8.過去と秘密と・後
アイザック・リーヴズには婚約者がいる。生まれる前だか直後だか、ともかくその頃に決められた相手で、会う機会はほとんどない。ただ、長男でないとはいえアイザックももう二十八で、結婚適齢期はとうに過ぎている。少し待ってほしいと言い続けてもう五年は経つ。
(せめてあと二年)
ギルバートは今年十六になったばかりだ。役者としても、団長を任せるにしてもまだ未熟すぎる。モニカも演技はかなり上達したが、劇団を任せられるほどではないし、さっき言い合いになってしまったせいで気まずい。
モニカと初めて出会ったのは七年前、モニカが十一歳の時だった。十二の頃から続けていた演劇を、親や兄からもういい歳なんだからと言われて、家に居場所がなくなり始めた頃でもあった。
城で月に一度行われている舞踏会に引きずられて行った際、驚くほど綺麗な少女がいて思わず足を止めた。ただ綺麗だというだけでなく、その子はふてくされたような顔で広い会場の壁際に立っていて、それが余計に人の目を引いた。
それは多分、炉端にひとつだけぽつんと咲いた花に、思わず手を伸ばしたいと思うような、そういう衝動だったのかもしれない。
『美しいお嬢さん、一曲踊っていただけますか』
少女は差し出された手を一瞥すると、ふいと横を向いた。その横顔さえも美しく、アイザックは一瞬見惚れた。
『さっき一緒にいたのは、あなたの恋人でしょ? 残念だけど、恋人のいるような方とは踊りたくないの』
『…… 親が決めた婚約者なんて、一緒にいてもつまらないだけさ』
見惚れていたせいで返答が遅れ、そのうえ子どもに言うようなことじゃない話をしてしまった。彼女は長いまつげの下にある大きな瞳でアイザックを見返すと、不快そうに眉をひそめてみせた。
『退屈しのぎにちょっかいをかけられるのは慣れてるけど…… でも、嫌いよ』
少女はきっぱり言うとアイザックに背を向けた。
『うちの劇団に入らないか?』
去りゆく小さな背中に、気づけば声をかけていた。
こんこん、と部屋の扉を鳴らされアイザックは返事をして扉を開いた。
「子爵は?」
ギルバートがひょいと部屋の中をのぞきこんでくるのをたしなめながら「今はいない」と伝えると、彼は遠慮もせずに部屋に上がり込んだ。ため息を吐くアイザックをよそに、ギルバートはさっきまでアイザックが座っていた椅子にどかりと腰かけた。
「なんかさあ、モニカがめちゃくちゃ機嫌悪かったんだけど、ザック、あんたなんかした?」
「…………」
心当たりしかなくて、アイザックは思わず黙った。
「…… 例の話をした」
少しの沈黙のあとそう口にするとギルバートはへえ、と口にした。
「さっさと結婚すりゃあいいのに」
「おまえが一人前になったらな」
「そっちじゃなくて、モニカと」
突拍子もない提案をされて、アイザックは飲んでいた紅茶をむせそうになった。
「…… 馬鹿言うな」
「あんたが求婚したら喜ぶと思うけどね」
機嫌も直る、と言うギルバートは多分、自分の身の安全しか考えていないに違いない。現在行っている演目、『月夜に嘆く』でモニカと一番絡みが多いのはギルバートで、もっとも弊害を受けやすいと考えられるのは彼だから当然だが。
「…… しないよ。俺はあの子に芝居をさせてみたかっただけだ」
アイザックは立ち上がって窓の外に目をやった。向かいでギルバートが焦れたように立ち上がる。
「なあ、あんたが欲しかったのって本当に役者としてのモニカだけなの?」
アイザックはそっぽを向いたまま目を合わせない。じっと黙っている団長に、
「腰抜け」
とギルバートは吐き捨てるように言うと部屋をあとにした。
『だいたい、昔のことだって言うならお金のことだって水に流してくれたっていいじゃない。結局それって資金投資でしょう?』
中庭でモニカと言い合いになったのはつい昨日のことだ。彼女の言葉に「馬鹿なこと言うな」とたしなめてアイザックは眉間を押さえた。
『…… 言わなかったのは悪かったと思ってる。隠すつもりもなかったんだ。でもどのみち、俺は劇団がある程度大きくなったら辞めるつもりでいたし、彼女と結婚さえすれば君の言う通り資金投資として受け取っていいと言ってくれてるんだ。だから……』
『私はお金の話がしたいんじゃない』
モニカのはっきりとした口調に、アイザックは閉口した。
『お金なら興行を増やして少しずつでも返していけばいい。私が怒ってるのはあなたがその話を今の今まで黙ってたことよ』
『君たちにそんなことはさせられない。いいか、あの金は――』
『お金のことなんてどうでもいい。私はあなたとこれからも演技がしたいの』
まったくこちらの話を聞いてくれる気配のないモニカにアイザックはため息を吐いた。
『モニカ、頼むから聞き分けてくれ』
『もういい、そういうことなら私劇団を辞めるから』
『なに言ってるんだ』
一方的に話を断ち切ろうとしたモニカが先に茂みから外へ出て、姫と遭遇して―― それから一言も話していない。会ってすらいない。
―― あんたが欲しかったのって本当に役者としてのモニカだけなの?
ギルバートの言葉が頭の中で反響する。
壁の花、なんてありきたりな言葉じゃまったく足りないくらいの、美貌だけじゃない、彼女のまとう空気に魅了されて声をかけた。絶対にいい役者になるだろうという確信がそのときあって、それは間違いじゃなかった。
ただ綺麗なだけだった花のつぼみは、年を重ねるごとに、日を追うごとにどんどん匂いたつような、誰しもを魅了するような美しさをまとわせて。
摘み取るつもりなんてはじめからなかった。
どころか、ひとりだけのものにするだなんてまるでひどい大罪であるかのような気がして。
自分で土を変え、水を与えたくせに、いつのまにか触れるのが怖くなってしまった。
アイザックはごつんと窓に己の額をぶつけると、そのままぐっと目を閉じた。
祭事の準備から抜け出して、ユージーンは廊下の窓からミルドレッドの部屋がある棟を眺めた。
アンバー家は古くから王家に仕える名家だ。王配や王妃を輩出したことも何度かある。
対してホッジズは代々騎士団長を輩出してきた家柄で、長男以外は女子であれば嫁に、男子であれば養子に出すのが通例となっている。
―― 幼い頃、母は双子の兄であるフランシスにかかりきりであった。フランシスは体が弱く兄弟のはずの自分でさえ一緒に遊んだことはほとんどなかった。彼はそのまま、六つの頃にアンバー家の養子に出されてホッジズの屋敷からはいなくなった。
兄の体が弱くさえなければ、養子に出されるのは自分の方だった。どちらが自分にとって良かったのかはわからない。ホッジズに残って騎士にならなければミルドレッドのそばにはいられなかったが、アンバー家に養子に入っていたならミルドレッドの夫となる未来もあったのかもしれない。
と、そこまで考えてユージーンはぶんぶんと頭を振った。
(…… 俺は何を)
そばにいられるだけでいいはずだったのに、あの男の顔がちらつくたびにその考えが揺らぐ。
もう戻ろう、と踵を返そうとしたところで、廊下の角を曲がってきた姿と目が合う。自分と同じ背丈が、そこでぴたりと止まった。そして何事もなかったかのように再び歩き出して、ユージーンとすれ違おうとする。
「―― なんで戻ってきたんだ」
すれ違いざま投げかけると、フランシスは「べつに」と口の中でつぶやいた。
「おまえもいただろ。成人のあいさつ」
「それだけか?」
ユージーンの重ねての問いにフランシスが弟を振り返らぬまま言った。
「おまえに関係ない」
「か――!」
「おまえさあ」
フランシスを引き留めようと伸ばした手が、反対に低く怒気のこもったような声とともにつかまれる。
「人が欲しくても手に入らないもの全部持ってるくせに、これ以上なにが欲しいわけ?」
唇にはゆがんだ笑みをたたえて、フランシスは静かに震えていた。彼は自身を落ち着かせるようにふっと視線を落とすと、そのまま続ける。
「俺が騎士になれなかったのはべつにおまえのせいじゃないけど、それは俺だってわかってるけどさ。でも、おまえが今持ってるもののうちどれか一個くらい俺にくれたっていいじゃんか」
ずっと昔、まだ物心もつくかつかないかという頃、彼とおもちゃのとりあいになった。父が買ってきてくれた立派な船のおもちゃで、ユージーンも遊びたかったが母に「お兄ちゃんに遊ばせてあげようね」と言われて、結局一度もあのおもちゃでは遊ぶことができなかった。ふと今、そんなことを思い出した。
フランシスがいなくなったら、もしかすると両親は自分を見てくれるかもしれないと思った。でも、父も母も遠くへ行った息子を案じるばかりで、二人とも永遠に自分だけのものにはならないのだと知った。
そういう時だった。姫に出会ったのは。
独りぼっちで、弱くて、さびしがりやで、自分にどこか似ていた。
…… この先、もし、もしも彼女のそばにいられない時が来たとしても、あの時の出会いと、過ごした日々を心の支えにしてやっていけると思っていた。でも、ミルドレッドが自分とは違う思い出を持っているのだと知って、今までやっとのことで均衡を保っていたなにかが崩れそうになっている。
「おまえが何しようが俺は干渉しない。だから代わりに俺のことも放っといてくれよ」
ユージーンの手をつかんでいたフランシスの手が離れる。
(ああ。俺は)
この先なにを支えにしていけばいいんだろう。
城下、城のほぼ裏手と言っていいホッジズの屋敷に帰るとまず母がユージーンを出迎えた。
「あら、珍しい。今日は宿舎じゃなくてこっちに泊まるの?」
「いや、ちょっと寄っただけ」
答えてから、家の中をきょろきょろと見回す。
「だれか、俺より先にここに来たりした?」
「だれかって? お父様なら、ずっとお城よ。あなたのほうが詳しいでしょうに」
母ののんびりした口調にユージーンはじれったそうに「いや、そうじゃなくて」と口にした。
「たとえば、たとえばその…… アンバー卿とか……」
「あら、お会いしたの? ちゃんとごあいさつした? フランもいたでしょう。元気だった?」
アンバー卿の名を出した途端変わる顔色に、思わずユージーンは顔をしかめる。
「そんなに気になるなら会いに行けば」
「そうもいかないわよ」
息子の顔を見ないまま、母は侍女が持ってきた茶を自分で入れ始める。それも二人分。
「もうとっくに人様の子だもの。―― ほら、座って。少し話していく時間くらいはあるんでしょう?」
勧められるのを断り切れずに席に着く。やっぱり来るんじゃなかった。フランシスの動向だけ確認するつもりが、思わぬ時間を取らされそうだ。急いで飲んで戻ればいいかと思って母の話を聞き流しつつ茶を飲んでいると、屋敷にだれかが帰ってきたような音がする。
といっても帰ってくるのは一人しかいない。ユージーンは、姿を見る前に立ち上がる。帰ってきた人物は、息子がいるのを認めるとわずかに眉を上げた。
「おまえ、姫様はどうした?」
「…… 呼ばれていないので」
ユージーンの返答にそうか、と短く言って頷くホッジズとは反対に、夫人が口を開く。
「でも、ついこの間あんな事件があったばかりじゃない。そばにいて差し上げないとだめよ」
自分の方から引き留めておいてと思ったが、それもそうだと思い直す。ちょうど偶然、姫についていった時に同僚が負傷して、姫はずいぶん気に病んでいたようだった。それも、フランシスのことで多少緩和されたように見えるが。それにその前、王となにかあったようだったし。
「…… うん。あの時はずいぶん動揺してたし、その前から…… 少し陛下となにかあったみたいで、俺の部屋で寝たがったくらいだし」
姫のことに想いを馳せつつ話していると、ふいに父の顔が険しいものへと変わった。
「まさかおまえ、部屋に入れたんじゃないだろうな」
「いえ、まさか。きちんと姫の部屋にお送りしました。そのあとに事件の詳細を聞いて……」
と、母が父の腕を引いた。訝しげな顔のまま身を母に合わせてかがめた父に、母が唇を寄せる。
「いいじゃありませんか。少しくらい―― この子がなにかできるような度胸がないことくらいあなただっておわかりでしょう」
「いや、なに言って……」
「あの、俺そろそろ」
何事かこそこそと話している両親に、ユージーンは声をかけた。
「明日は式典なので、宿舎の方に戻ります」
「あ、待って、ユージーン」
玄関に向かおうとすると、母に呼び止められる。
「できるだけ、姫様のそばにいて差し上げなさいね。きっとお心細く思っておいででしょうから」
「そばにって…… 明日からの祭事はほとんどずっと騎士の……」
「少しでも時間が空いたら会いに行くのよ。朝でも昼でも」
はあ、とユージーンは首を傾げつつ聞いて、屋敷をあとにした。
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