第2話 記憶が無くなってしまった話し

 36年前(昭和60年9月)に2年半交際した2歳年下の主人と、長女を妊娠したのを機に仕事を辞め25歳で主人の両親が住むこの田舎町の家に嫁入りした私ですが、出来ちゃった婚の走りですかね。この頃から徐々にこうした結婚も増えてきた様でした。

とは言っても、ここは田舎のさほど大きくない町の昔から住んでいた、ちょっとだけ旧家で有りましたので、少し大きめの近くの町の結婚式場で急ではありましたが結婚式を挙げて頂きました。

結婚して、

「この辺は田舎で交通の便が悪いから、車の免許をお金を出してあげるから取りなさい。」

と、お義母さんから言われ、妊娠6ヶ月の時に私の実家のある市の自動車学校に入校し、妊娠8ヶ月で卒検が合格するまで、教官様には非常に気を遣わせてしまいましたが、なんとか県の運転免許試験場で直ぐに免許を取得する事が出来ました。

あまり、この話とは関係は無いのですが妊娠6カ月から8カ月の間、交通法規等の勉強を自分なりに頑張ったせいかは分かりませんが、長女は現在薬剤師として病院と特別養護老人ホームを併設する病院の院外薬局に勤め、地域の学校薬剤師も務めております。この期間に妊娠中の母親がそれなりに頭を使う事は良いのかも知れませんね。このお話で重要なアイテムである、車の運転免許の取得エピソードです。(笑)

 ここから、話は多少脱線しますが、後日書こうとしている事を鑑みると、私と私以外の家族との関係性や、今に至る経緯等も全部では有りませんが、多少書いておいた方が良い様に思いますので、

「何で今こんなどうでもいい話を書くのかね?」

と疑問を抱くと思いますが、ご辛抱下さい。

 元々主人の両親は近くに在る湾で海苔の養殖と果樹園で温州ミカンや梅等の果樹の育成と果樹の委託販売を生業としておりましたが、二人とも体調を崩し、私達が結婚をする4年程前に海苔の養殖を止めて、最寄り駅の近くに大学が移転して来る事となったのを機に海苔の作業場を壊して、大学へ入学する遠方の学生用の下宿を建てる事にして、昭和57年2月完成、3月から入居可能になる様に、1棟を、2DKで2人で共同入居出来る様にし、居室2部屋とベランダ2つ・キッチンとトイレと洗面と風呂はセパレートですが2人で共用するという部屋を8室(最高16人入居可能)を建てました。その頃、未だ大学が完全にはこちらに移転していない時期では有りましたが、一時的に下宿から、その当時実際に授業が行われていた遠方の大学まで電車で通って貰った様です。その翌年の3月までに同じタイプの下宿をもう1棟12部屋分を建てて、大学が完全に移転してきて、こちらで授業が始まり、新入生や在校生の下宿生を受け入れる様に準備し、昭和58年4月の時点で2棟で40人の下宿生を受け入れる事となったそうです。義父は、大学移転に伴う下宿建設を、地元の地主さんに口説いて回っていた様ですが、その当時は海苔の養殖と、柑橘類の栽培で非常に潤っていた人が多くて、中々賛同してくれる人が少なかった様で、苦戦したみたいですが、数年後、下宿生の人数が多く、収入が期待出来ると分かって、必要以上に下宿が増えてきました。最初は初期に下宿を建てて大学に貢献した下宿が、

「大学指定下宿」

と名乗って、そして大学側から優先的に新期下宿生を斡旋して頂ける下宿の組合、

「家主組合」

を結成し、大学と提携し大学側が下宿案内所を設立し、下宿を希望する学生に安定して下宿を紹介して入居して頂き、問題が起きた場合も、大学・家主組合・大家の三つ巴で解決を図る仕組みを作って行きました。

「基本家主」として、移転初期から大学に寄与した下宿と(私どもの下宿もです)、「準家主」として、少し経ってから下宿を建てて大学に寄与した下宿とで、

「家主組合」

を再構築して行く事となり、それ以後に建てられた下宿については、実際の下宿生の人数より多い部屋数になる為、「家主組合には入れませんし、大学側からの斡旋は受けられません。」と組合から宣言しましたが、かなりの人が、それ以降に指定下宿では無いけれど指定下宿と銘打って下宿を建てて、以後、値下げ作戦や強引な客引き(新期下宿生に対して)等に依り、下宿生の争奪戦を繰り広げる事となっていきます。

「家主組合」では、色々な基準を設けて、一定以上の水準を守らなくてはいけない事となっておりますし、基準を下回る契約を結ぶ場合にも、それに至る場合の基準を決めてあり、それに準じる状況の下宿のみ基準より低い契約を結ぶ事が可能になるという様に、自分達で勝手に好き勝手な契約は出来ない事となっていて、「家主組合以外の家主」には、何の括りも無いので、より学生にとって有利な条件での契約を自由に提示したり、「家主組合」の下宿を内覧しに来た新期下宿希望生が宿泊している大学に指定されたホテル等にマイクロバスを出して、ほぼ強制的に自分達の下宿に連れて行って契約をしてしまう等、「家主組合」よりも早く契約をする事を懸命にずっと仕掛けて来ております。中々凄いですよ。

そして、私は結婚以来、この主人の両親と何時も一緒に下宿の管理や契約、果樹園の果樹の栽培、委託販売をして行く事となりますが、結婚から11年後に義父が食道癌になり、12年が経つ頃には亡くなる事となります。

義父が亡くなってからは、私が下宿の管理・契約・事務を一気に請け負う事となり、最初は、パソコンも出来ませんし事務は手書きで大変でした。勿論、果樹園も義母と一緒に頑張って栽培、委託販売をして行く事となります。

先程紹介した長女が高校生の頃に、私が、何時もの様にパソコンでの家賃の引落しに必要なSDカードへの金額入力を頼んだら、

「お母さん、入力をしてあげられない訳では無いし、してあげても良いけれど、自分のタイミングで自分の作りたい物ややりたい事を、やりたい様にやりたいだけやれる様になったら良いんじゃないの?パソコンの操作が出来る様になりなさい!」

と、叱られて、本を買って実際に必要な表計算や文章を作成し徐々に慣れて、今では、それなりにやりたい時に、やりたい事をやりたい様にやりたいだけやれる様になったのではないかと思います。

 平成17年に最初に建てた2DK8部屋の1棟を取り壊し、1K20部屋の木造の下宿に立て替えました。2DK12部屋は今も建っております。ボロボロで建て替えか、取り壊しか、大幅な修繕が必要ですが、それが出来ません。

何故かといえば、平成19年に主人が経営していた建売を主な生業としていた不動産屋が、債務超過に陥り、多分その前から主人は精神的に調子が悪くなっていた様ですが、とても調子が悪くなり、全く仕事が出来なくなり、融資を受けていた地元密着型の金融機関には下宿と農業で得る収入で毎月一定の金額を支払う約束で、一部財産の売却が出来る物は売却して返済しつつ、なんとか今まで住んでいる家や下宿等と、売却が出来ていない畑等の不動産で得られた収益のみで破産手続きを免れてきたのでした。ですから、新しい融資などは受ける事が出来なくて、下宿の大掛かりな修繕などは出来ないのです。

主人がやっと働くことが出来る様になったのは、令和1年9月に派遣会社の紹介で3交代制の工場で働く様になりましたが、重たい物を持つ仕事で体力がもたず2ヶ月働いて退社。それから、令和2年8月に特別養護老人ホームの中のショートステイの職員として本採用され、月に5度ほど有る夜勤と、早番、遅番、日勤等色々な時間帯での勤務を、令和3年2月に三女の長男を私達夫婦の養子にしたという責任を感じているのか、腰が痛いとは言いますが、なんとか続けて勤務しております。主人は、平成19年から令和1年の9月まで一度も仕事をする事は有りませんでした。

それから、下宿の新期の契約数については、平成22年頃から段々と目減りしてきて、何かしないと、どんどん入居者が減って下宿の存続も危ぶないと思い、私の出来る事で入居者数を増やすにはどうしたら良いかを考えて、お金を使えるのなら下宿を綺麗にリホームすれば良いのですが、融資は受けられませんので、お金を掛けずに入居率を上げる手段として、料理を出したら良いのではないかと思い立ち、保健所に相談に行ったら、自分の下宿の住人だけなら特別な施設を用意しなくても料理の提供はしても良いとの事でしたので、平成26年度の新期入居者と既存の入居者も2DKの棟の1階の一番東の101号室にて平日の夜のみ食事を出すことにしました。最初の頃は、3種類のメニューのみ、その中で好きな物を選んで食べてもらう様にして、ご飯もパックのご飯の200gか300gを選んでもらいどちらかをレンチンして器に入れて提供というとても簡易的なやり方をしておりました。それでも、その中で硬式野球部の学生が下宿に入居していて、たまたま監督に、

「うちの下宿は食事を出してくれますよ」

と紹介してくれたみたいで、野球部のコーチから連絡が入り、

「来年から新入生の野球部の部員だけを入れてもらえないですか?」

と言われました。家主組合の会長さんにお会いして許可を得て、平成28年度の新入生から野球部の部員のみ入れる事になりました。

食事の内容も、国立スポーツ科学センターの食堂がレシピを公開してましたし、他にスポーツ系の食事レシピを紹介しているサイトでレシピを拾って、作り易さと、コストがあまりかからず、肉と野菜を沢山摂れる事を心掛けて和洋中韓の主菜料理1品・副菜(野菜の和え物・卵料理の和洋中韓)の2品が1セットとして、色々と組み合わせて4月から8月頃まで、それこそものすごく沢山の種類の料理の組み合わせで次々と出して、皆の反応と自分も食べてみて、実際上どのレシピを残すかを決めました。メインの料理は2~3週間の間で出来るだけ同じ物が出ない様にと考えて決めて行き、1週間のメニューで和・洋・中・韓のバランスを考えて出せれるくらいの量のメニューをピックアップしていきました。後、ちゃんとご飯も食堂で炊いて器によそって提供する事にしました。

が、しかし、平成28年度7月大学側から大学指定下宿全体に通達がありました。

「平成29年度の新入生の新期下宿希望者で、大学が補助金を沢山出す強化部活(スポーツ部活の強い部活)は、大学の合宿所兼レストランの入った施設の近くの下宿を、強化部活の部員専用下宿にして、まとめて入居させて、平日の夜ご飯をそのレストランで食べる事を義務化する。」

そして、私どもの下宿のみ1年間限定の救済措置として、

「硬式野球部も強化部活の1つで有り、この括りの範囲内ですが、急な通達でしたので、そちらの下宿での今年度の新規契約対応が取りにくいでしょうから、29年度の新期野球部員の下宿希望者のみ、そちらの下宿に入居可能で食事もそちらで出して頂いても結構です。」

と、救済措置という名の段階的な野球部との決別への切り札を吞まざるを得ませんでした。

 いよいよ、平成29年度の新期野球部員の下宿生10人を迎え、在校生も併せ最高27人分の食事を午前中から準備に掛かり、副菜を先に作り、午後から主菜を作って個別に分けて、夜の7時から夜11時30分(時には、12時過ぎます。)まで、授業が終わり部活が終わってから、学生は食事を食べに来てくれて、片づけを終わると大体午前12時を過ぎてから家に帰ると言う生活を続けていました。

そして、運命の平成29年12月12日午後11時45分頃の事です。約3時間分の記憶喪失となる自動車事故が起きました。

後で、何故こんな事になったのかを一生懸命に考えていた時に、

「そういえば、何故下宿の食堂から片付け途中で家に帰って、また、下宿に戻ろうとしたのかな?」

何故だ?と考えていた所は、私の実家のある市の一番大きな市民病院の夜間外来の待合室で診察を終わって、救急車で運ばれた時に一緒に付き添いとして救急車に乗って病院に来ていた三女に、何が起きてどうしてこの病院に救急車で運ばれてきたのかを聞いている時に、その事が一番気になったのでした。しかし、一生懸命考えておりましたが、全然思い出せません。

それを考えつつ、主人に電話をする為に三女の携帯で迎えに来てくれる様に電話して、迎えに来てもらいました。12月13日午前4時00分頃迎えに来てくれて、主人の車で三女と3人で自宅に帰る道すがら、私に起きた事の概要を主人に聞きました。

「私は、何で救急車で病院に運ばれたの?全然覚えてないんだけれど。」

「あんたは、12時になろうとしている時に直ぐ近くの〇〇交差点で、家から下宿に向かう途中に事故に遭って、車はぐちゃぐちゃだし、あんたは、怪我とか有るのか分からないから救急車を呼んで連れて行ってもらって、俺は、相手側の運転手や同乗者と警察と事故車の対応をしていた。」

「私は、何で家から下宿に向かっていたのかね?午前12時近くになって、何時もなら未だ下宿で帰り支度を一生懸命にやっている時間なのに...」

「何でかは、分からんけど、下宿から家に帰って来て、何かを持って、リビングに居た△△(三女)とちょっとしゃべって下宿に車で出掛けて行ったんだけど、直に信号交差点の辺で、ドッカーンっという様な大きな音がしたから、俺は音が気になって2階から降りてきて、リビングに居た△△に話しかけてら、今お母さんが下宿から帰って来て、また下宿に出かけて行ったら直ぐに大きな音がしたから、今のお母さんじゃないの?っといったもんで、気になって見に行ったら、やっぱり、あんたが事故に遭っていた。」

「事故現場で、私は何をしていたの?」

「車から出て、ぼーっと立っていたもんで、携帯は?と言ったら、ポケットから出したけど画面がバリバリに割れていた。データは保存できていたから後で別の携帯で再生出来るから良いけどな」

「ふーん。本当...。事故自体、全然覚えてないけれど、相手はどういう人なの?」

「××町に住んでいる大学生2人で、取り敢えず別の病院に救急車で運ばれて、大した怪我もない様だ」

「今から、家よりも先に下宿に戻ってもらえない?多分後片付けの途中なんじゃあないかと思うから片付けてから帰る。」

「良いけど、体は痛くないのか?下宿の直ぐ傍の空きスペースが有ったから、事故車を取り敢えず置いてあるから見てから、下宿へ片付けに行ったら?車は多分廃車だぞ!結構グチャグチャになっていて動かなかったから押してそこまで持っていったんだから。」

「本当に?分かった。痛いは痛いけど... それにしても、何で途中で家に帰ったんだろうか?全然分からん。事故が起きた事もだけど、事故が起きる前の事も、下宿の食堂を何故早く出て家に帰って、また下宿に戻らないといけなかったのかも思い出せない。事故の瞬間も、あんたが来てくれたことも、救急車で運ばれて△△が付き添って来た事も、病院で診察を受けた事も、事故が起きる多分15分くらい前から事故後の2時間30~40分位の約3時間位の記憶が全く無いんだよ。記憶は無いけれど、私は、ぼーっと、しつつも動いていたんだよね?不思議だ。」

「とりあえず、下宿には行くけど、早く寝た方が良いぞ!日増しに身体は痛くなるぞー!」

「うん。家に帰ったら携帯の復旧を頼むよ。そうしないと、学生に事故に遭って身体が痛くて暫くの間食堂を休む事をLINEでお知らせしておかないといけないから。」

そんな話をしながら下宿の近くに駐車してあった私の乗っていた車の所に来て、グチャグチャ具合を確認し、

「そういえば、車両保険って入っていたっけ?去年までは入って無かったよね!」

「それが何と、入っとったんだよ!!!去年のあんたの、変な事故もどきがあってから、用心に今年から入っておいた。」 

「本当に!!!。良かった~。」

「それと、車の中の物を警察の居る前で全部出して家に持って行ってあるから、後でちゃんと全部有るか確かめておけよ。車は廃車だから、取りに来るまでここに置いておいて良いそうだから。」

「分かった。後で確認しておく。」

下宿の食堂で、洗い物の残りを洗って、拭いて仕舞って、車の中で待っていた主人と、三女と一緒に自宅に帰りました。

家に帰り、先ず、車の中から持ち帰って来てくれた物を確認したのですが、1つ見覚えの有る様な、無い様な段ボールの箱が有って、それをよく見たら、下宿の学生から頼まれた、大家宅方学生宛ての食品で、学生自体が受け取れる時間指定が出来ないから、私が、大家宅で受け取って後で学生に渡す約束をしていた荷物でした。冷蔵品でしたので、冬とは言っても常温になってしまいましたが、また、冷蔵に戻し、一旦寝ました。

そうです、預かった荷物を下宿の食堂に持ってくるのを忘れてしまって、未だ学生が起きているのを、外から電気が点いているかいるか確認して、取に行ったんですね。

こんな事も、全く思い出せなかったんです。

事故の原因とか、私の記憶が全く無い事と、相手側の意見などは私には届いていないので分からないのですが、自損事故として車両保険で車の廃車手続きが出来た所だけは良かった。

事故当時に、衝撃で脳が揺れたのでしょうね。多分。


あ、これを書くことを忘れてはいけませんでした。

実は、この交差点では、この日の朝早く死亡事故が起きています。この事は、私の事故には関係は無いかと思いますが、救急車や警察は、

「またか!!! 何か有るのか?」

と、思ったに違いありません。多分...。






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