9.迷いと決意と・前
(五)
祭事の一日目は夜から始まる。とはいえ、当日のミルドレッドの朝は早い。ひととおり予行練習を済ませたあと、昼からは数時間かけて衣装に着替えないといけない。
ユージーンはというと、父であるホッジズ騎士団長についていることになるので、ミルドレッドのそばにはいない。
―― この先もし、ベンジャミンの方が王になったとして、そうなればユージーンはベンジャミンの側近になる可能性が高いわけだから、ユージーンがそばにいない環境にもいい加減慣れないといけない。いかに遠い未来の話でも、その日は多分来るのだ。
予行練習が終わって部屋に戻る途中、廊下の反対側から歩いてくる男の姿を目にして、ミルドレッドは声をかけた。
「フラン」
「これは姫様、ごきげんうるわしゅうございます」
初めて会った時とは打って変わった丁寧なあいさつにミルドレッドは苦笑した。
「もっと気軽に話してくれていいのに」
ミルドレッドが言うと、フランシスは「そういうわけにもまいりません」と困ったように笑った。そしてやや声の調子を落として
「もっとも、気軽に話せる間柄として受け入れてくださるのなら話は別ですが」
と言った。首を傾げるミルドレッドへ「申し訳ありません、私も準備がございますので、これで」と言いながら姫の手を取ると、甲へと軽く口づけをするふりをしてから去って行った。
ああいうことをされたのは初めてだ。
ユージーンを含め、城にいる者たちはこんなこと絶対にしないし、舞踏会やら園遊会やらで会う貴族たちもミルドレッドのことをまだ子ども扱いしているから、なんだか新鮮だった。
「姫様、フランシス様と仲がよろしいんですか?」
部屋に戻って衣装に着替えるための準備をしていると、ひとりの若い侍女が侍従頭の目を盗んで聞いてきた。その後ろではまた数人の侍女がわくわくとした表情で何事か耳打ちしあっていて、さっきのフランシスの行動は確実に火種となったことを知る。
「このまえ聖都に行った時に、たまたま会ったの。それだけ」
ありもしない噂を広められてはフランシスも、そしてミルドレッド自身も迷惑である。そっけなく答えると彼女は「えー、そうなんですかぁ」といかにもつまらなそうな声を出した。
「でも、フランシス様もお体さえ丈夫だったら、今姫様のそばにいるのもユージーンじゃなかったかもしれないんですよね」
「え?」
髪を梳きながら別の侍女が言った言葉に、ミルドレッドは思わず振り返る。
「あの人、どこか悪いの?」
ミルドレッドが何も知らない様子なのを察して、侍女ははっと口をつぐんだ。
「申し訳ありません、私、余計なこと――」
「いいから、教えて」
侍従頭が帰ってくるととがめられてしまうと思って急いで聞き出すと、その剣幕に押されたのか彼女はおずおずと話し出す。
「姫様がまだ、あちらの屋敷にお住まいだった頃の話です。ホッジズ団長には二人子どもがいたんですけど、片方は体がかなり弱くて、とても騎士にはなれまいということだったので、アンバー家の養子に。…… それくらいしか私は存じ上げません」
なにかがふっと腑に落ちた。
あのふたりの間に流れる空気も、フランシスに会った時のユージーンのあの表情も。
ユージーンのあの、怯えたようですらあった表情のわけを、自分はまだなにも知らない。
ミルドレッドは、さっきフランシスに口づけられた手の甲を見た。
(本当はわかってる)
ユージーンがなにも話してくれなかったのは、自分が幼いせいだ。いつもわがままばかりで、困らせるか怒らせるかしかなくて。主人というよりは、手のかかる年下の幼馴染くらいにしか思われてないんだろう。
もっと、ベンジャミンみたいに賢くて、父のように威厳があって、フェリシアのような落ち着きがあれば、ユージーンをひとりで悩ませることもきっとなかったのかもしれない。
そうしたら、ユージーンともっと対等な関係でいられたのかもしれない。
侍女たちの手によって完成していく神の遣いの姿を、ミルドレッドは鏡越しにじっと見つめた。化粧もひらひらした衣装も、舞踏会や園遊会のたびに着せられるが自分には似合っているとは到底思えなくて、完成するたび振り返って「どう? 変じゃない?」とユージーンに問いかけるのが常だった。
ミルドレッドは立ち上がった。
フランシスがミルドレッドに初めて会ったのはアンバー家の養子となることが決まって、実家を出るちょうど前日のことだった。たまたま中庭に出たら姫がいて、なんて綺麗なんだろうと思った。造形的な美しさなんかじゃなくて、道端で偶然きらきらひかる小石を見つけたみたいに、大切に大切に小さい手の中に包んで。
いいか、うまくやるんだぞと養父に言われながら、成人して約十年ぶりに城へ足を踏み入れた。
『…… そそのかせということですか?』
『人聞きの悪いことを言うな。…… 人には向き不向きがある。正しい方向へ導いてやるのも臣下の役目さ』
要するに父は、アンバー卿は息子を使ってなんとしても政権に食い込みたいのだ。劇団に出入りするよう仕向けたのも父だが、その思惑もむなしく、〈グラス・ホッパー座〉は祭事の招待劇団から外されてしまった。本命は〈バタフライ座〉だったが、あそこは女性ばかりの劇団であるうえに父が劇団長にひどく嫌われているため入団どころか見学さえかなわなかった。
(べつに、劇団に入ったところで姫が自分を気に入ってくれるとは思っていなかったけれど)
どこからか楽器の音がする。祭事が始まるのだ。五日間にわたって開催され、その初日と最終日に神の遣い役が城から神殿へ、そして神殿からまた城へと火を届ける。今年その役目をするのがミルドレッドだと聞いて、例年よりも多くの貴族が集まっている。
(だいたい、役者ならギルバートの方が有名だし、人気だし)
あれに勝てるわけがないと思いつつ、城下に降りて広場の方へと足を向ける。姫は城から神官らを引き連れて神殿へ向かうので、姫が通る道には多くの人が集まっている。その中にひとり、知った姿を見つけてフランシスは声をかける。
「モニカ嬢は?」
「けんか」
「あんたと?」
「ザックと。―― 勘弁してほしいよ」
ギルバートはうんざりした様子で言うと大通りへ目をやった。城の方から、衣装に身を包んだ集団がやってくる。
ミルドレッドは綺麗だった。綺麗で、眩しくて、汚したくなる。ユージーンと同じだ。
「きれいだなぁ」
「うん」
ギルバートが言って、フランシスは頷いた。
「ありゃ、もう行っちゃったか」
突然後ろから聞こえた声に、フランシスは反射で振り返る。ギルバートは彼が来るのを知っていたのか、頭をかきながら列を見送るアイザックに「遅いんだよ」と文句を言った。
「劇の方、なんか準備に手間取ってるみたいでばたばたしてるなあと思って見てたらうっかり」
「見てたんなら手伝ってやればよかったのに」
「それが彼女たち、みんな隙のない感じでどうも声がかけづらくて……」
ぼそぼそと言い訳を並べるアイザックと三人で城下に設営された観劇会場へ向かって歩き出す。
〈グラス・ホッパー座〉に代わって公演することが決まった〈バタフライ座〉は、女性ばかりの劇団で、とある豪商に資金援助をしてもらっている。団員もほとんどを貴族で構成された〈グラス・ホッパー座〉とは違い、中流貴族から地方の山村の娘と様々で、身分の区別なく、ある意味国内ではもっとも自由に演技をしている劇団といえる。
「…… モニカも、ああいうところでやる方がいいのかもな」
「なに言い出すんだよ、あんたはもう」
ギルバートがため息を吐きながら言った。
「そんなこと言って、本当にモニカが向こうへ行っちまったらどうすんだよ」
「そりゃあ俺だってそんなの困るけど……」
アイザックはそう言いつつも、迷うように目を泳がせた。劇団に入ったばかりのフランシスにはわからない、複雑な事情が彼とモニカの間にはあるようだった。アイザックの煮え切らないような態度にギルバートがなにか言いかけた、その時だった。舞台上に現れた姿に、三人は一様に言葉を失った。
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