい。
少なくとも帝都大学の理学部化学科の場合、博士の学位は独自で研究をすることができ論文を書くことができるという証(あかし)を意味した。
博士課程と違って修士課程の選抜は修士課程進学のための試験の成績によるので成績が良ければ誰でも進学できた。
修士課程進学の院生のおよそ半分以上は実社会に出て行く。
博士課程に進むと民間会社に就職できる可能性が極めて低くなるからだ。
年齢的につぶしができない年齢となってしまうし、研究領域が専門化するので企業は受入を敬遠する。
結局、博士課程の院生は幸運にも大学教員として残ることができるか、その学生を必要としていた少数の企業や研究所に入って行く。
帝都大学の理学部の化学科の場合、学生のおよそ半分が修士課程に入り、修士課程に入った学生の三分の一が博士課程に入り、博士課程に入った学生の三分の一が博士号を取得することできていた。
ここ十年の実績からすれば35名の学生から毎年二名ほどの学位取得者が出ていた。
千と恵の年次の博士課程への進学者は6名で恵と千はその中に入っていた。
千の部屋は4年生の時からずっと同じであった。
千の講座には不思議と学生も院生も入って来なかった。
「千、今いい。」
恵はノックもせずに古い木製の扉を半分開け顔を中に入れて言った。
「恵ね。どうぞ、いいわよ。」
「だれもいないけど、皆さんおじゃまさま。失礼致します。」
恵は中に入って千の机の横に置いてある脚の低い小型のソファーに深々と腰掛けた。
「千の室は他の院生がいなくていいわね。うちの講座では大部屋に男どもが自分のお城を作ってひしめいているわ。」
「そうみたいね。この講座には学生も院生もなぜかこの数年入って来ないの。入ってくれば面倒見てあげるのにね。」
「分らないでも無いわ。千の実力は皆が知っているもの。4年生は講座に分属する時には必ず講座の内情を調べるわ。千がいる講座に行きたい学生はよほど自分に自信がなければ躊躇するわ。」
「恵は調子はどうなの。」
「一応快調よ。昨日、重力遮断の論文をとうとう投稿したの。『理由は今のところわからない』ってことにしておいたわ。理屈の説明はまだ早いような気がしたの。」
「それでいいと思うわ。『重力は遮断できるものだ』ということを示すだけで十分よ。」
「私もそう思った。」
「だれでも追試をしたいと思うでしょうね。磁場の話は論文に載せたの。」
「書かなかったわ。理屈を示さなかったから記述する必要はなかったし書いてはならないような気がしたの。」
「おもしろい事態になるわね。短期間で追試験はできないし、例えうまいぐあいに包接化合物ができたとしても重さを測ってみても軽くならなかったという結果が目に見えているわね。」
「そうなりそうね。論文は通るのかしら。」
「もちろん通るわ。査読者には理解できないことで新しい発見だから。新しい発見は通すものよ。問題があるとすればその後ね。」
「皆が試してもできなかったということかしら。」
「そうなるわね。」
「どうしたらいい。」
「実際に空飛ぶ筏を作って浮かべてみたら。」
「それができればいいのだけど、そんなに大きな物は実験室では作れないわ。」
「確かにそうね。工業的に作るには新しい工場設備が必要だし、それは実験室とは違うし、場所とお金と新たなプラントの設計図が必要ね。恵一人だけでは荷が重いわ。」
「小さい物にしようか。」
「小さい物でも大きい物でも同じよ。大きい物を作るときは最初は小さい物を繋ぎ合わせるだろうから。」
「そうね、実験的に作るのと工業的に作るのとは違うわね。」
「手伝ってあげようか。」
「何ができる、千。」
「そうねえ。私にできることはお金とプラントの設計図くらいかな。お金はいくらでも出せるしプラントの設計図は書けると思うわ。」
「それならほとんど全部じゃないの。」
「全部じゃないわ。場所が必要だし管理する人間が必要だし、もし売り出すのならそれの対応が必要になるわ。」
「女学生二人ではなかなか難問ね。」
その時ドアをノックする音が聞こえた。
「千君、今いいかな。」
「あ、先生。どうぞお入り下さい。」
教授が薄い紙束が入ったファイルを持って入って来た。
「あ、お客さんでしたか。」
「紹介致します、先生。私の友人の恵で、固体構造講座に所属しております。」
「名前は知っております。千君と同級生でしたね。私は君たちが三年次の時に化学科に移ってきましたから講義をしたことはありませんでしたが、この前の教授会で今年度の博士課程に進学した6名の名前を知りました。その中に恵さんの名前が入っていたことを記憶しています。周と申します。よろしくね。」
「周先生のお名前はよく聞いております。うちの講座の4年次の学生は先生は夢を語る講義をなさると話しておりました。」
「そうですか。それは名誉なことですね。講義ではよく脱線してしまうのです。」
「千とは昔『想像を話す講義を聴きたい』と話したことがありました。夢を語る講義は素敵だと思います。」
「ありがとう、恵さん。お友達の千君にはお世話になりっぱなしですよ。」
「先生、何か御用でしょうか。後でお部屋に伺いましょうか。」
「いや、此処でいいでしょう。また論文の査読をお願いしたいので原稿を持ってきました。お願いできますか。」
「分りました。二日くらいでよろしいでしょうか。」
「もちろんです。千君の負担にならないようにお願いします。」
「出来上がりましたらお持ち致します。」
「ありがとう、よろしくね。恵さん、見た通り千君にはお世話になりっぱなしなのですよ。千君は査読依頼された論文を的確に厳しく査読することができます。驚くべき能力ですよ。最近では私の論文も投稿前に査読してもらっています。千君に査読してもらうようになってからは私の論文はほとんど無修正で通るようになりました。教授も形無しですね。」
「そんなことはありません。千は底なしに優秀ですから。」
「ありがとう、恵さん。でもそうかもしれません。千君は比較の対象ではないですね。私ごときでは想像も評価もできないほど優秀です。」
「先生、本人を前にしてあまり褒めないでください。赤面します。」
「いや、千君。恵さんはそれを知っているようですよ。ところで何を話していたのですか。底なしに優秀な美女とそれを認識している美女が何を話しているのかに興味があります。」
「ほんとに興味がおありのようですね、周先生。」
「わかりますか。」
「分ります、先生。私は察相の術を駆使できる忍者ですから。」
「まいったな。読心術ですか。意思を伝える能力もありそうですね。」
「恵、もう論文を投稿したから話してもいいわね。先生、恵は数年前に重力を遮断できる物質を発見しました。4年次と修士課程での研究を通して重力を遮断できる物質を作ろうとしておりました。結果的に、重力遮断物質を作ることができ、昨日その論文を投稿したそうです。現在、作ることができる重力遮断物質は実験的に作った小さな物だけです。空に浮かぶ大きな筏を作って我々が乗ってみるにはどうしたら良いかと相談しておりました。」
「空飛ぶ筏に乗る時には天女の姿になるといいですよ。絵になります。いや、冗談はさておいて、恵さん、凄い発見ですね。」
「ありがとうございます、周先生。でも、目標を持って研究を続けることができたのは千の的確な示唆のおかげです。」
「どんな物質なのですか。」
「カーボンナノチューブにリチウムを一列に埋め込んだ包接化合物です。」
「普通の原子でできた物質ですね。どうして重力を遮断できるのですか。」
「わかりません。ですから論文には重力遮断の理由は記述されておりません。でも重力は遮断されるのです。」
「不思議ですね。」
「そう思います。」
「えらく素直(すなお)ですね。ということは恵さんは理屈が分っているのですね。千君が理由を暗示したのですか。」
「周先生も察相の術を心得ていらっしゃるようですね。千、バトンタッチ。お願い。」
「だめよ、恵。周先生は私からではなく恵から聞きたがっているの。恵が理解している範囲で説明してあげたらいいわ。周先生、私から言えるのは電子の時間が重力を遮断しているとしか言えません。」
「電子の時間ですか。初めて聞く考えですね。」
「初めての現象ですから初めての考えが出て来るのだと思います。」
「そうかも知れません。時間ですか。時間と重力ですか。一生かかって考えてもいいテーマですね。それで恵さん、空飛ぶ筏は作れそうですか。」
「千が資金とプラント設計図を準備してくれるそうですが場所とか工場管理などの点でメドが立っておりません。女学生には難しい問題です。」
「そうかもしれませんね。でもこの計画の最大の難所は資金とプラント設計図です。それらが解決されているのなら後は小さなことです。千君が察相の術を使ってくれれば人間の問題も解決されるでしょうしね。」
「千、察相の術ってほんと。」
「単なる女の直感よ。」
「女の直感か。千には今の私の気持ちが判るの。」
「分っているつもりよ。」
「難しい話をしていますね。私に協力させてもらえませんか。今の私の地位なら土地の購入と適当な人を集めることは容易と思います。多くの知り合いもおりますから。」
「恵、お願いしようか。願いが実現できるわよ。」
「千がそういうのならそうしましょう。周先生、お願いしてよろしいですか。先生のご負担になりませんでしょうか。」
「負担にはなりません。喜んで協力します。いや、ぜひとも協力させてください。」
「恵、よかったわね。いろいろな意味で。」
「そうね。千の察相の術の能力は確信できたわ。」
「恵、空飛ぶ筏に乗る時には天女の衣装を着ましょうね。」
「羽衣みたいに海岸の松林がいいかな。考えておかなくちゃあね。」
「樹冠でクルコルを飲みましょう。」
「文字通り最高ね。」
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