13.姫として、騎士として・中


 ユージーンは目を覚ました。

 部屋の中に朝日と呼ぶには強い日差しが入ってきている。利き手である右手を寝台について起きようとして、ずきりと指が痛む。痛みに耐えきれず起こしかけた体が再び寝台に倒れ、反対側の手で右手を押さえると、そこには普段と違う手触りがある。

 包帯が巻かれているのだと気づいて、それから何があったかを少しずつ思い出していく。

 フランシスを引き留めようとして、彼の腕をつかんで、そのせいで彼の体のバランスが崩れて、同時に自分も倒れそうになって―― それから? 

 腕を強く引かれた感触と、背中を支えられたような感覚が残っているが、それが現実だったのかそうでないのかわからない。少なくともユージーンの知るフランシスという人間はそういうことをする人種ではない。

 そこまで思って、ふと考える。

 彼がホッジズ家を出て、もう十年だ。

 家を出る前ですらさほど交流のなかった兄である。彼が何を思って、何を思わなかったか、ユージーンには知る由もない。

 ユージーンは右手の指に巻かれた包帯を見つめた。と、部屋の扉がこんこんと打ち鳴らされてから押し開けられる。

「お、起きたか、ユージーン」

 入ってきたのは数日前に門で一緒に勤務をしていた騎士グレゴリー・モフェットで、彼はユージーンが起きているのを見ると安心したように顔をほころばせた。そしてそのまま医師を呼びに行って、ユージーンは医師から診察を受ける。

「みんな心配してたぞ。外傷は突き指しか見つからないのに半日も寝てるからどっか変なとこ売ったんじゃないかって」

 どこにも異常がないことを確認してから医師が帰ったあと、グレゴリーは冗談交じりに言って、「まあ最近忙しかったよな」と付け足した。彼の腕には包帯が留めてある。

「ほら、俺これだから、警備からちょうど外されてて。今他にだれも手が空いてないから、怪我して逆によかったかもな」

 はは、とグレゴリーは短く笑いをこぼしながらユージーンに水差しから水を注いで手渡した。

「…… 怪我の方はどうですか?」

「え? 怪我人が他人の怪我を心配するなよ」

 彼は笑いつつ、窓際にある椅子に腰を下ろした。

「全然大したことないんだよ。幸い刺さったところもやばい場所じゃなかったしさ。―― この前、ミルドレッド様が俺のとこまでわざわざ謝りに来たいっておっしゃってるって話聞いた時は困ったけど」

「…… すみません」

 ユージーンがつい謝るとグレゴリーは「どうしておまえが謝るんだよ」と言ってまた笑った。ふと、ユージーンの目に、向かいにある寝台が入ってくる。シーツが少し乱れていて、誰かがそこにいたのが見てわかる。

「もしかして、そこに…… 兄がいましたか?」

「ああ。いたよ。さっきまで寝てたけど、外の風にあたりたいって――」

 グレゴリーが言い終わる前に、ユージーンは立ち上がった。後ろでグレゴリーが呼び止めるような声が聞こえるが、聞いている余裕はなかった。



 部屋を出て、宿舎の外階段を上がっていく。たぶん、さっきフランシスと一緒に落ちた場所だ。そこには擦れた跡も、傷も、なにひとつついていなくて、いつも通り、何事もなかったようにそこにいた。

 宿舎の屋上へ出るとすぐに、十年前まで兄弟としてひとつ屋根の下で暮らした男の姿が見えた。声をかけようとすると、フランシスは己の唇の前に人差し指を立てて、静かに、という仕草でユージーンに伝えてきた。そして、その指で下―― ここから見える城下を指し示してくる。

 城下の大通りに神官の長い列があった。列の中ほどには神の遣いの衣装に身を包んだミルドレッドがいる。途中決められた位置で立ち止まっては聖句を口にして、神官らが鈴を鳴らし、また先に進む。そしてまた立ち止まっては、同じことを繰り返す。

 ミルドレッドは真剣な顔で儀式に臨んでいる。

 その時、ミルドレッドと神官らの列を見ている人々のうち、母親の足元に立っている小さな子どもの手から小さなおもちゃが落ちて、運悪くミルドレッドの足元まで転がっていった。そしてちょうど、手にした神器で足元がよく見えていなかったミルドレッドは、たった今子どもが落としたおもちゃにつまづいて神器を地面に落とした。

 瞬間、儀式が止まった。

 あたりには静寂が訪れ、近くにいた神官、子どもの母が青ざめ息を呑んだ。

 ミルドレッドが子どもの方を見やる。青ざめた表情のまま今にもひれ伏しそうな様子の母親をよそに、地面に落ちた神器はそのまま、自身の足元にある子どものおもちゃを拾い上げる。

 そして子どものところまで歩み寄ると、そこへしゃがみこみ、子どもにおもちゃを手渡した。だれもが静かに見守るなか、ミルドレッドは自身の髪に差されたいくつかの花のなかから一本を抜き取ると、それを子どもの髪に差した。子どもがなにか言って、ミルドレッドがにこりと微笑む。

 慌てて地面に落ちた神器を拾い上げた神官が、神器をミルドレッドに渡して、儀式は再開された。



 ミルドレッドは綺麗だと、ユージーンはあらためて思った。

 隣で同じように今の一部始終を見ていたフランシスは、ふうっと息を吐きながら屋上の段差に腰を下ろした。彼の足首にはユージーンの右手と同じように包帯が巻かれている。

「それ……」

 ユージーンがおそるおそる言うと、フランシスはああ、となんでもなさそうに足首を見た。

「軽い捻挫。大したことないって」

「本当に?」

「なんで俺がおまえに気遣わなきゃなんだよ」

 顔をしかめてそう言われれば、ユージーンは黙るしかない。フランシスはほどけそうになっていた包帯を結び直しながら

「俺、明日にはもう帰るし、姫様にももうなにもしないから、安心しろよ」

と言った。祭事が始まる以前の彼の態度からは想像できない言葉に、ユージーンは驚いて彼を見た。

「たぶん、おまえが羨ましかったんだよ。結局のところ」

 続いてフランシスが口に出した言葉はユージーンにとって想像もできないもので、同時に自身が彼に思い続けていたことでもあった。

「家族とか、騎士としての立場とか、おまえが城のみんなに応援されてるのとか、そういうの全部。俺がもう一生がんばっても絶対手に入らないものを持ってるんだって思うと、悔しくて、悲しくて…… そこにいてあたりまえみたいな顔してるおまえが憎らしかった」

「…………」

 ユージーンは言葉を選んでいた。知らずのうちに、長い間会ってすらいなかった彼を傷つけていたのかと思うと、どうすればいいのか、なにが正解なのか急にわからなくなった。

「…… 父も母も、この十年ずっとおまえのことを心配してた」

 ユージーンが言うと、フランシスは「そうか」と一言つぶやいた。

 憎らしかったというわりにはフランシスの表情はおだやかで、ユージーンはますますわからなくなる。どうして彼が、足を怪我してまでユージーンをかばってくれたのか。どうしてミルドレッドから手を引くようなことを言ったのか。

 フランシスが立ち上がる。杖を使うのに慣れていないのか、その足取りは足の捻挫のことを差し引いてもかなり不安定だ。ユージーンが急いで手を差し伸べると、身振りで大丈夫だと断られてしまう。

 彼は騎士になりたかった? 貴族の息子として、王女であるミルドレッドと釣り合うその身分と引き換えにしても?

「部屋まで送ろうか」

 ユージーンが申し出ると、いや、いいよとまた断られる。

「少し一人で歩きたいから。父さんと母さんに、よろしく言っといてくれ」

 じゃあな、とフランシスは言うと、今度こそ行ってしまった。



 祭事が終わると城内は静かになる。すっかり静かというほどではないが、それでも祭事の前から最中の数日間の慌ただしさに比べればかなりおだやかな時間が流れている。

 城門は、今朝方からずっと、ひっきりなしに馬車が出ていっている。祭事のために城を訪れた貴族たちが、引き上げていくのである。

 ユージーンは訓練場の道具の手入れをしていた。フランシスもアンバー卿と一緒にそろそろ帰る頃だ。どうも落ち着かない。

「ユージーン、いた」

 そんな声に顔を上げてみれば、訓練場の入り口から顔をのぞかせる姫の姿が見えた。ミルドレッドは訓練場の隅で軽い打ち合いをしている騎士たちをちらりと見てから、訓練場の入り口にある低い段差に腰を下ろす。

「騎士はもう、いつも通りなの?」

「いや、片付け作業にあたってる騎士もいますよ。劇団用に設営した舞台の撤去だとか」

 俺は行ってないですけど、と言うユージーンの手に包帯が巻かれているのが目に留まる。ミルドレッドが「それなに?」とたずねるより先に、視線に気づいたユージーンがぱっと手を背中に隠す。フランシスと話していてうっかり足を踏み外したなんて格好悪くて言えない、と思ってうつむき、道具の手入れをするふりをする。

 ミルドレッドはそんなユージーンの顔をじっと見つめた。あまりにじっくり見つめているのでユージーンが「なんですか」と問うとようやく口を開く。

「ベンなんてもう勉強を再開しているのよ」

「…… 姫様は勉強なさらないんですか?」

「お祭りの次の日くらい休めばいいのにね」

 姫様は祭りの次の日じゃなくてもなにかと理由をつけて勉強や稽古を休んだり逃げ出したりしていますよね――。ユージーンはそう言いたかったが、口に出すすんでのところで飲み込むことに成功する。

 ユージーンが黙ると、ミルドレッドも再び沈黙した。しばらく道具の手入れに集中しているふりをしていると、ミルドレッドが言った。

「アンバー卿がさっき、父のところへ帰りのあいさつをしに行くのを見たかけたわ」

「…… そうですね」

 姫の口から聞かされた言葉にユージーンはつとめて冷静に返した。

「昨日話した時に、フランシス本人から聞きましたよ。今日帰るって話は」

「…… 本当に?」

 幼馴染の返答に、ミルドレッドがうろんげな顔をする。

「本当に、ちゃんと話した? 言いたいことや言わなきゃいけないことは全部言った?」

 姫の目が、声が、まるで自身の身に起きたことを怖れるようなそれだったので、ユージーンはついたじろぎそうになる。

「姫様には関係のないことです」

「そんなことない」

 思わずミルドレッドを振り向く。そこには、普段の甘えたような、わがままを言うような、幼い姫君のまなざしはなかった。

「言うべきことがあって、それが言える状況なら迷わず言ってほしいの。…… 勝手に押しつけてるだけだっていうのは、よくわかってるから」

 ユージーンは手入れの手をすっかり止めてしまっていた。

 ミルドレッドはいつものような、友人と会話するような喋り方であっても、どこか臣下としての距離を感じるような声とは違う気がする。ユージーンはゆっくりと立ち上がった。

「…… 父に言伝があったのを思い出しました。なんとなく、正門にいる気がするので行ってきます」

 言うと、ミルドレッドの顔がぱっと輝く。

「私もついていってもいい? 遠くから見ているだけにするから」

「…… どうぞ」

 本当なら見られたくもないが、遠くからとか彼女らしくない譲歩の仕方をされては許可するしかない。



「…… ん?」

 ユージーンが正門に向かうとフランシスはすぐに気づいてこちらを振り返った。彼は首をかしげて「なに、見送り?」と冗談ぽく聞いてくる。姫様に言われて、とは言わない。

「アンバー卿は?」

「べつの馬車で、先に帰った」

 周囲を見回して聞けば、フランシスが答えた。その手には、小さな包みがある。ユージーンの視線に気づいたフランシスは「ああ、これ」と包みを持ち上げてみせる。

「父―― ホッジズ団長が、夫人が作ったから馬車の中で食べろって、クッキー持ってきてくれて」

 父と言いかけ、周囲の人々を見て言い直すフランシスに胸が痛くなる。

 ずっと奪われていると思っていたが、本当はこちらからも奪い続けていたのかもしれない。昨日から、そんなことをぐるぐると考え続けている。

「…… 昨日、言おうと思って言わなかったことがある」

 今よりもっと、傷つけてしまうのかもしれないと思うと怖かった。

「ミルドレッド様の、正式な護衛になりたいんだ。おまえにも、だれにも譲れない。…… 今まで、たくさん傷つけてごめん。これからも傷つけると思うけど、でも」

 ふいに頭に手を乗せられ、そのままかきまぜられる。ユージーンは戸惑いの声をもらした。髪をめちゃくちゃにされてから手を離されたので顔を上げると目の前でフランシスがにっと笑った。

「俺も言ってないことがある」

「え?」

 思いもしない返答にユージーンは思わず声を上げる。

「演技な、真面目にやってみようと思ってる。今回役をもらえたのはまあ、おこぼれっていうか、親父の―― アンバー卿のおかげもあるから」

 フランシスは続ける。

「〈グラス・ホッパー座〉は彼女のお気に入りだし、ちゃんと向き合おうと思って。…… それに、演技上手くなったら、俺の方見てくれるようになるかもしれないし?」

「は?」

 フランシスの思いがけない言葉にユージーンが再び声を上げると、ちょうど馬車がやってくる。身をひるがえしたフランシスに、ユージーンは急いで馬車の入り口に向かい彼の腕を支えた。フランシスは一瞬驚いたような顔を見せたが、今度は断られなかった。

「おまえ、たまには家帰れよ。母さんが寂しがってるって、父さん言ってたぞ」

 馬車に乗るとフランシスがそう言って、ユージーンは「一応帰ってる」と返した。

「祭事の直前にも帰ったし」

 それはフランシスの動向を探るためだったが。言うと、フランシスが「じゃあ今日も帰ってやれ」と返してくる。

「そして俺のために焼かれたクッキーの残りでも食え」

 じゃあな、と言うとフランシスは馬車の扉を閉めた。こっちの印象を悪くするために、わざと憎まれ口を叩いたのだろう。

 でもやっぱり嫌いだ、とユージーンは思った。


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