12.姫として、騎士として・前
(六)
ミルドレッドのわがまま―― もとい、モニカの〈バタフライ座〉の劇への出演は無事に許可されて、劇自体も滞りなく終わった。父は案外、見た目のわりに融通の利くところがあって、役者の事情まで理解したうえで納得してくれた。しかし、許可を出してからすぐにエイドリアンは「いいのか?」とミルドレッドに聞いてきた。
―― よりによって城中の、そして城下のみんなが楽しみにしていた劇団の公演の、それも主演を自分のひいきの役者に変えたとなれば、相当の批判を覚悟しなければならないと。それでもいいのかと。
(…… 私は、ただ)
ユージーンにいいところを見せたくて、頼れる主人なんだと思ってほしくて、ただそれだけだった。劇団のことが、どうでもいいなんて思ったわけではけしてないけれど、そっちの方がずっと大事だったのはたしかだ。
名声とか、王になることだとか、そんなことはどうでもよくて、正直よくわからないことばかりだけど、小さい頃からずっとそばにいてくれたユージーンの悩む姿だけは見ていたくなかった。悩んでいるのなら力になりたいけれど、よく考えたら自分には相談しにくいことなのかもしれない……。年も違えば身分も違うし、性別も違う。前にも思ったことだが、性別だけで言えばベンジャミンの方がユージーンの気持ちをわかってやれるのかも……。
「…… なに?」
王と王妃、そして王子であるベンジャミンとミルドレッドの四人は彼らのために用意された天幕の中にいた。すべての出し物がたった今終わったところで、ちょうど王と王妃が城へと引き上げていた。
姉にふいに見つめられたベンジャミンは、怪訝そうな顔でミルドレッドを見返した。
「姉さん、このあと明日の打ち合わせがあるんでしょう? 早く戻った方がいいよ」
「うん……」
そばで部屋へ戻る準備をしている侍従らを横目にしつつミルドレッドはねえ、と弟に向かって問いかける。
「ベンって、ユージーンのこと好き?」
思わぬ問いかけをされてベンジャミンは今度こそ姉を心配するように眉根を寄せた。
「…… もしかしてユージーンともなにかあったの」
「とも、って」
「父上と言い合いになったって聞いたよ」
どこから漏れた情報なのか。それとも本人から聞いたのか?
ミルドレッドは父が疲れた様子でベンジャミンに自分の愚痴をこぼす様子を思い浮かべながら「言い合いっていうか」と口にした。
「ただ、話している途中でお父様が私に興味も関心もないのがわかったというだけ」
その時ベンジャミンがさっきとは別の意味で眉をひそめたのを、うつむいて話していたミルドレッドは見ていなかった。ベンジャミンは「そう」と言って立ち上がると
「僕はそうは思わないけど」
と言った。
「姉さん、ずっと一緒にいるから忘れてるのかもしれないけど、ユージーンは騎士団長の息子で、次の団長候補の筆頭なんだよ。そんな人間を王位継承者のそばに置くのを父上が許してるってことの意味を、姉さんは少し考えた方がいいよ。だいたい……」
そこまで口にして、ベンジャミンははっとしたように姉を見た。ミルドレッドはうつむいたまま、しかしいつものような強気な表情はすっかりなくしていた。
「…… ごめんなさい」
「え、いや、その」
思いのほか強い口調で言ってしまったせいか落ち込み気味になってしまった姉の前で、ベンジャミンは慌てた。
その一方で、ミルドレッドは弟の言葉を静かにかみしめていた。
単純に、城内に同じ年頃の子どもがいなかったからというのもあるだろうけど、それでもミルドレッドにとってあの出会いは宝物だった。最初に出会ったのが、ユージーンの双子の兄フランシスだと知らされても、それでも。
この先の人生で、ユージーンと離れ離れになるかもしれない人生で、ふとした時に思い出すのは、最初の出会いじゃなくこれまで一緒に過ごした日々の方なんだろう。
「―― 私、ユージーンと対等の、ユージーンに見合う人になりたいの」
ぽつりとこぼした言葉は、ベンジャミン以外のだれにも聞こえてはいなかった。ベンジャミンはまた「そう」と素っ気なく言った。
「じゃあ、なったら。ユージーンは、僕には要らないから、あげるよ」
そして立ち上がると、侍従とともに去ろうとする。と、途中でぱっと思い出したように振り向くと、「騎士なら今頃そのへんを見回りしてるよ」と告げて今度こそ去っていった。
弟の後ろ姿を見届けると、ミルドレッドも天幕をあとにした。
神の遣いの役を演じるミルドレッドは美しかった。
自分なんかが触れていい存在じゃないと、思い知らされた。ユージーンにしたってそうだ。どんな小細工でもごまかしようもない歴然とした差がそこにはあって、フランシスの前に立ちはだかっていた。
『―― だれ?』
幼い頃は体が弱く、城下の屋敷の中かあるいはたまに連れてこられる城でほとんどの時間を過ごしていたフランシスにとって、ミルドレッドは初めて会った同年代の異性だった。
『あっ、わかった。お父様が言ってた、今度からミリーと遊んでくれるひとでしょ』
その日は体の調子がたまたま良くて、どういういきさつだったかは覚えていないが、騎士団長である父に連れられて城へ行った。
―― まるで、物語に出てくる妖精かなにかみたいだった。目の前に突然あらわれて、見た者の心を奪う。
べつに、こっちは名乗りもしなかったし覚えてもらっているなんてまさか思いはしなかったけど。それでも、少しくらいの割り込む隙間があるんじゃないかとか、そういうことを考えていた。
騎士の宿舎の屋上から、城下の様子がよく見える。もしも自分が騎士になっていたら、何度も見ていたのかもしれない景色だ。
「…… あなたには…… あなたにだけはわからない……」
父に言われて、ミルドレッドが執心しているという劇団に入ったのはちょうど一年前のことだった。昨年の祭事のすぐ後で、演劇に興味のないフランシスにとってはミルドレッドに関わってなければただただ面倒なことだった。
思えばずっと、自分という存在を主張するのに必死だった。一日のほとんどを寝ているか、そうでなければ椅子の上でじっとしているだけの子どもじゃないんだと。つまらなくも、可哀想でもないんだと、主張するのに必死に生きていたのだと、他人を演じて初めて気づいた。
「…… 僕の苦労を知らないで――」
ひとりでぼそぼそと劇の台詞を口にしている最中やってきた人影に、フランシスは声を止めた。
「あ……」
フランシスとまったく同じ姿形をしたその生き物は、彼を見るや小さな声でそうつぶやいたかと思うと、咳払いをして居住まいを正した。
「騎士の宿舎は、関係者以外立ち入り禁止だ」
その生き物が吐いた言葉にフランシスはたずねる。
「家族も?」
「え…… あっ」
フランシスは思わず笑った。
「ちょっと見てみたかっただけだよ。自分が見るかもしれなかった景色をさ」
もう行く、と彼の横を通り過ぎようとすると、たったさっき彼が上ってきた階段の下に同僚らしき騎士の姿が見える。
「おまえもさっさと仕事に戻った方がいいんじゃないの」
「ああ…… いや、ちょっと待っ――」
ふいに腕をつかまれて、今まさに階段を下りようとしていた足元が揺らぐ。同時にユージーンの体勢も崩れ、前のめりに階段へ突っ込みそうになる。フランシスの目には自身と自身の目の前で起きていることが必要以上にゆっくり動いているかのように見えていた。それなのに己の体は思うように動かず、フランシスは必死で弟の方へと手を伸ばした。
(…… いない)
ミルドレッドは部屋に戻る途中、辺りを見回しながら歩いたがユージーンには会えなかった。すれ違いになってしまったのだろうか。ホッジズ団長のところで待っていれば会えるだろうが、ミルドレッドとてこのあと神殿で明日の打ち合わせがあるしそうまでする余裕はない。ちょっと前までは、会いたいときに会いに行けたのに。
祭事が終わったら元通りなんだと思いたいけど、ユージーンだってもう大人だし、ミルドレッドだってあと三年もすれば成人する。そうなれば、二人で会える時間は今よりぐんと減るんだろう。初めて会ったときから、会わなかった日などほとんどない。
神殿長や神官長との打ち合わせを終えると、すっかり日が暮れていた。祭りの間はずっと天幕の中で座りっぱなしだからか、背中が痛い。少しだけ横になろうと寝台に体を横たえたところで、ミルドレッドの意識は遠のいた。
夢を見ていた。
幼い頃、父が王になって、一緒に城に来たばかりの時の夢だ。
ホッジズにユージーンを紹介された日のこと。
新しい家と、新しい母親が受け入れられずに、わがままや意地悪を言ってユージーンを困らせたこと。
何度も城を脱走して、唯一成功したあの日のこと。
責任感からかついてきてくれたユージーンと一緒に城下で迷子になってお腹を空かして泣いたこと。ユージーンは城下で見回りをしている騎士を探しに行こうとしてくれたのに、ミルドレッドがもう歩きたくないとかここを動きたくないとか言って駄々をこねて、そうしているうちに雨が降ってきて、無事見つけてはもらえたけれど、結局そのあとふたり仲良く風邪を引いたのだった。
というか、ミルドレッドが引かせたのだが。出会った時から今の今まで、ユージーンが体調を崩す要因のことごとくにミルドレッドがかかわっていたような気さえする。
それなのにずっとそばにいてくれた。
王の命令かもしれないけれど、それでも。
ミルドレッドが、今まで何度も彼の存在から安心を得て、励まされてきたのは、ユージーンがいたからだ。
偶然出会った〈山猫一座〉から思わぬ申し出をされて舞台に立った時も。
聖都でモニカを助けたいと無理を言った時だって。
舞台袖で、あるいは後ろで、ユージーンが見てくれているとわかったから、あんなことができた。
彼がそうしてくれたように、ミルドレッドからも彼に同じものを与えたい。そういう関係になりたい。
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