第6話 6、千の秘密
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それからの千は時々休むようになったが、大学に出席している間はいつもの通りだった。
「千、頼みがあるんだけど。」
恵が講義と講義の間のわずかな休み時間に言った。
「なあに。」
「千が休んでいる時に決まったのだけど今度の日曜日に数学科とソフトボールの試合があるの。男どもの魂胆があってのことだろうけど女性二名が必ず出場と決まっているらしいわ。数学科には三名の女性が在籍しているらしいわ。千も出場してくれない。」
「いいわよ。ソフトボールの試合は初めてだけどルールは勉強しておくわ。」
「よかった。千が出られなかったら相手の女性を借りなければならなかったの。」
「おもしろそうね。」
当日は快晴で大学の野球グランドにはかなりの人が集まっていた。
各科の教授や助教授や大学院生もじぶんの学科を応援するために来ていた。
なかには家族もつれてきているものもいた。
千と恵は白のスラックスに白いシャツを着て白い野球帽と白いスニーカーを履いて参加した。
相手のチームの女性も同じような服装だった。
グラブとバットと球は用意されていた。
どれも使い込まれた用具で、学科の倉庫に保存されていた伝統を感じる用具だった。
化学科は3塁側に集まり数学科は1塁側に集まっていた。
一人の老人が1塁側からバックネットの後ろを通って3塁側に近づいて来た。
「あの誠に失礼ですが千先生ではないでしょうか。」
老人は真直ぐ千の前に進み、千に頭を下げてから言った。
「はい、私は千と言いますがどなたでしたでしょうか。すみません、記憶にありません。」
「了でございます、先生。以前、学生の頃に千先生に解析概論を教えていただきました。教室に入ってからは先生のご指導で博士号を取らせていただきました。」
「あの了君ですか。だいぶ変ってしまわれたので想い出せませんでした。お元気ですか。」
「はい、先生。その後は同じ教室に留まることができ、教授になり無事に定年退官いたしました。今は名誉教授になって時々教室に顔を出しております。今日は学科対抗の試合と言うことで見物に来ました。先生の昔のお姿をお見かけし、不審には思いましたがここに来てしまいました。先生は我々の憧れでしたから。」
「歳が分ってしまいましたね。女は化粧で何ともなるのです。了君、私の歳は秘密です。今は化学科の学生ですから。」
「分りました、先生。先生と秘密を共有できて名誉に思います。それでは失礼致します。向こうで先生を陰ながら応援致します。」
「ありがとう、了君。長生きしてね。」
老人は深々と頭を下げてから1塁側に戻って行った。
「千、千はあの名誉教授の先生だったの。あの方は非常に有名な方よ。多くの数学の賞を受賞されているわ。」
「そう。昔は凛々(りり)しい青年だったわ。がんばったのね。」
「ますます千が分らなくなるわ。」
「世の中、いろいろと分らないものはあるものよ。そろそろ試合が始まるようね。私はどこを守ればいいの。」
「ライトは私のポジションよ。千はどこでもいいって皆が言っていたわ。」
「そう。それなら楽そうな1塁にするわ。」
試合は数学科の先攻で始まった。
千は役割を確実に果たした。
学生間のソフトボールの試合では三振はほとんどなく無く、内野ゴロになるか外野に飛んで野手のエラーで出塁する。
外野を守っている化学科の学生はあまりスポーツに堪能でないらしい。
千はゴロの送球を処理し、一塁ベースからかなり外れた送球を補給して走者より早くベースを踏み、とても捕れそうもない高い送球を身軽にジャンプして捕球した。
化学科の学生は千の守備に信頼感を持った。
一回の裏の攻撃では一番と二番が女性に割り当てられていた。
数学科もそうだった。
恵が一番で千は二番だった。
恵は相手投手の意思もあったのか四球で出塁した。
千の打席では相手の投手は真剣に投げていたようだった。
ボールがホームベースの前に落ちることはなかったし、球速も早くはなかったが球の回転は早かった。
ダブルプレーを狙っているようだった。
千は4球を見送った後5球目を打った。
千に大きな打撃動作はなく軽く腕だけでバット振っただけだったが、球は野球場のセンター中央のフェンスの十メート上を越えて土手の向こうに消えた。
皆はあっけにとられていた。
恵はホームで待って千を迎えた。
味方の学生も千を出迎えた。
「千、すっごくうまいのね。ホームランよ。」
「へへ。ホームランは走らなくてもいいからそうしたの。」
「次の打席でもそうしてね。」
「できたらね。相手もあることだし、そう簡単にはさせてくれないと思うわ。」
試合は打撃戦になった。
互いに点を取り合っていた。
相手チームの学生はなんとか出塁して千が守る一塁に留まりたかったようだった。
千は次の打席でも同じホームランを打った。
今度は明らかなアッパースイングをして滞空時間の非常に長いホームランとなった。
位置はセンター中央で前回と同じ方向だったが土手を越えてボールを喪失することはなかった。
三回目以後の打席では全て敬遠されたので千のホームランを見ることはできなかった。
最終回、一点差で化学科は負けていた。
千は化学科チームのキャプテンから丁寧に投手を頼まれた。
「千さん、千さんがうまいことは見ていてわかりました。この最終回を無得点にしていただけないでしょうか。そうすれば裏の攻撃で逆転することができるかもしれません。」
「いいわよ。キャチャーはキャプテンでしたっけ。キャプテンが構えたミットに必ず投げるからミットは動かさないで両手で持っていてね。豪速球だから。怖ければ目をつぶっていてもいいわ。必ずミットの真ん中に投げるから。」
「普通なら信じられないのですが千さんならそうすると思います。絶対にミットは動かしませんから。」
「了解、任せておいて、キャプテン。」
千の投手姿は美しかった。
細身の体に黒髪を白い野球帽の裾から垂らし、肩の前後に振り分けていた。
黒髪の先端はなだらかに内側にカールしていた。
野球向きの髪型ではなかったが千の頭の動きがなめらかだったためか黒髪が乱れることはほとんどなかった。
例えジャンプして捕球した時でさえ僅かに裾が広がっただけであった。
ピッチャーでの投球においても千は頭を真直ぐ立てたまま大きな腕の振りはせず手首のスナップだけで投球したので黒髪はほとんど乱れなかった。
球種は直球とカーブだけでキャチャーのミットに音を立てて吸い込まれた。
誰も打てなかった。
9球で三振を三つ取り無得点でおさえた。
その裏、化学科チームは二点を取ってさよならゲームとした。
数週後、恵は昼休みに理学部横の思索の森のベンチで千に聞いた。
「千、ごめんね。千を見ているとどうしても調べてみたかったの。この前のソフトボールの試合で千が数学科の名誉教授の学生時代の先生だったとわかったわ。千はどう見ても二十歳代にみえるもの。千の年齢が想像できなかったの。この大学は千年も続いているし千の家も千年続いているわ。それで大学の歴史を調べてみたの。この大学の前身は周平始皇帝時代に荒波提督がお作りになった学校なの。荒波提督はまめな方だったらしく沢山の文章を残しておられるの。その中で荒波提督の『唯一の先生』の話しが出て来るわ。その先生の名前が『千様』なの。荒波提督は絶世の美女であった千様に憧れていたらしいわ。『千様はとても理解できない溢れる程の知識を持っておられたし、実際にそれらを応用した多くの物をお造りになった』って書かれていたわ。それに荒波提督は『千様は武技に秀でており松の幹に槍を突き通し弓矢を眼前で掴み6名の密偵を瞬時に殺した』とも書いておられるの。千のこの前のソフトボールの凄い投球を見て千は荒波提督が書いている千様ではないかと思ったの。私の推測は当っている。」
「ちょっと間隔が短かったようね。まさか了君と出会うとは想わなかったわ。恵、恵の推測は当っているのかもしれないわ。」
「千は千年も生きているの。」
「千年も生きていることはできないわ。時々若返るの。」
「死んでもまた生き返るの。」
「死んだら生き返れないわ。生きている間の若返りよ。」
「そんなことができるの。」
「万様が作ってくれたの。」
「千のご主人ならできるわね。浮遊石のネックレスを数十分で作った方だから。」
「荒波殿は海穂国の軍使だったわ。この大学の前身の学校は私が作った軍事学校だったの。荒波殿は50名の第一期生の一人よ。確か一般教養グループだったわね。それで二代目の校長になってもらったの。その後の遠征では水光殿と二人で艦隊を率いて言語の世界統一をなされたわ。この世界が同じ言葉を使っているのは彼らの戦いの成果だわ。」
「千は歴史そのものね。」
「恵、私の歳も今のことも秘密にしておいてね。」
「了解。あの名誉教授が言った言葉と同じよ。千と秘密を共有できて名誉に思うわ。」
「恵は同士よ。」
「感謝、同士千。」
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