11.迷いと決意と・後

『おお、リゲル。わが生涯の友よ。僕はいったいどうしてしまったというのだろうか』

 その人物が舞台に上がった途端、観客は一様にしてざわめいた。一部は、待ちわびていた〈バタフライ座〉の看板役者、ジュディスではない役者が舞台に上がってきたことに。一部は、〈グラス・ホッパー座〉の―― もとい、オルコット家の令嬢が舞台に上がっていることに。

「…… おい、どういうことだよ、あれ」

 アイザックもまた、例外ではなかった。ギルバートが横で言ってくるが、答える余裕はない。

 今回の〈バタフライ座〉の演目『一番星をさがして』は、記憶をなくしてしまった主人公シリウスが親友のリゲルとともに旅をしながら記憶を取り戻していく物語だ。

 記憶を失っているとはいえ、元来の明るさでシリウスは困難に立ち向かっていく。この演目自体は、各地を興行で回っている時に偶然見かけて、話題の劇団だからと一度だけ観たことがある。ジュディスの演じるシリウスは、底抜けに明るい世間知らずの、よく言えば純朴な青年といった感じだったがモニカが演じると一転、暗い過去を背にそれでも気丈に振る舞おうとする健気な青年のできあがりだ。

 同じ役者として、どちらがいいとはあまり言いたくはないが、育てた身としてはモニカの演技の方が好ましいと、アイザックは思った。

「モニカって、男役の経験なんかあったっけ?」

 ふと横でギルバートが首をひねったので、アイザックは「あるよ」と答えた。

「おまえが劇団に入る前な、つってもあいつも入りたてだったけど―― そんときに何回か」

 無論、手ほどきをしたのはアイザックだ。あのように美しく成長してしまってからは、女性の役ばかりしていたが。

 アイザックは、舞台上のモニカをじっと見つめた。

 恋人だったスピカとの再会、宿敵ベテルギウスとの対決を経てシリウスは己が失くした記憶、そしてなぜ記憶を失くしたのかを思い出す。

『本当はわかってた……。自分がとっくに死んでるんだってことくらい―― この愛おしい記憶も、あの忌まわしい記憶も、みんな神の御許に返さなければいけないということも、すべて。すべて―― すべて!』

 モニカの演技は今までにない気迫で会場を包み込んでいた。観客はみな圧倒され、彼女の次の挙動を固唾を飲んで見守っている。

『それでも僕は、ただなぞっていたかった。スピカのことも、ベテルギウスのことも、そして君のことも。いつか消えてしまう、あの星の光ように儚いものだとしても……』

 ―― 女性の役ばかりしていた、のではない。

 自分がさせなかったのだ。

 どんどん芝居を覚えて、看板役者として成長していくモニカに。自分の手から離れていってしまうモニカに。

 自分がいなくなっても、なんでもできてしまうようになった彼女を見るのが怖かった。未熟なままにしたのは、アイザック自身だったのだ。

 彼女はこんなにも、立派に育っていたというのに。



 幕が下りてから、アイザックは舞台の方へと向かった。〈グラス・ホッパー座〉の者だと伝えると、案外簡単に舞台袖の方へと通してくれる。役者の邪魔にならないようそっと中をうかがうと、ちょうどモニカが出てくるところだった。

「…… よかったよ」

「―― 本当?」

 一言感想を告げると、モニカはまだ役の残った表情のまま、少年のように笑ってみせた。

「じゃあ、モニカ・オルコットが〈グラス・ホッパー座〉を背負って立てるのももうすぐかもね」

 アイザックは黙った。彼の表情に気づいているのかいないのか、モニカは少し微笑んで

「いつまでこっちにいられるの?」

とたずねてきた。その、アイザックがいなくなるのを前提とした問いかけに、アイザックは思わず「いいのか?」と口にした。モニカは「いいなんてことないけど」とアイザックのとなりを歩きながら言って、それから彼の数歩先でふいに立ち止まる。

「シリウスをやって、初めて舞台に立った時のことを思い出した。シリウスと違って台詞もたったひとことだったけど、信じられないくらい体が熱くなって、もっとここに立っていたいと思った。この気持ちを教えてくれた、ザックと一緒に」

 遠くを見つめるモニカの髪が風になびいて、見る者の視線を奪った。

「…… だからね、ザックへの気持ちに区切りをつけるのは、私にとって巣離れみたいな意味合いになるんだろうなってずっと思ってた。…… 長い間一緒にいたからって、気持ちも同じとは限らないし、それぞれに思うことがあっていいとは思うの」

 髪をなびかせながら、モニカが振り返る。その姿はもう、かつての少女のそれではなかった。アイザックが一瞬見惚れたのもつかの間、モニカの顔がいたずらっぽく笑む。

「ま、それはそれとして勝負が完全に決まるまで引き続き口説かせてもらうけど」

 想定外の言葉が飛び出して、アイザックは思わず「え?」と声を出した。

「ちょっと待て、これ快く俺を送り出そうって話じゃないのか」

「そんな話してないけど―― なに、あのみっともない説得で私が納得するとでも思ったの?」

 鋭く言われてアイザックは言葉を詰まらせた。

「…… じゃあなんの話なんだ」

「足掻くならお好きにどうぞ、という話。私も好きなだけ足掻くから」

 足掻くってなんだ、とたずねる前にモニカは続ける。

「資金援助なんて必要ないくらい有名になって、借金なんてすぐに返してみせるわ」

「いや、だからあれは、劇団を作るためとはいえ俺がひとりで作ったも同然の――」

「結婚したらどっちだって同じよ、そんなの」

 モニカの言葉に、アイザックはまたしても言葉を失う羽目になる。こちらの反応をうかがっているモニカの前でアイザックは深いため息を吐く。

「勘弁してくれよ……。いつからそんなにたくましくなったんだ」

 モニカは「さあね」と言いながら楽しそうに微笑む。

「頼りない誰かを好きになった時からじゃない? ―― 言っておくけど私、しつこいから覚悟してね」

「…… お手柔らかに頼むよ」

 背中をぽんと叩かれて、自身のそこが丸まっていたことに気づく。他の誰でもない、彼女に気づかされたことを不思議な想いで受け止めながら、アイザックはモニカの横を歩き出した。



 王が招いた劇団らの公演や出し物が終わると、祭りはすっかり終盤の雰囲気を醸し出す。ユージーンは城壁のそばをひとり見回っていた。すぐ近くの城の中庭を相勤者が見回っているので正確に言えば一人ではない。祭りは城下での催しがほとんどなので、城内は関係者の姿ばかりがちらほらと見えるだけ。ユージーンの見回る場所には、人の影すらない。あったとしてもせいぜい逢引をするくらいにしか使われないだろうと思いつつふと城壁を見上げると、誰かが壁の上に腰を下ろしている。

「あの」

 ほんの少しだけ声を張り上げ、注意しようとすると、壁の上の人物がこちらを振り向いた。

 整った顔に、長い手足。〈バタフライ座〉の、怪我をした役者だ。ジュディスといったか。向こうもユージーンの顔を覚えていたのか、あ、と気づいたような顔をする。そして、怪我をした方の手をかばいながら城壁のそばの木をつたって器用に降りてくる。

「すみません、危険なので城壁に上るのは一応禁止になっていて……」

「そうなんですね。すみません」

 ジュディスは素直に謝った。

「一座のみなさん、さっき片付けが終わってそろそろ帰られるみたいでしたよ」

 ユージーンがつい先ほど見かけた〈バタフライ座〉の様子を教えるが、ジュディスは何とも言えない表情のまま戻ろうとしない。

「…… もしよければ、控室までお送りしますが」

「あ、いえ、大丈夫です」

 道がわからなくなってしまったのかと思いたずねれば、慌てて否定されてしまう。

「少し、考え事をしていて―― 劇、観られました?」

「いえ、警備をしていたので」

 反対にジュディスから問いかけられて、ユージーンは正直に答えた。

「でも、好評だったと聞いています」

 ジュディスはそうですか、とため息交じりに言うと、たったさっき自分が降りてきた木にもたれた。

「…… 私、演技を始めてまだ一年と経たないんですよ。座長に―― エマに熱心に誘われてね。なかばなし崩し的に始めたんですけど、必要だって言われて始めたのに私がいなくても成り立つって、それじゃあ私はやっぱりいなくてもいいってことじゃないかとか思って…… すみません、急に何の話って感じですね。姫様のおそばにいるような方にする話じゃないですよね」

「わかりますよ」

 戻ります、と身をひるがえしたジュディスの背中に向かって言うと、彼女の顔が驚きに満ちた表情で振り返った。

「俺も一応、少ない席を争う身なので――、控室なら、こっちの方が近道です」

 ユージーンが指さすと、ジュディスは大人しくついてくる。

「できることならずっとそばでお仕えしたいと思いますけど、それはこっちの事情じゃないですか。いずれ大人になればお役御免になるのはわかってたし喜ばしいこと、なんでしょうけど」

 そして多分、ほかの誰かと一緒になったミルドレッドのそばにいる自信が、覚悟が、自分にはない。ふとモニカの言葉を思い出す。彼女の言う通りだ。自分はもっと、姫に仕えるということを、彼女を想い続けるということに、覚悟をしなければならなかった。

 ジュディスははあ、と呆けたような声を出して、言った。

「騎士様だからといって絶対に安泰というわけではないんですね」

「まさか」

 ユージーンは苦笑交じりに言った。

「貴族出身の方が昇進は有利だし、でもそれは裏返して言えば貴族の家に生まれたら責任から逃れられないってことですから」

 なるほど、とジュディスは頷いた。

「みんなそれぞれ大変ってわけだ」

「そうですね」

 廊下に入ると、曲がり角をちょうど曲がってきた〈バタフライ座〉の役者が見える。彼女がたしか、エマだったろうか。

「それじゃあ、自分はここで」

 ふたりの邪魔をしないよう、踵を返す。視界の端で、ふたりがなにか言葉を交わしているのが見える。

 さて、明日は祭事の最終日にあたる。ということは、ミルドレッドの最後の仕事が待っている。


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