第5話 5、浮かぶネックレス
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千と恵が広大な農場の一軒家に着いた時、太陽は山端に沈むまでにはまだ太陽四個分の隙間があった。
千と恵が入口の重い扉を開けると中は明るい光に満たされていた。
入口正面の机には男が入口に向いて座っており、入口を興味深そうに見つめていた。
男は若いようにも中年のようにも見える中肉中背で、白いワイシャツに黒いズボン、素足の足には重そうなスリッパを履いていた。
「千、お帰り。恵さんですか、お待ちしておりました。」
「万様、ただいま戻りました。級友の恵を連れて来ました。お話はここで行いますか。」
「そうしましょう。恵さん、万と申します。ここに来て座ってください。千、私にはクルコルを、恵さんには恵さんが望む物を差し上げて下さい。」
「了解しました。恵、恵が挨拶する暇を与えなかったわね。飲み物は何にする。」
「私もクルコルをお願い。私は奥様の級友の恵と申します。この度は面会の機会を設けていただきありがとうございます。」
「どういたしまして。私も会える機会を楽しみにしておりました。何かご質問があるそうですね。話して下さい。」
「最近、私は一つの鉱物の重さが測定方向で異なることを見つけました。Sトルマリンと記されておりました。千にもそれを確認してもらいました。私にはどうしてそんなことが起るのか解りませんでした。私が見つけた事象は重力が遮断されたということでしょうか。もしそうだとしたらどのようにして重力が遮断されたのでしょうか。」
「いいですね、恵さん。修飾語は使いませんでした。修飾語は視野を限定させてしまうことがあります。ご質問にお答えします。見つけられた事象は重力が鉱物によって遮断されたということです。その機構の説明には若干の語彙と観測されている事実の確認が必要です。恵さんに質問してもよろしいですか。」
「大学生の三年次の知識の範囲内でしたらお答えします。」
「この星では人工衛星が飛んでおりますが、人工衛星内の時間の遅速は観測されているのでしょうか。」
「時間がわずかに、修飾語はだめでしたね、時間が遅くなることが観測されております。」
「重力場で光の進行が曲がることが観測されておりますか。」
「観測されております。」
「そうですか。人工衛星での時間が遅れたという事実は時間の進み方が人工衛星では地表で定めている時間の進行速度と異なると言うことを意味しております。状況によって時間の進行速度が異なると言うことを受け入れなくてはなりません。これは自己の認識において重要なことです。時間の進行速度は絶対的な一定ではなく状況によって異なるのです。それではなぜ人工衛星での時間進行速度は変ったのでしょうか。人工衛星は遠心加速度を受けていたからです。加速度場では時間の進行速度は変化するのです。重力は加速度場です。『ですから』と言いたいところですが飛躍しすぎますかね。我々が使っている時間速度は地表の加速度場に依存している可能性があります。もちろん地表での加速度場はこの星の重力が圧倒的です。この星の時間進行速度はこの星の重力で定まっているのかもしれません。重力の作用範囲は核力とか電磁力とか他の力の作用範囲よりも長距離に作用します。近隣の宇宙でもこの時間進行速度の程度は保たれるかもしれません。この星からずっと離れた宇宙空間での時間進行速度はどうでしょうか。ここと同じだと思いますか。この星のだれもおそらくそれを測定した者はありません。ここまでは理解できましたか。」
「はい。理解できたつもりでおります。この星では人工衛星の高さの数倍しか到達しておりませんからだれもそこでの時間進行速度を測れないと思います。」
「いや、測ることはできると思います。おそらく目的を持って測っていなかったかもしれません。例えば一秒に一回の周期で電波を発する装置を宇宙に飛ばし観測すればそこの時間進行速度が二倍早い場所であったなら受信機は一秒に二回信号を受けるかもしれませんね。電波の周波数も違って来るでしょうね。さて、人工衛星は主に二つの加速度場を受けております。一つは重力加速度で一つは遠心加速度です。人工衛星の時間進行が遅れたのなら加速度場の増加が時間進行速度の低下をもたらすと考えることができます。この星の空の星の輝きもその傍証になるでしょうがそれは置いておきましょう。人工衛星は遠心加速度で時間が遅れ重力加速度の減少で時間が加速し、差し引きで時間遅延が観測されたのでしょう。ともかく加速度場が増えると時間進行速度は遅くなると結論できそうです。ここまではマクロスケールでの話しです。」
「恵、わかる。わからなかったら話しの途中でも聞いていいのよ。」
「今のところは大丈夫よ、千。理解できたつもりになっている。今のうちにクルコルを飲むわ。話しの途中ではとても飲めない話しだわ。」
「さてっと。今度は小さな話です。原子には核があって電子があります。水素原子は陽子と電子でできていましたね。陽子を30㎝の球とすれば電子は4㎝の球で2㎞の半径を廻っていると考えられています。原子や分子は実際の物質の占有空間を考えればスカスカの空間になっております。この世は大部分が何も無い空間なのです。我々の体もこのテーブルも表面は分子を構成する電子で覆われております。表面の電子一個は弱い物ですから容易に飛ばされて静電気などが生じます。我々が床に立てるのは接触面で電子同士が反発している要因が多いのです。一つ一つの電子は弱いのですがたくさんになると強くなります。もちろん物の形ができるのは恵さんが学んでいる化学結合のためですがスカスカの空間に互いの物質が入り込まないのは電子同士の反発です。電子を持たない物質はスカスカの物質内に容易に入り込むことができます。」
万は続けた。
「それで、核一つと電子一つを考えてください。電子は核の周りを廻っていると考えられております。核はプラスで電子はマイナスですから電子は核の周りを廻らなければ核と出会ってしまいます。ですから原子それ自身はエネルギーを持っていることになります。電子は遠心加速度を得るため核の周りを高速で廻らなければなりません。電子はこの星の周りを廻っている人工衛星のようです。電子は相当早く廻らなければならないのでしょう。電子の遠心加速度は相当大きいに違いありません。ですから電子の時間進行速度は遅くなるはずです。それ自身の時間速度では早く廻っているのでしょうが我々の使っている時間速度で見えるとすれば止まっているように見えるかもしれません。電子といっても熱電子のような空間を飛んでいる電子の時間進行速度は遅くはないでしょう。電子自身の持つ時間と言うのはいろいろあるのかもしれません。」
万は一息置いて続けた。
「老人の話し方みたいですね。少し諄(くど)くなっています。要するにこの世の中は時間の重層性があると言いたかったのです。空間の個々の場所での時間進行速度があり、それはその場所の加速度場と関係します。恵さんの発見された重力遮断現象を示した鉱物の内にはおそらくある原子が同じ方向を持って並んでいて同じ方向の電子の回転をしているのかもしれません。同じ方向に廻っていれば同じ方向の遠心加速度が電子には働いており同じ方向の時間遅延が起っていたのかもしれません。」
万は続けた。
「ここからは推測です。恵さんは化学反応のルシャトリエの法則はご存知でしょうし、電磁気学のレンツの法則もご存知だと思います。共に変化を及ぼそうとする物理力に対してそれを打ち消そうと反応を起こすことです。共にもっともだと納得できる法則ですがなぜそうなるのかはよく分らない法則です。時間遅延に関しての同様な法則はおそらく発見されておりません。もしあったとすれば『外部から加速度が加えられるとその加速度を打ち消そうとする現象が起る』となるはずです。もちろんそれらができるためには何らかの余裕が必要です。ルシャトリエでは平衡的化学反応があり、レンツでは電流が流れる電気回路があります。加速度の場合は何でしょうか。私にはそれが時間であるような気がします。重力加速度が加わるとそれを妨げるような加速度場が生ずるためには電子の持つ加速度を変化させれば良いのではないでしょうか。それは電子の持つ時間進行速度を変えればできるのだと思います。幸いにも電子の時間遅延は我々の使っている時間速度と比較すれば時間停止が起っているような遅さでしょうから少しくらい早くなっても原子構造は保たれるのかもしれません。その原子は他の同種原子と比べて寿命は短くなるのかもしれませんが。」
万は続けた。
「千は重力遮断の実験の時に磁場の影響を測定しました。磁場の存在下では重力遮断の効果が高まりました。磁場はどんな影響を与えたと考えられるのでしょうか。推測ですが鉱物の中の原子の向きには余裕があるのではないでしょうか。磁場は重力遮断に関与する電子の向きを整えるようにしているのかも知れません。レンツの法則の範疇に入るのかもしれません。」
惠が言った。
「鉱石の重力遮断は鉱物を浮遊させる程に強くはありませんでした。今後重力遮断の実用化を目ざした場合どのような方向を目指したらよいのでしょうか。」
「恵さんがそんな物質を作ればいいと思います。鉱物が浮遊しなかったのは重力遮断している原子なり分子なりの数が少なかったからだと思われます。そんな分子だけでできている物なら浮くでしょうね。宇宙のどこかにはそんな岩があるのかもしれません。存在は秘密でしょうが浮くことができる貴重な宝石もあるのかもしれません。」
「そんな宝石はどんな色をしているのでしょうか。興味があります。」
「少なくとも分子が方向性を持っているのでしょうから偏光性を持った美しさでしょうね。」
「宝石はさておいて実用できる重力遮断物質を作るのにはお話では少なくとも原子を一方向に並べることが必要だと思われます。結晶ではその他の方向を持つ物が多すぎて効率が悪いと思います。どのような構造が推奨できるとお考えでしょうか。」
「電子を過剰に持つ原子を一列に結合させた分子を作るか、原子の筒の中に過剰電子を持つ原子を一列に入れたらできると思います。」
「どちらも難しそうですね。」
「恵さんは若い化学科の学生ですからそんな物質を作ることを心に秘めて勉強することも良いことだと思います。自分の研究ができるような環境になればそれほど難しいことではないでしょう。」
「今日のお話を聞く前までは時間のことが出て来るとは思ってもいませんでした。確かに時間と加速度は関係するように思えました。加速度場が、つまり時間進行速度がもし見えるとすればそれらは物の形をしていると思います。でも光で見る私たちは物の内部を見ることはできません。加速度場が見えるとして外側から物の内側の加速度場は見えるのでしょうか。」
「わかりません。そんな目の構造が分りませんから。でも遠い未来では空間の全ての位置での加速度場は測れるようになると思います。それは機械で物の内部の加速度場を見ることになると思います。」
「理由が分らなかったことが一つあります。お話をなさる前の質問で『重力場で光の進行が曲がることが観測されているのか』と質問されました。お話の中では重力場による光への影響は無かったように思えます。何故質問なされたのでしょう。関連はどのようにつけることができるのでしょうか。」
「話しの中には入っておりませんでした。光の進行が曲がるのは空間の場が重力で曲がっているためと説明されているはずです。でもなぜ重力場があると空間場が曲がるのかはおそらく説明されていないと思います。空間場というのは時間進行速度分布であると置き換えれば光が曲がる理屈も説明できるように思いましたので質問しました。」
「ありがとうございます。反芻(はんすう)して考えてみたいと思います。」
「千、恵さんにお土産(みやげ)をあげようと思います。女性ですからブローチとかネックレスのようなものがいいですね。どちらがいいですかね。デザインを考えてくれませんか。」
「万様、どちらにするのかもどんなデザインにするのかも万様自身がお考えになった方が恵は喜ぶと思います。」
「そういうものですか。難しいですね。弱りましたね。女の子が気に入るものですか。難しいですね。そういうものですか。恵さん、しばらく千と話をしていて下さい。ちょっと恵さんへのお土産を作ってきますから。」
そう言ってから万は真直ぐ前を向きながら部屋の奥の階段を下りて行った。
「良かったわね、恵。万様は恵を気に入ったみたいだわ。」
「私、失礼なことを言わなかった。」
「言っていないわ。恵が万様の言葉を理解していたことがわかったわ。新しいクルコルを持ってくるわね。」
恵が午後最後の二講の内容を千に話していたとき万が階段を登って来た。
万は椅子に腰掛けると握っていた右手を開いて恵へのお土産を黒光りする食卓の上に静かに広げた。
それは金の光沢を持った細い鎖でできたネックレスで中央に銀色の枠に嵌(はま)ったガラス光沢を持つ石が繋がれていた。
石は宝石のようにカットされていた。
「恵さんへのお土産としてネックレスを作ってきました。細い金色の鎖は金ではありませんが容易には切れません。何トンもの張力にも耐えるはずです。中央の石を挟んでいる銀色の枠も鎖と同じ物質で変形しません。プレス機で潰すこともできないと思います。石は今回初めて作りました。石のカットは宝石のカットを参考にして行いました。石の成分は今のところ秘密です。石の内部中央には発端のトルマリンで恵という名前を作って埋めてあります。色はピンクにしました。真っ正面から虫眼鏡で見れば読めるはずです。石は石の面に対しての加速度を遮断します。最初は全方位にしようと思ったのですがそれでは使いにくいと思って一方向にしました。恵さんの目標と言うことですかね。身につければ重さを感じないし、バランスが取れれば宝石に乗ることだってできるかもしれません。そう思ってはいるのですが初めてなのでわかりません。」
「万様、その鎖は良くありません。何かに鎖が引っかかると鎖は切れないで首が切れてしまいます。危険すぎです。」
「そういえばそうですね。ブローチにしますか。」
「いえ、普通の金の鎖にすればいいと思います。」
「そうですね。恵さん、鎖はお好きなようになさって下さい。この石は今説明したように加速度遮断できる石です。恵さんが浮遊石の宝石の色に興味を持たれたので作ってみました。可視光を吸収できる電子がありませんので透明です。屈折率はダイヤモンドより大きくなりました。分光スペクトル巾が大きくなっているので瞳に入る光の波長巾が狭くてきれいですね。この石はこうなります。」
万はネックレスの鎖を右手で摘んで持ち上げた。
宝石は鎖にぶら下がっていた。
万は鎖にぶら下がった宝石を左手で持ち上げて平らにしてから手を静かに離した。
宝石は落下することなく空中に浮かんでいたが鎖の重さを受けて鎖の方に移動し、それにつれて宝石は水平から外れて浮力を失い鎖に再びぶら下がった。
「恵さん、これが今日話した内容に対するお土産です。研究の道に入られて行き詰まった時にはこれを眺めて下さい。必ずできると言うことがわかるはずですから。」
「驚きました。この石をこの数十分で作られたのですか。」
「そうです。」
「千にはいつも驚かされっぱなしですがそれ以上に驚かされました。」
「この世には色々な人がいるのですよ。恵さん、またいつか会いましょう。千、恵さんを自宅にお送りして下さい。私は少し疲れました。下で眠ります。」
万は重そうなスリッパを引きずりながら奥の階段を降りて行った。
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