3.演技と嘘と・前

(二)


「ミルドレッド様だろう、そりゃあ」

 訓練場の片隅で、若い騎士が剣の手入れをしながら呟いた。

「確かに陛下こそ長子じゃあないが、その前まではずっと長子が継いでたんだぜ。どっかでもとに戻しとかないと、国が荒れるだろう」

「それはそうだがなあ」

 もう一人がいいながらあごに手を当てる。

「でも、素質はベンジャミン様のがずっとおありだぜ。ミルドレッド様はろくに勉強もなさらずにあっちこっちふらふらして―― そら、今だって礼拝に行くといやあ聞こえはいいが、肝心のお目当ては……」

 と、ふいに聞こえた足音に、騎士たちは声を止めた。そしてそこへ現れた男を見るや、深々と頭を下げる。

「ご苦労」

 男が言うと、騎士二人は「はっ」と短く言って居住まいを正した。

「団長殿も、お疲れ様であります」

「うむ」

 ホッジズ団長は二人をじっくり見ると再び口を開いた。

「陛下がまだお若いうちからそのような話をするものではない。不謹慎であるぞ」

「申し訳ありません」

「以後そのような話は慎むよう――」

「まあ、よいではないか」

 団長の厳しい声をさえぎるように、若い―― というよりは幼く、涼やかな声が聞こえ、三人は一斉に振り返った。

 穏和というよりは気の弱そうな顔立ちは父王よりも実母である王妃に似て、しかしどこか近寄りがたい雰囲気があるのは元来の内気な性格が災いしてのことだろうか。

「二人とも、この国を案じてくれていたのだよな」

 ありがとうとベンジャミンが口にすると、騎士らは大層かしこまった様子でばつが悪そうにうつむいた。



「―― 早く大人になりたい」

 ベンジャミンは訓練場から出るなり、ホッジズに向かって呟いた。

「僕は人望もないし、人前に出るのも嫌いで…… 民たちが隠れて言うように、僕は王には向いていないし、なるべきじゃないのだと思う」

「それは」

 ホッジズがうつむきながら歩く王子の後ろでためらいがちに言う。

「陛下がお決めになることです」

「もちろんだとも」

 王子はきっぱりと言った。

「だから早く成人して、一刻も早く父が僕を楽にしてくださることを望むばかりだ。姉にもしかしたら嫌われているかもだなんて思いながら過ごすのは、もういやだ」



 大神殿には、多くの人々が集っていた。主日の礼拝に参加できなかった代わりに、ミルドレッドは月に二度、大神殿の広場で行われる炊き出しに顔を出していた。城下でもミルドレッドは何度か神殿主催のものに顔を出したことがある。人気取りだと言われても、気休めだと言われても、ミルドレッドは顔を出して手伝うのをやめられなかった。

「お腹がすく人も時間も、少ないほうがいいものね」

「まったくです」

 ユージーンにしては珍しい心情のこもった一言に、ミルドレッドは思わず噴き出した。

 ミルドレッドは昔、ユージーンと一緒に飢え死にしかけたことがある。飢え死には言い過ぎだが、四歳のころ、城に来たばかりの時に、母が亡くなったこと、ふいに住んでいたところから連れ出されたのが理解できずに城を飛び出した。家に帰りたいとごねるミルドレッドをまだ幼かったユージーンが必死になだめてくれたがミルドレッドはなかなか城に帰らず―― とはいってもたった四つの子どもが行く場所なんて限られているし、実際城下の橋の下に半日ほどいたわけだが―― 腹が減ってどうしようもなかったのをよく覚えている。幼かったがゆえに帰り道がわからず途方に暮れた。当然、夕方前には城の者たちが見つけ出してくれたのだが、当時は誰にも見つけ出してもらえなかったらという不安でいっぱいだったのである。

 炊き出しを終えると、ミルドレッドは大神殿の中で与えられた部屋に戻った。

「明後日の今ごろはもう城に向かっているわね」

 ため息交じりに言うと、ユージーンが律儀にそうですねと返してきた。

「明日の観劇は楽しみではないのですか?」

「そりゃ楽しみよ」

 あたりまえじゃないとミルドレッドは言った。

「でもね、明後日にはもう戻るんだと思うと、憂鬱だわ。だって私、ベンと比べられるためにあそこにいるんじゃないもの。早くお父様がどっちが王様だった言ってくださればいいけれど、そうもいかないでしょう。でも、ベンの方が王に向いてるのは確かなんだから、あまり待たせないでほしいわ。みんなわかってることだもの。私は王位になんて興味はないし、ただ……」

「姫様」

 ベンに嫌われてさえいなければそれでいい、そう言おうとしたミルドレッドを、ユージーンが真剣な声でさえぎった。

「…… 姫様。それは、それはあまりにも勝手です。ベンジャミン様は……」

 ユージーンはそこで口ごもると、すみませんと口にして部屋を出て行った。

 勝手? 何が?

 ミルドレッドは困惑した。それから、背中を妙な汗がつたう。

(ユージーンを怒らせたかもしれない)

 いや、怒らせたことなら今まで何回もある。でも、今のは今までのそれとまったく違って、もしかしたら嫌われたとすら思わされた。

(嫌われる? 私が? ユージーンに?)

 考えたこともなかった。これからずっと、ずっとそばにいてくれるものだと思っていたし、ユージーンのいない生活なんて想像すらしなかった。

 突然襲ってきたのは、例えようのない恐怖だった。ユージーンが隣からいなくなって、それでも変わりなく何事もなく過ぎていってしまう日常や歳月を思うと、心底ぞっとした。



 朝の礼拝も身が入らず、ぼんやりしたまま参加した。ユージーンは思いのほかいつも通りで、それがかえって怖かった。

『勝手です』

 昨日のユージーンの言葉がよみがえってくる。本来の目的であった主日の礼拝に参加できなかったぶんもせめて真面目に振る舞っておかねばと朝の礼拝が終わってからもしばらく礼拝堂にいたが、一人でただ祈りを捧げているとどうしても考え事が多くなってしまっていけない。部屋に戻った方がまだ侍従に話しかけることができるだけましである。―― ユージーンには、まだ気まずくて話しかけることができないが。

「お嬢さん」

 礼拝堂から立ち去ろうとしたその時、後ろからかけられた声にミルドレッドは振り向いた。

「落とされましたよ」

 目の前には額に幅広の布を巻きつけた男が立っていた。背はユージーンと同じくらいで、布のせいで表情はよくわからない。見るからに怪しい男だった。

「…… どうもありがとう」

 受け取った瞬間、ミルドレッドはハンカチの間に紙切れのようなものが挟まっているのに気がついた。男を見ると、彼はにやりと口元だけで笑ってみせた。

 いつもならミルドレッドの反応にユージーンがすぐさま気づくはずだった。でも今日は違った。昨日の一件から、ユージーンはミルドレッドから物理的に距離を取っていた。そのせいで、ユージーンは姫の手中にあるものの存在にも気がつかない。

 ミルドレッドは部屋に戻ってから聖書を読むふりをしてハンカチを開いた。普段であれば近くに立っているはずのユージーンは、今はいない。

『東殿の裏、杏の木の下で待つ―― フラン』

 あの怪しい男はフランというのか。ミルドレッドは背後に控える侍女の様子をそっとうかがった。観劇の時間までどうせ暇だから行くのはいいが、無計画に出て行っても従者たちに見つかっておとがめを受ける羽目になる。ミルドレッドは何気なく机に置かれた聖書を見て「あら?」と声を上げた。

「いかがされましたか?」

 尋ねてくる侍女にミルドレッドはたいへんに困った顔をしてみせる。

「この聖書、古いせいかしら、落丁があるわ」

「すぐに替えてまいります」

 助かるわ、と伝えて、彼女がいなくなったのを確認してから部屋の外の様子をしっかりとうかがう。しばらくして、窓からそっと抜け出す。ミルドレッドにあてがわれていたのは、主に王族が使うための北殿だから少し歩くことになるが……。待ち合わせに失敗する可能性にはらはらしながら歩いていたミルドレッドは、目的の人物の姿を見つけるや心底ほっとした。

「やあ、お嬢さん。まさか来てくれるとはね」

 男は額の布を押さえながらこちらを見て微笑んだ。

「夕方から観劇なの。かの有名な〈グラス・ホッパー座〉のね。それまでに終わる用事?」

 ミルドレッドが〈グラス・ホッパー座〉の部分を強調して自慢げに言うと、男は「そうだと思った」と言ってまた笑った。

「もちろんさ。心配しなくていい。どころか、これから行く場所を聞いたらお嬢さん、びっくりすると思うよ」

 お嬢さんという呼び方にミルドレッドはふと、ユージーンのことを思い出す。ユージーンを含めた従者たちは、こういったお忍びの場ではミルドレッドのことをお嬢様と呼ぶ。

「お嬢さん、はやめてくれる? 好きな呼び方じゃないわ」

「じゃあ何と呼べばいい?」

 もっともな返しに、ミルドレッドは口ごもる。

「…… ミリー」

「それじゃあミリー嬢だ」

 結局お嬢さんになってしまった。でも、まあ聖都なら似たような風体の人物も、貴族の出入りも多いし、外套のフードを被ってさえいれば大丈夫だろう。

「あなたは? 手紙に書いてあったのがあなたの名前なの?」

「ああ。みんなフランって呼ぶよ」

 フランはにやりと笑いながら答えた。



 連れていかれたのは劇団の所有するような小屋だった。といっても〈山猫一座〉が使っていたものとは規模がまるで違う。客席の数は〈山猫一座〉の何倍もある。ミルドレッドは周囲を見回して言った。

「ここって……」

 客席の隅にある幕を持ち上げながらフランは口を開く。

「これから準備して最後の予行練習だからさ、見てってよ」

 そう言われて入った舞台裏には何人ものよく見知った顔がある。

「なんだ新人、遅れたうえに女を連れてやってくるなんていいご身分だな」

 皮肉っぽく言いながら奥から出てきたのは、繊細な演技と甘く整った顔が女性に人気の役者ギルバートだ。

「いいご身分なのはあなたもじゃないの、ギル。ここにいるほとんどの団員はいわゆる『いい身分』の人たちだと思うけど?」

 質素なドレスに身をまといつつも歴然たる美しさを溢れさせているのはその美しさと幅広い演技が魅力の役者モニカ。

 どちらも〈グラス・ホッパー座〉の看板役者だ。

 ここは〈グラス・ホッパー座〉の小屋だ。

 気づいた瞬間、ミルドレッドの両足からぶわりと熱いなにかが駆け上がった。同時に、「なんてことをしてくれたんだ」という思いでフランを振り返る。〈グラス・ホッパー座〉は何度も城に来ているし、ミルドレッドと直接会ってもいる。顔をまともに見られたらすぐにばれてしまう。〈グラス・ホッパー座〉は主に上・中流貴族の次男や三男で構成された劇団なので、こんな場所に出入りしていることが噂となった暁には収集できなくなることは確実だ。

 好きな劇団の役者がそんなことをするとはミルドレッドだって到底思いたくないが、噂とは人から人へと伝わるごとにある程度ねじ曲がってしまうものである。

 十分気をつけなければと気を引き締めるミルドレッドのそばで、ギルバートがふんと鼻を鳴らした。

「別に構わないけどね、俺たちの邪魔だけはしないでくれよ、お嬢さん」

「…… ええ、もちろん。気をつけるわ」

 応援している人々の邪魔をする気など毛頭ないので、客席の隅にでも戻ることにする。ミルドレッドが言うと、モニカが不思議そうな顔で首をかしげる。

「なんだかあなたの声、どこかで……」

「え?」

 なかば呟くように口に出された言葉がうまく聞き取れず、ミルドレッドは反射で振り返る。すると狭い通路に積み上げられた荷物にミルドレッドの肩がぶつかり、不安定だった荷物が頭上で傾いた。フランがとっさにミルドレッドを引き寄せ、その反動でフードが外れる。

「―― ミルドレッド姫?」

 しまった、と思った時には遅かった。

 ギルバートと、モニカと、そしてフラン。三人がミルドレッドを見ていた。三人しか見ていなかったのがせめてもの幸いかもしれない。

 倒れそうになっている荷物を両手で押さえながら自身を見つめるギルバートの視線に耐えられずに、ミルドレッドは口を開く。

「ち―― 違うの。いえ、なにが違うと聞かれると困るのだけど……」

 ギルバートは荷物を押さえた体勢のまま茫然としていた。そして

「俺打ち首ですか?」

とようやくそれだけ言った。

「残念ね。淋しくなるわ」

 モニカが無感情に別れの言葉を口にすると、ギルバートの顔からいよいよ血の気が引いた。ミルドレッドは必死に頭を回転させた。失敗なんてできない。

「…… 今年」

 ミルドレッドはゆっくりと話し出した。嘘でもなんでも、でっち上げるのだ。

「祭事に招待する劇団からこの一座が外されたでしょう。それで私、どうしてもお詫びがしたくて、ここへ来たの」

 本物の役者からしたら芝居であることなど一瞬でわかってしまうかもしれない。ミルドレッドは内心どきどきしていた。するとギルバートが、いまだに血の気の引いた顔のまま口を開いた。

「それは…… たいそうお気にかけていただいて、恐縮です。ただ、こちらもそういった時勢は心得ていますので、これを機に様々な題材を演じてみようと団員一同気を引き締めております」

「そう……! よかったわ」

 どうやら誤魔化せたらしい。ミルドレッドは安堵に微笑んだ。

「〈グラス・ホッパー座〉は私のお気に入りだから、せめて興行だけでも観に来られたらと思って―― 来るならせっかくだから今日のお詫びもしたいと思って、さっきフランに無理を言って入れてもらったのよ。準備で忙しい時に、悪いとは思ったのだけれど」

「悪いだなんてそんな」

 なんとか成功だ。ミルドレッドは内心ほくそ笑む。

「少しだけ練習を見学させていただいてもいいかしら?」

「ええ、もちろん」

 モニカに促されて客席の一番端に腰かける。上演演目は最新の『月夜に嘆く』だ。ミルドレッドもまだ一度しか観ていない。

 ギルバートは主役の男の役だ。幼い頃に悪者にさらわれた彼、カストルが悪の手から脱出する場面から舞台は始まる。

『さあ、一歩踏み出すのよ、カストル』

 モニカが頭頂部で束ねた髪をなびかせて言う。

『なにを怖がるのよ。こんな狭くて暗いところで一生を終えるより怖いことなんてあるかしら? 私にはわからないわ』

 暗い地下で同じように悪に囚われていた女性ミラが、外の世界を知らずに怯えるカストルを説得する場面だ。ミラに説得されて、カストルは彼女とふたり、地下を飛び出す。仲間との出会いや別れを繰り返しながらカストルは、母国にたどりつく。

 場面が変わると、フランが現われた。彼は弟王子の役だった。以前観た時は弟王子は別の役者がやっていたはずだがと思い舞台を見渡すと、前に弟王子をやっていた彼は弟王子に仕える兵士の役になっていた。彼の演じる弟王子が個人的にかなり気に入っていただけに、ミルドレッドは役者の変更には不安を覚える。が、それは杞憂だったとすぐに思い知ることになる。

『あなたには、あなたにだけはわからない……! 僕のほしいものすべてを、すべてを、―― すべてを持っているあなたにだけは!』

 前の彼の豪胆な迫力ある演技も良かったが、なかなかどうしてフランの演技も悪くない。全体的に繊細で、妙な生々しさというか、説得力がある。自身に似たような経験があるんだろうか?

『あなたは勝手だ、あまりにも……。今までずっと城にいなかったくせに、僕の苦労も知らないで、僕の大切なものを取り上げようとなさる……』

「…………」

 ミルドレッドはユージーンのことを思い出していた。幼い頃にホッジズ団長に紹介されて仲良くするようになった。ベンジャミンにかかりきりだった両親のぶんもユージーンが遊んでくれていたように思う。そこではたと思い至る。

 ―― 次男のユージーンです。

 ホッジズはそう言った気がする。

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