第7話 7、優秀な学生 

<< 7、優秀な学生 >>

 恵と千は無事に進級した。

4年次では学生は各講座に配属される。

恵は固体構造講座に入った。

教授に希望を聞かれると恵は包摂化合物を研究したいと申し出た。

教授は少し驚いた。

通常、学生は教授が示すいくつかのテーマのどれかを選ぶことが多かったからだ。

恵は優秀な学生の一人であったし、卒論程度ならなんとでもなるだろうと思って許可した。

 千は学生がだれも希望しなかった講座に入った。

化学科には付置研究所も含め25の講座があり、35名の学生は希望の講座に入ることができた。

当然、講座には人気不人気があり、だれも希望しなかった講座も出て来る。

千が入った講座は生物平衡物性講座という最近に開講された講座で、構成員は教授一人だけだった。

講座の説明では広範な研究分野に亘る研究を謳(うた)っていた。

 「千君、この講座を選んでくれてありがとう。君の成績を調べて驚きました。教養部での試験も含めてペーパーテストでは全て満点でした。実習では全て満点というわけではなかったのですが、それは指導教官の意見の違いのような気がします。君に興味を持ったので入試の試験も友人に調べてもらいました。この大学では入学試験の回答用紙は学生が卒業するまで保存されます。君の解答用紙のコピーを見てまたまた驚かされました。全ての教科の一問目は無回答でその他の問題は全て正解でした。まるで全問正解を避けているように思えました。君はまさに美しい怪物ですね。」

上がアーチ型の鉄枠に歪んだガラスが嵌(はま)った窓を背にした椅子に座って両肘を木製の大型両袖机に乗せて生物平衡物性講座の教授は千に言った。

「先生、しばらくお厄介になります。よろしくお願い致します。」

千は机の前の椅子から立ち上がって丁寧に一礼した。

 「君は女性であるし、君の机と椅子はスタッフルームの中に置いておきました。この講座でのスタッフは居ないので君の個室のようになるはずです。学用品で必要な物があれば購買部で買って下さい。この講座の名前を言えば自由に研究費で買えるようにしておきました。他に必要な物があれば言って下さい。」

「いろいろご配慮ありがとうございます。私の研究課題は何でしょうか。」

「僕にとって君は初めての指導学生です。本来なら研究テーマをいくつか示すべきでしょうが、君なら自分で見つけ出せそうな気がします。生物平衡物性講座の名前の範疇に入る研究なら何でもいいです。できそうですか。」

「実験室を拝見させていただき何ができるか考えてみます。」

「そうして下さい。重ね重ねこの講座を選んでくれてありがとう。」

 恵は炭素の包接化合物をテーマに選んだ。

結合が強く骨格を作る原子の分子量が小さかったので浮かすのには都合がいいと思っていた。

カーボンチューブとカーボンシートをようやく作ったところで卒論をまとめなければならない時期が来てしまった。

カーボンチューブの円筒径サイズとカーボンシートの穴のサイズの制御方法は大学院での研究テーマとなった。

チューブとシートに入れる原子は水素かリチウムだろうと推測していたがどうやって同じ方向に整列させるのかはまだ先の話しであった。

 千は4月の中程から実験を始め、7月には最初の論文を投稿した。

シート状態にある細胞の粒子貪食の新しい解析法を示したものだった。

十月と十二月にも関連の論文を投稿した。

細胞の状態を変えた時のものと粒子の状態を変えた時ものだった。

もともと細胞を材料とする実験では完全な再現性は求められない。

前の実験と完全に同一な細胞状態など得られるはずはない。

『記述された状況にある細胞ではこのような結果が得られた。それはこのように説明できる』と述べるに留まる。

 千はこれまで多数の論文を書いて来た。

理学部と工学部と農学部と医学部と文学部と経済学部の論文はそれぞれが違ったが、論文と言う名前は当を得た名前だと千は思っていた。

どの分野の論文でもそれぞれの分野が許容できる論理に基づき主張を展開している。

千が投稿した三つの論文は一月には全て受理された状態になっており、千はそれらの論文をまとめて卒業論文とした。

自身の論文3報を参考文献に含む卒業論文は同期では千のものだけであった。

 恵と千はそれぞれの講座のまま大学院に進学した。

「千、お元気。最近はあまり会えなくなったわね。」

千が遅い昼食を学食で食べている時に恵がクルコルのカップを持って千の前に座った。

「元気よ。恵はどうなの。」

「異常な生活だと分っていても研究がおもしろくて毎日研究室に籠っているわ。」

「あまり家には帰ってないの。」

「女の子だから着替えとかお洗濯とかお風呂とかが必要だから家には必ず帰るわ。近くだしね。でもすぐ研究室に戻ってそのまま泊まってしまうの。」

「それほど異常な生活ではないわ。この時期にはよくあるパターンよ。でも数年したら外に出る必然を作らなければならないと思うようになるかもね。」

 「経験者なのね。千はどうしている。」

「私は万様のお世話をしなければならないから必ず家に戻るわ。」

「万様はお元気なの。最近は何をされているの。」

「元気よ。最近は世界の様子を調べているわ。」

「万様でもインターネットを使って情報を得ているの。」

「ヘッドラインだけよ。万様は見たいものを見ることができるから。」

「不思議な言い方ね。」

「万様は観自在菩薩の男性版なの。」

「やはり。ほんとうに神様なのね。」

 「そうね。恵の研究は進んでいるの。炭素の包接化合物だったわね。」

「カーボンチューブとカーボンシートは作ることができるようになったわ。中に入れる原子の種類と入れ方で悩んでいるの。」

「恵は目的物と原理を知っているわ。小さい原子でローンペア電子を一個持つものなんて水素とリチウムとナトリウムくらいでしょ。水素は固定できないし炭素と付いてしまうしナトリウムは大き過ぎるでしょ。入れるならリチウムしか無いじゃない。」

「そうなんだけどね。周りが等価だからランダムに入ってしまうと思っているの。」

「恵はSートルマリンの実験と万様の説明を忘れたの。レンツの法則を利用したら揃えることができると思うわ。」

「そうか、磁場か。上手く行くような気がするわ。」

「がんばってね。」

 「千は研究は進んでいるの。」

「まだテーマも決まっていないの。卒論はとりあえずのおっつけ仕事だったし、興味は失せているわ。」

「あれでおっつけ仕事なの。論文が三つも入っていたでしょう。そんなの4年生の学生では無理だわ。」

「おかげで待遇はいいわ。自分の研究は自分で見つけなさいって言われているの。」

「新しくできた講座だったわね。教授はどんな人なの。」

「まだ40歳の前半だわ。優秀なのね。スタッフが一人もいないのでご自身で実験されているわ。」

「千は手伝わないの。」

「手伝いの要請は未だないわ。あの方は自分の目で見たい方のような気がする。」

「研究者なのね。」

「そうね。」

 そんな会話からおよそ一年後、恵と千は理学部横の思索の森で出会った。

「千、また夕日の木漏れ日を見ているの。」

「あら、恵。久しぶりね。」

「ほんとに久しぶり。この一年、鬼のようになって実験していたから。この森を通るのも久しぶりだわ。」

 「森を散歩することができるようになったのね。」

「へへ、そうなの。できちゃった。」

「そうか、できちゃったか。おめでとうって言っていいの。」

「いいの。何か変な会話ね。他人が聞いたら別の想像をするわ。」

 「そうね。それで恵の赤ちゃんは予想通りの機能を持っていたの。」

「いい子よ。測る方向で重さが変ったの。重さが無いの。」

「カーボンファイバーでリチウムなの。」

「そうなの。カーボンシートではリチウムは入るけど重さは変らなかったわ。」

「いよいよ論文を書けるわね。」

「それで少し悩んでいるの。この一年、たくさんの実験をしてきたわ。カーボンファイバーの径を変えることもできるようになったしシートの穴も制御できるようになったわ。水素はだめだったけれどリチウムもナトリウムも他の元素も化合物も入れることができるようになったわ。どれも論文にすることができるように思えるの。全部の実験を記述するのは多すぎて量的に論文に合わないわ。それで欲がでたのね。論文の主眼を重力遮断にすると他の実験は無駄になってしまうでしょ。どうするべきかを悩んでこの森に来たら千に出会ったの。まさに縁(えにし)ね。」

 「そう。私の意見を聞きたい。」

「どうすればいいと思う。」

「気を悪くしないでね。恵はまだ院生であって世間から信用されていないの。最初から重力遮断の結果を示しても信用されないわ。査読者はその原因を述べるように要求するわ。たとえ恵が万様の説明を展開したとしても納得されないしその論文はリジェクトされる。今は恵の実験が信用されることが重要だと思うの。それに論文の主張は一つであることが重要なの。査読者はその方が判断しやすいの。性格が異なる色々な実験を記述して主張を複数にしてはだめよ。曖昧な論文になってしまうの。全部を入れたい時は著書とか学位論文でまとめればいいわ。私の意見としたら個々の実験で話しがまとまれば個別の論文にすべきよ。考察の部分で少しずつ恵の主張を述べていったらいいわ。真に主張したい事は『かもしれない』の言葉を入れて一論文一文よ。それ以上の長さはだめ。目立たなくひっそりと述べるの。論文が5-6報になってそれぞれに同じ方向の主張や仮説が述べられていたらその主張は恵の仮説として認められるようになるの。そうなってから恵の仮説に基づいて実験したら重力遮断物質ができたって論文を出せばそれは認められるし恵の仮説が真実になるの。」

 「千は論文の専門家だものね。わかった、そうするわ。」

「その子は黒いの。」

「真っ黒よ。まだ小さいけど。」

「大きくなったら何でも持ち上げることができるようになるわ。」

「空に浮かぶ家を作れたらいいわね。」

「宇宙にまで昇ることもできるようになるわ。」

「宇宙か。そんな展開になるとは思ってもいなかったわ。」

「それが人生よ。」

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